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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和八年」を読む (3)

2023-06-06 09:14:39 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和八年

348、十一月廿一日書状(三斎江戸下向ノ途次、在吉田)
 ・忠利ヨリ天千代(後・興孝)母(清田氏)ニ贈ラレシ小袖、か様之儀不入気遣ニツキ返
 ・馬ヲ給候由、玄蕃(三斎甥)ヨリ二ッ到来、もはや入不申間返
 ・(十一月十日本丸修復成リ秀忠本丸に移徙ス、(家光西丸ニ移徙ス)
 ・今切・箱根関所ノ道具改厳シ
 ・船旅デ揺ラレ疲労、自筆ナラズ
 ・松平忠直狂気

349、十一月廿六日書状
 ・浅野長重笠間城ヲ預ケラル
 ・片山與安(宗哲)没ス
 ・越中ハ雪中ナル故落着ハ来年ナルヘシ・・・(松平忠直一件)

350、十二月八日書状(三斎江戸下向ノ途次、新居)
 ・(愛宕下)新邸ニ手直シハツキモノ故、先ズ本邸ニ赴
 ・小田原迄普請ノ者三十人ヲ差越サレタシ

351、十二月十四日書状
 ・三斎江戸屋敷ノ使用ニツキ忠利ニ申入ル、本邸ヲ残ラズ明ケテクレルニハ不及
 ・臺所ハ数寄屋ノ臺所ニテ濟
 ・座敷ハ床ノ間付ノ三斎部屋ト小姓部屋ニテ可
 ・忠利ト家臣ハ色付ノ書院廣間其他表ノ諸間ニ居ラルベシ
 ・明日江戸ニ著ス故急圍ヲ申付ケラルベシ

352、十二月十四日書状(三斎江戸下向ノ途次、戸塚)
 ・忠利ノ迎ノ使者来テ菓子等ヲ贈ラル

353、十二月廿五日書状
 ・歳暮ノ祝儀到来、祝着

354、十二月廿七日書状
 ・明日歳暮并忠利受領(忠利越中守ニ叙任)ノ御禮言上ノ予定
 ・曽我尚祐邸にて土井利勝ノ指示ヲ待ツ

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■細川興秋自決の日

2023-06-06 07:09:16 | 歴史
 今日六月六日は、三歳忠興の次男・興秋が城州稲荷東原院で自決した日だとされる。
元和元年(1615)のことであり、33歳の若さであった。
 一方熊本の能楽師・狩野家は興秋の守役を勤めた窪田五助(善助・後宗斎)のご子孫だそうだが、先代・秀鵬氏御存命の時代には同家のサイトに系図が紹介されていた。
その窪田五助は、興秋の三回忌を執り行った後自裁したとされる。(戸田敏夫著・戦国細川一族/細川忠興と長岡与五郎興秋所載同家先祖附)
つまり、窪田五助もまた今日が命日という事になる。

ところが私は以前、部分御舊記・御書附并御書武廿一(熊本縣資料・近世編第二p173)に、寛永元年(1624)五月廿八日付、西郡刑部少その他に宛てた忠利の書状に、「窪田善助相果候不便候事」とたった一行記されているのを発見した。
五助の子供に「善助」を名乗る人は見受けられず、この一行の「善助」は興秋守役・善助と考えたいのだが・・この食い違いは一体何なのか、いまだこの謎解きは未完のままである。
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■御扶持方御切米御帳(13)

2023-06-05 06:59:41 | 史料

 所々御番衆(4)

 三代将軍家光の弟・徳川忠長の改易切腹に伴う連座の罪により、家臣伊藤権兵衛、並びに稲葉内記(春日局息)が熊本藩預かりとなった。
二人は終生その罪を許されることはなく、伊藤権兵衛は30数年稲葉内記は約40年間拘留され、その間多くの人達が番人として詰めた。

