『はじめてのスピノザ』の考察の中で書簡六十八に言及しましたので,これをもう少し詳しく説明しておきます。
これは書簡六十二の返信としてスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに出されたものです。1675年9月に書かれたもので遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
書簡六十二は同年7月22日付。スピノザはこの手紙を受け取った後で,このとき住んでいたハーグからアムステルダムAmsterdamに赴きました。これは『エチカ』の印刷のためです。つまりスピノザはこの時点では『エチカ』を出版しようと企てていたのです。それは同時に,この時点で『エチカ』は完成していた,現在と同じ形か少なくともほとんど同じ形になっていたことを意味します。アムステルダムでは間違いなくリューウェルツJan Rieuwertszに会ったでしょう。ところが,『エチカ』が出版されるという噂が広まってしまいました。遺稿集の編集に関わった人びとはそれを漏らすようなことはなかったと推測するのが妥当なので,どうしてこのことが外部に漏れたのかは謎ですが,この時点ではスピノザを含めその友人たちは,『エチカ』を出版することができるということについて,楽観していたのかもしれません。
この機に乗じて神学者やデカルト主義者たちのスピノザに対する攻撃が大きくなったため,スピノザは『エチカ』の出版を断念しました。おそらく身の危険を感じるところがあったのでしょう。スピノザは出版を完全に諦めたわけではなかったのですが,時間の経過とともに状況が悪化しているように感じていました。ですからすでにこのときには,『エチカ』出版することはできないかもしれないというように思い直していた可能性が高かったのだと僕は考えます。
こうしたことをオルデンブルクへの返事として書いているのは,オルデンブルク自身が『エチカ』の出版に関して忠告を与えていたからです。なのでスピノザはその忠告に関して,どのように対応するのがよいのかということ,またすでに出版されていた『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』のどこが問題かを具体的に指摘してほしいと依頼しています。
永遠に存在する神と,永遠には存在しない神,いい換えれば持続duratioのうちに存在する神を比較すれば,永遠に存在する神の方が完全であるのは明らかだと僕は考えます。そして自由意志voluntas liberaによって存在する神は,永遠には存在し得ない,存在するとしても持続のうちにしか存在し得ないので,その神が最高に完全summe perfectumであることはできないのです。少なくとも,それ自身の本性naturaの必然性necessitasによって神が存在するとすれば,この神はその本性が与えられさえすれば存在することになり,この場合は永遠に存在することとなるからです。
このことは僕がいう真理veritasの観点,すなわち思惟の様態cogitandi modiとして,つまり僕たちが神を認識するcognoscereあり方という観点から理解した方が,分かりやすいという場合もあるかもしれません。それが概念されたときに,そのものが存在しないと考えられるものと,そのものが存在するとしか考えられないものがあったとして,どちらがより完全なものを認識しているのかといえば,存在するとしか考えられないものを認識した場合になるからです。そこで,自由意志によって存在する神は,まさに自由意志によって存在すると認識されているがゆえに,その神は存在しないという場合も概念されるのであって,これは存在しないと考えられるものが概念されていることになります。これに対してそれ自身の本性によって存在する神が認識される場合は,その本性が十全に概念されればその中にその神の存在existentiaも含まれることになりますから,存在するとしか考えられないものが概念されていることになります。よってそれ自身の本性によって存在する神は,自由な意志によって存在する神より完全であると認識されることになります。なので,自由意志によって存在する神は最高に完全ではあり得ません。
事情はこのようになっているので,スピノザは確かに最高に完全であるということをその特質proprietasとして有する神として,第一部定義六にあるように,神の本性を絶対に無限absolute infinitumと定義したのです。しかし逆にそのことが世の反感を買うことになりました。それはデカルト主義者たちの反感であり,またキリスト教徒たちの反感です。ただ,ここではそれと別のことを探求していきます。
これは書簡六十二の返信としてスピノザからオルデンブルクHeinrich Ordenburgに出されたものです。1675年9月に書かれたもので遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
書簡六十二は同年7月22日付。スピノザはこの手紙を受け取った後で,このとき住んでいたハーグからアムステルダムAmsterdamに赴きました。これは『エチカ』の印刷のためです。つまりスピノザはこの時点では『エチカ』を出版しようと企てていたのです。それは同時に,この時点で『エチカ』は完成していた,現在と同じ形か少なくともほとんど同じ形になっていたことを意味します。アムステルダムでは間違いなくリューウェルツJan Rieuwertszに会ったでしょう。ところが,『エチカ』が出版されるという噂が広まってしまいました。遺稿集の編集に関わった人びとはそれを漏らすようなことはなかったと推測するのが妥当なので,どうしてこのことが外部に漏れたのかは謎ですが,この時点ではスピノザを含めその友人たちは,『エチカ』を出版することができるということについて,楽観していたのかもしれません。
この機に乗じて神学者やデカルト主義者たちのスピノザに対する攻撃が大きくなったため,スピノザは『エチカ』の出版を断念しました。おそらく身の危険を感じるところがあったのでしょう。スピノザは出版を完全に諦めたわけではなかったのですが,時間の経過とともに状況が悪化しているように感じていました。ですからすでにこのときには,『エチカ』出版することはできないかもしれないというように思い直していた可能性が高かったのだと僕は考えます。
こうしたことをオルデンブルクへの返事として書いているのは,オルデンブルク自身が『エチカ』の出版に関して忠告を与えていたからです。なのでスピノザはその忠告に関して,どのように対応するのがよいのかということ,またすでに出版されていた『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』のどこが問題かを具体的に指摘してほしいと依頼しています。
永遠に存在する神と,永遠には存在しない神,いい換えれば持続duratioのうちに存在する神を比較すれば,永遠に存在する神の方が完全であるのは明らかだと僕は考えます。そして自由意志voluntas liberaによって存在する神は,永遠には存在し得ない,存在するとしても持続のうちにしか存在し得ないので,その神が最高に完全summe perfectumであることはできないのです。少なくとも,それ自身の本性naturaの必然性necessitasによって神が存在するとすれば,この神はその本性が与えられさえすれば存在することになり,この場合は永遠に存在することとなるからです。
このことは僕がいう真理veritasの観点,すなわち思惟の様態cogitandi modiとして,つまり僕たちが神を認識するcognoscereあり方という観点から理解した方が,分かりやすいという場合もあるかもしれません。それが概念されたときに,そのものが存在しないと考えられるものと,そのものが存在するとしか考えられないものがあったとして,どちらがより完全なものを認識しているのかといえば,存在するとしか考えられないものを認識した場合になるからです。そこで,自由意志によって存在する神は,まさに自由意志によって存在すると認識されているがゆえに,その神は存在しないという場合も概念されるのであって,これは存在しないと考えられるものが概念されていることになります。これに対してそれ自身の本性によって存在する神が認識される場合は,その本性が十全に概念されればその中にその神の存在existentiaも含まれることになりますから,存在するとしか考えられないものが概念されていることになります。よってそれ自身の本性によって存在する神は,自由な意志によって存在する神より完全であると認識されることになります。なので,自由意志によって存在する神は最高に完全ではあり得ません。
事情はこのようになっているので,スピノザは確かに最高に完全であるということをその特質proprietasとして有する神として,第一部定義六にあるように,神の本性を絶対に無限absolute infinitumと定義したのです。しかし逆にそのことが世の反感を買うことになりました。それはデカルト主義者たちの反感であり,またキリスト教徒たちの反感です。ただ,ここではそれと別のことを探求していきます。