昨晩の第57回東京盃。
好発のギシギシが一旦は先頭。それをドンフランキー,ジャスティン,マックスの3頭が追っていき,追い抜いたジャスティンとドンフランキーが並んで逃げるようなレースとなり,控えたギシギシが3番手。4番手にマックス。5番手はケイアイドリー。6番手にリュウノユキナとアルカウン。その後ろにエアアルマスとヘリオス。さらにマーチリリー,オマツリオトコと続いてここまでは一団。3馬身差でアポロビビ。3馬身差の最後尾にショウナンバルディ。前半の600mは34秒2のミドルペース。
直線の入口ではドンフランキーが先頭に。リュウノユキナが外から追い上げてきましたが届かず,直線先頭のドンフランキーがレコードタイムで優勝。リュウノユキナが1馬身差で2着。逃げたジャスティンが1馬身半差の3着。リュウノユキナのさらに外から追ってきたギシギシが半馬身差の4着。
優勝したドンフランキーは前々走のプロキオンステークス以来の勝利で重賞2勝目。1400mがベストかもしれませんが,このメンバーでは速力が上位。それを生かしての優勝。レコードタイムが出るような馬場になったのもプラスだったと思います。この距離だとリメイクには敵わないようなのですが,それ以外の馬たちよりは上位の能力があると判断してよいでしょう。父はダイワメジャー。
騎乗した池添謙一騎手と管理している斉藤崇史調教師は東京盃初勝利。
無限に多くのinfinita形相的本性essentia formalisがあって,それらの形相的本性に対応する無限に多くの思惟の属性Cogitationis attributumがあるというように解さなければならないのは,第二部定理七系で,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaは神が働く力と等しいipsius actuali agendi potentiaという主旨のことがいわれているからです。もしも単一の思惟の属性が無限に多くの形相的本性のすべてに対応するのであれば,働く力と思惟する力が等しいということにはなりません。あるいは,もしもある特定の形相的本性に対しては対応する思惟の属性がないというのなら,やはり働く力と思惟する力が等しいといえなくなってしまいます。よって,無限に多くの形相的本性があって,その各々に対応する無限に多くの思惟の属性があるというように解さなければならないのです。
このとき,Aの属性に対応する思惟の属性と,Bの属性に対応する思惟の属性は,同じように思惟の属性ではあるのですが,その区別distinguereは実在的区別なのです。スピノザは属性についてこのことを何かいっているわけではありません。ただ,書簡六十五のチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの質問に答えている書簡六十六は,属性Aの様態modiであるaの観念ideaと,属性Bの様態であるbの観念は,実在的に区別されなければならないという主旨のことをスピノザがいっているのだと僕は解します。これはつまり,属性Aに対応する思惟の属性と,属性Bに対応する思惟の属性が,実在的に区別されるといっているのと同じです。
もう少し『エチカ』にひきつけていえば,上述の例でもしもaの観念とbの観念が実在的に区別されるのではなく様態的に区別されるのであれば,Aの属性の様態である何らかの知性intellectusは,aの観念を認識するcognoscereことができるのはもちろんのこと,bの観念も認識することができることになります。チルンハウスはそのように解していたのです。だからaの観念とbの観念が様態の差異としてのみ区別されるのなら,aを認識することができるけれどもbを認識することができない知性があるというのは不条理だとチルンハウスはいいました。つまり知性はaの観念を有することもできるしbの観念も有することができると主張したのです。このチルンハウスの論理構成は正しいものといわなければなりません。
好発のギシギシが一旦は先頭。それをドンフランキー,ジャスティン,マックスの3頭が追っていき,追い抜いたジャスティンとドンフランキーが並んで逃げるようなレースとなり,控えたギシギシが3番手。4番手にマックス。5番手はケイアイドリー。6番手にリュウノユキナとアルカウン。その後ろにエアアルマスとヘリオス。さらにマーチリリー,オマツリオトコと続いてここまでは一団。3馬身差でアポロビビ。3馬身差の最後尾にショウナンバルディ。前半の600mは34秒2のミドルペース。
直線の入口ではドンフランキーが先頭に。リュウノユキナが外から追い上げてきましたが届かず,直線先頭のドンフランキーがレコードタイムで優勝。リュウノユキナが1馬身差で2着。逃げたジャスティンが1馬身半差の3着。リュウノユキナのさらに外から追ってきたギシギシが半馬身差の4着。
優勝したドンフランキーは前々走のプロキオンステークス以来の勝利で重賞2勝目。1400mがベストかもしれませんが,このメンバーでは速力が上位。それを生かしての優勝。レコードタイムが出るような馬場になったのもプラスだったと思います。この距離だとリメイクには敵わないようなのですが,それ以外の馬たちよりは上位の能力があると判断してよいでしょう。父はダイワメジャー。
騎乗した池添謙一騎手と管理している斉藤崇史調教師は東京盃初勝利。
無限に多くのinfinita形相的本性essentia formalisがあって,それらの形相的本性に対応する無限に多くの思惟の属性Cogitationis attributumがあるというように解さなければならないのは,第二部定理七系で,神が思惟する力Dei cogitandi potentiaは神が働く力と等しいipsius actuali agendi potentiaという主旨のことがいわれているからです。もしも単一の思惟の属性が無限に多くの形相的本性のすべてに対応するのであれば,働く力と思惟する力が等しいということにはなりません。あるいは,もしもある特定の形相的本性に対しては対応する思惟の属性がないというのなら,やはり働く力と思惟する力が等しいといえなくなってしまいます。よって,無限に多くの形相的本性があって,その各々に対応する無限に多くの思惟の属性があるというように解さなければならないのです。
このとき,Aの属性に対応する思惟の属性と,Bの属性に対応する思惟の属性は,同じように思惟の属性ではあるのですが,その区別distinguereは実在的区別なのです。スピノザは属性についてこのことを何かいっているわけではありません。ただ,書簡六十五のチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの質問に答えている書簡六十六は,属性Aの様態modiであるaの観念ideaと,属性Bの様態であるbの観念は,実在的に区別されなければならないという主旨のことをスピノザがいっているのだと僕は解します。これはつまり,属性Aに対応する思惟の属性と,属性Bに対応する思惟の属性が,実在的に区別されるといっているのと同じです。
もう少し『エチカ』にひきつけていえば,上述の例でもしもaの観念とbの観念が実在的に区別されるのではなく様態的に区別されるのであれば,Aの属性の様態である何らかの知性intellectusは,aの観念を認識するcognoscereことができるのはもちろんのこと,bの観念も認識することができることになります。チルンハウスはそのように解していたのです。だからaの観念とbの観念が様態の差異としてのみ区別されるのなら,aを認識することができるけれどもbを認識することができない知性があるというのは不条理だとチルンハウスはいいました。つまり知性はaの観念を有することもできるしbの観念も有することができると主張したのです。このチルンハウスの論理構成は正しいものといわなければなりません。