一 三人扶持貮拾石      伊藤権兵衛殿御番 田崎平兵衛
一 貮人扶持拾貮石           同   松崎九郎左衛門
一 三人扶持拾石            同   林 源大夫
一 右同断               同   中村新左衛門
一 右同断               同   村川次郎兵衛
一 三人扶持拾五石           同   野村喜兵衛
一 三人扶持拾石            同   春野忠右衛門
一 右同断               同   深川孫右衛門
一 右同断               同   山口半次
一 貮人扶持拾石            同   福川少左衛門
一 右同断               同   下川加兵衛   
一 貮人扶持拾石            同   江田小左衛門
一 貮人扶持八石            同   渡 長左衛門
一 貮人扶持拾石            同   武藤加左衛門
一 貮人扶持七石            同   渡邊助左衛門
一 右同断               同   庄林九郎右衛門
一 右同断               同   吉村長右衛門
一 右同断               同   林 甚右衛門
一 右同断               同   西村平左衛門
一 右同断               同   倉永半右衛門
一 右同断               同   高野小兵衛
一 右同断               同   廣津茂右衛門
一 右同断               同   林 次郎左衛門
一 右同断               同   野間少太夫
一 右同断               同   丹部忠左衛門
一 右同断               同   矢津久兵衛
一 右同断               同   萩 次左衛門
一 右同断               同   池邉七兵衛
一 右同断               同   田島藤左衛門
一 右同断               同   荒巻五郎左衛門
一 右同断               同   片山太左衛門
一 貮人扶持拾石            同   加藤作左衛門

一 貮人扶持五石         稲葉内記殿番 斎藤六右衛門
一 右同断               同   宇野左兵衛
一 右同断               同   鶴田左衛門
一 右同断               同   樋高八左衛門
一 右同断               同   野田清右衛門
一 右同断               同   石井甚右衛門
一 右同断               同   元松助左衛門
一 右同断               同   古田小左衛門
一 右同断               同   尾原五郎左衛門
一 右同断               同   中島小左衛門
一 右同断               同   工藤八兵衛
一 右同断               同   前川与三兵衛
一 右同断               同   尾崎善右衛門
一 右同断               同   原田十左衛門
一 右同断               同   大崎茂兵衛
一 右同断               同   野上少右衛門
一 貮人扶持拾石            同   飯田七左衛門
一 右同断               同   井口九兵衛
一 右同断               同   下田新右衛門
一 右同断               同   有次仁左衛門
一 右同断               同   西嶋市丞
一 右同断               同   田内次兵衛
一 右同断               同   今村与左衛門
一 右同断               同   小寺太左衛門
一 貮人扶持四石           同御門番   助左衛門
一 右同断               同     惣兵衛
一 貮人扶持四石            同     加兵衛

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■御扶持方御切米御帳(12)

2023-06-04 13:49:57 | 史料

 所々御番衆(3)

