スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

書簡七十二&憎しみと排他的思想

2018-03-09 19:02:13 | 哲学
 シュラーGeorg Hermann Schullerからの書簡七十に対するスピノザの返信が書簡七十二です。
                                     
 書簡の冒頭では,チルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからの哲学的質問に対する解答がなされています。ただこれは質問自体が不可解なものでした。スピノザが示していることだけいえば,ひとつは第一部公理四第二部定理五は矛盾しないということで,もうひとつは観念対象ideatumが観念ideaの起成原因causa efficiensであることを第二部定理五は否定しているということです。これはどちらも『エチカ』を読めば明らかです。スピノザはシュラーか,シュラーに宛てられたチルンハウスの書簡の中に誤植があるのではないかと推測しています。そうだった可能性が高いでしょうが,チルンハウスが『エチカ』の草稿を書写するときに何か書き間違いがあったという可能性も完全には否定できないでしょう。
 その後で,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizについて触れられていて,手紙を通して知っている人物であるといっています。なおこの書簡七十二も書簡七十と同様に,遺稿集Opera Posthumaへの掲載が見送られています。これもシュラーによるライプニッツへの配慮でしょう。また,スピノザがいっている手紙というのは書簡四十五だけを指すわけではなく,間違いなく行われた筈の,その後の文通も含まれていると思われます。書簡七十でシュラーが触れているのは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』に関係する手紙で,書簡四十五の内容に合致せず,スピノザがこの書簡でいっている手紙はシュラーが言及している手紙の方を意味していると解するのが妥当だからです。
 ライプニッツに『エチカ』の草稿を読ませることは,文脈上は今の時点ではと解釈もできますが,スピノザは拒否しています。理由としては,フランクフルトの顧問官だったライプニッツがパリにいる理由が不明だからだとしています。つまりスピノザはライプニッツがスパイのような存在かもしれないと思ったのでしょう。ただしこのスピノザの指令は守られなかった可能性もあるとみておくべきだと思います。
 最後にふたつほど,書簡七十に対する返信がありますが,これらは哲学的にはあまり重要ではありません。

 他人に対する憎しみodiumが善bonumではあり得ないということが理解できれば,スピノザがなぜ憎しみを,より限定すれば他人への憎しみを一律的に否定するのかということも理解できるでしょう。そして第三部諸感情の定義二〇により,憤慨indignatioはまさに他人に対する憎しみの一種であるのですから,それが一律的に否定されなければならないということも理解できます。繰り返しになりますが,憤慨には正当も不当もないというのがスピノザの哲学的における基本的な前提になります。ですからスピノザ主義者は,自身が感じる憤慨に対しても,理性ratioに基づく善ではあり得ないことを忌避しまた破壊する欲望cupiditasを育むことによって,自由の人homo liberとしてこの感情affectusに対処しなければならないということになります。
 なお,憎しみに対処することで自身の排他的感情を抑制し,また排他的思想を有する人びとに対抗しなければならないということは,すでに排他的思想を産出する第一の感情として示した,不安metusの場合にも同様です。というのは,ある特定の個人ないしは人間集団に対して恐怖metusを感じるということは,第三部諸感情の定義一三が示すように,不安が悲しみtristitiaの一種である限り,そうした特定の個人ないしは人間集団を原因とする観念ideaを伴った悲しみを感じているというのと同じなのであって,これは第三部諸感情の定義七にあるように,その特定の個人あるいは人間集団に憎しみを抱いているのと同じであるからです。ただ,不安というのはその定義Definitioから理解できるように,必ずしも他人が対象となることが前提とされる感情ではありません。これに対して憤慨は他人に対する憎しみの一種なので,僕は憤慨については憎しみそのものについての否定によって説明しました。つまり同様の方法で,他人に対する恐怖についても,それが否定されるべき感情であるということは説明できるということになります。
 したがって,排他的思想を有する人というのを,僕は悲しみに隷属している人間であると規定しましたが,排他的思想というものが必然的にnecessario他者に対する思想であるということに注目するなら,排他的思想を有する人は,憎しみに隷属している人であるということもできるでしょう。
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