第2回ルーキーズサマーカップ。
ライトスリーが逃げて2番手にリヴェルベロ。3番手にクマノコ。4馬身差でファイアトーチとヤギリケハヤ。2馬身差でオニアシ。2馬身差でユウユウキーンとシェナノパリオ。前半の600mが37秒2のミドルペースでした。
3コーナーではライトスリーとリヴェルベロが抜け出し3番手のクマノコとの差は3馬身くらい。直線に入ると逃げたライトスリーがリヴェルベロとの差を広げていき,楽に逃げ切って優勝。2番手追走のリヴェルベロがそのまま流れ込んで7馬身差の2着。後方から大外を追い込んだシェナノバリオが3馬身差で3着。
優勝したライトスリーはデビューからの3連勝で南関東重賞制覇。ここは連勝で挑んできた馬が3頭いて,それらの争いかと思われましたが,ほかの2頭は崩れました。結果からいうとこの馬のスピードが他を大きく上回っていたということでしょう。現時点での完成度がほかの馬よりもかなり高いように思われますので,今後の活躍はさらなる上積みがどれほど残っているのかという点にかかっていると思います。SPAT4のPOGの僕の指名馬に対する評価という点は心得ておいてください。
騎乗した大井の笹川翼騎手は平和賞以来の南関東重賞19勝目。その後にJBCスプリントも制しています。ルーキーズサマーカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞68勝目。ルーキーズサマーカップは初勝利。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の当該部分には,レベッカが故人の姉と記述され,スピノザが死んだスペイクの家のことが,弟の死んだ家と書かれています。しかしこれは僕の推測では訳語上のことです。原文はたぶんレベッカは故人の英語でいえばsisterと書かれ,家の方はbrotherが死んだ家と記述されているものと思います。ただ,故人の姉妹とか兄弟が死んだ家では,日本語としては座りが悪いです。なので訳者である渡辺義雄が,故人の姉,弟の死んだ家という訳を選んだのでしょう。

渡辺が故人の妹と訳さずに故人の姉と訳し,兄の死んだ家ではなく弟の死んだ家と訳したのは,定説に従ったためと思います。少なくとも渡辺は,吉田のように資料を検討してレベッカがスピノザの姉であるか妹であるかを調査したとは思われませんので,渡辺がこれを訳した時点での研究成果に則って,レベッカをスピノザの姉と訳したのは間違いないと思います。ただ定説でそうなっているので,これが誤訳であるという批判はまったく当たらないでしょう。
しかし吉田は,レベッカはスピノザの姉ではなくて妹だったのではないかという説を展開しています。その説がどう展開されているのかを詳しく紹介します。そうしないと僕の結論を示すこともできないからです。
まず吉田は,レベッカがスピノザの姉であった可能性を全面的に否定しているわけではありません。むしろそういう可能性もあったということは認めています。そう考える利点を吉田は次の点にみています。
ミリアムMiryam de Spinozaは1650年に結婚したのですが,1651年に子どもを産んだ後,おそらく産後の肥立ちが悪かったため死んでしまいます。このためミリアムの結婚相手であった男と,幼子が残されてしまいました。この結婚相手だった男はその後に再婚するのですが,この再婚相手がほかならぬレベッカだったのです。幼子が残された男の再婚は,早い方がよかったとすれば,ミリアムが死んでからレベッカと結婚するまでの期間はそれほどなかったと考えられます。レベッカがスピノザの姉であったとすれば,この1651年という時点では20歳前後です。嫁ぐのには問題ない年齢です。
ライトスリーが逃げて2番手にリヴェルベロ。3番手にクマノコ。4馬身差でファイアトーチとヤギリケハヤ。2馬身差でオニアシ。2馬身差でユウユウキーンとシェナノパリオ。前半の600mが37秒2のミドルペースでした。
3コーナーではライトスリーとリヴェルベロが抜け出し3番手のクマノコとの差は3馬身くらい。直線に入ると逃げたライトスリーがリヴェルベロとの差を広げていき,楽に逃げ切って優勝。2番手追走のリヴェルベロがそのまま流れ込んで7馬身差の2着。後方から大外を追い込んだシェナノバリオが3馬身差で3着。
優勝したライトスリーはデビューからの3連勝で南関東重賞制覇。ここは連勝で挑んできた馬が3頭いて,それらの争いかと思われましたが,ほかの2頭は崩れました。結果からいうとこの馬のスピードが他を大きく上回っていたということでしょう。現時点での完成度がほかの馬よりもかなり高いように思われますので,今後の活躍はさらなる上積みがどれほど残っているのかという点にかかっていると思います。SPAT4のPOGの僕の指名馬に対する評価という点は心得ておいてください。
騎乗した大井の笹川翼騎手は平和賞以来の南関東重賞19勝目。その後にJBCスプリントも制しています。ルーキーズサマーカップは初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞68勝目。ルーキーズサマーカップは初勝利。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』の当該部分には,レベッカが故人の姉と記述され,スピノザが死んだスペイクの家のことが,弟の死んだ家と書かれています。しかしこれは僕の推測では訳語上のことです。原文はたぶんレベッカは故人の英語でいえばsisterと書かれ,家の方はbrotherが死んだ家と記述されているものと思います。ただ,故人の姉妹とか兄弟が死んだ家では,日本語としては座りが悪いです。なので訳者である渡辺義雄が,故人の姉,弟の死んだ家という訳を選んだのでしょう。

渡辺が故人の妹と訳さずに故人の姉と訳し,兄の死んだ家ではなく弟の死んだ家と訳したのは,定説に従ったためと思います。少なくとも渡辺は,吉田のように資料を検討してレベッカがスピノザの姉であるか妹であるかを調査したとは思われませんので,渡辺がこれを訳した時点での研究成果に則って,レベッカをスピノザの姉と訳したのは間違いないと思います。ただ定説でそうなっているので,これが誤訳であるという批判はまったく当たらないでしょう。
しかし吉田は,レベッカはスピノザの姉ではなくて妹だったのではないかという説を展開しています。その説がどう展開されているのかを詳しく紹介します。そうしないと僕の結論を示すこともできないからです。
まず吉田は,レベッカがスピノザの姉であった可能性を全面的に否定しているわけではありません。むしろそういう可能性もあったということは認めています。そう考える利点を吉田は次の点にみています。
ミリアムMiryam de Spinozaは1650年に結婚したのですが,1651年に子どもを産んだ後,おそらく産後の肥立ちが悪かったため死んでしまいます。このためミリアムの結婚相手であった男と,幼子が残されてしまいました。この結婚相手だった男はその後に再婚するのですが,この再婚相手がほかならぬレベッカだったのです。幼子が残された男の再婚は,早い方がよかったとすれば,ミリアムが死んでからレベッカと結婚するまでの期間はそれほどなかったと考えられます。レベッカがスピノザの姉であったとすれば,この1651年という時点では20歳前後です。嫁ぐのには問題ない年齢です。