一 貮人扶持五石          林外記脇御門番 真野与右衛門
一 右同断                 同   竹石五郎右衛門
一 右同断                 同   藤本市左衛門
一 右同断                 同   都甲七右衛門
一 貮人扶持四石              同     孫右衛門
一 貮人扶持三石              同     加右衛門
一 貮人扶持五石        尾藤長次郎脇御門番 中野新助
一 右同断                 同   林 作左衛門
一 貮人扶持拾石          佐渡守脇御門番 上林次郎右衛門
一 貮人扶持五石              同   久持新右衛門
一 貮人扶持四石              同     忠右衛門
一 貮人扶持五石        中村左馬進脇御門番 相良太郎右衛門
一 貮人扶持五石        中村左守遣脇御門番 澤崎惣右衛門
一 右同断                 同   坂本久兵衛
一 右同断              監物脇御門番 櫛延又右衛門
一 貮人扶持八石              同   山添又兵衛
一 貮人扶持九石              同   中村久右衛門
一 貮人扶持四石              同     彦助
一 貮人扶持五石       佐々小左衛門脇御門番 永田屋加右衛門
一 右同断                 同   野村彦右衛門
一 貮人扶持四石              同     五郎左衛門
一 貮人扶持八石         澤村大学脇御門番 河辺与兵衛
一 貮人扶持                同   礒田弥右衛門
一 右同断                 同   飯田四郎左衛門
一 貮人扶持四石              同     八左衛門
一 右同断               伊豆屋敷番   三郎右衛門
一 右同断                 同     六右衛門
一 右同断                 同     善左衛門
一 貮人扶持五石           棒庵坂御門番 原 新右衛門
一 右同断                 同   山口藤兵衛
一 貮人扶持五石              同   加来九右衛門
一 貮人扶持四石           御作事小屋番   次左衛門
一 右同断                 同     市左衛門
一 右同断                 同     角内
一 貮人扶持五石            妙解寺御番 光成花坊
一 貮人扶持七石              同   宇藤花坊
一 貮人扶持四石              同     孫三
一 右同断                 同     喜三郎
一 貮人扶持五石              同鶴飼 上野三右衛門
一 右同断             本妙寺口御門番 大石新右衛門
一 右同断            下津将監明屋敷番 黒瀬善右衛門
一 右同断               御米打所番 福島五兵衛
一 右同断           御鉄炮薬合せノ横目 伊藤久右衛門
一 貮人扶持四石            高麗門ノ番   孫兵衛
一 貮人扶持五石             桐油手傳 神崎十兵衛
一 右同断                 同   野村久左衛門
一 右同断                 町御番 阿部善右衛門
一 右同断                 同   福島甚兵衛
一 貮人扶持五石             御客屋番 古庄路加右衛門
一 貮人扶持三石              同   池田平左衛門
一 三人扶持                同   松尾彦兵衛
一 貮人扶持四石             御薪手傳   弥右衛門
一 壹人半扶持四石          桶屋奉行手傳   源助
一 右同断              御進物所手傳   太郎兵衛
一 右同断                 同     久助
一 右同断              職人奉行手傳   八右衛門
一 壹人半扶持三石 御荒仕子並ニ春被遣也
                  岩神御奉行手傳   吉右衛門
一 貮人扶持拾石              江戸詰 朝倉角兵衛
一 右同断                 同   加来与兵衛
一 右同断                 同   吉村権右衛門
一 右同断                 同   相場吉右衛門
一 右同断                 同   田上加左衛門               


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■隆永・隆道兄弟

2023-06-04 09:02:43 | 徒然

 先に「池邉吉十郎宛西郷隆盛書簡-1」及び「2」を御紹介したが、その記名は「1」では吉之助、「2」では隆盛となっている。
隆盛と言う名前は、維新直後東京にいなかった吉之助に代り、吉井友実という西郷の同郷の人が名前を間違って届けたことによるものだそうだ。
西郷の家は代々「隆」の字が付くことは知っていたらしく、吉井は「隆盛だった」と吉之助の父親・吉兵衛の名乗りで届けてしまった。
その間違いがそのままになり、大偉人・西郷隆盛となったとされる。「隆永(たかなが)」が本当である。
弟・従道は直接役人から名前をきかれ「りゅうどう=隆道」と答えたが、役人が聞き間違え「従道」となったという。
兄弟とも笑いながらこれを受け入れ、今では誰もが知る名前となっている。
そんな逸話を思い出しながら、古文書の解読にいそしんでいる。

 

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■お鍋様、父興秋の旧臣の召し抱えを願う

2023-06-03 09:05:23 | 先祖附

 寛永六年(1629)六月三日奉行所日録に次のような記録がある。

一、おなへ様ゟ、遠藤吉右衛門を以被仰聞候ハ、末岡小介替之儀申候へ共、于今相済不申候、就夫、
                     (志水伯耆)
  前かと與五郎様被召仕候清介と申もの、此中宗加ニ罷居申候、宗加御果候ニ付、前廉右之分ニ而
  おなへ殿被召仕候ハヽ、御奉公申上度由申候、いかゝ可有御座哉と被仰下候、

 細川興秋の遺児・おなべ様が遠藤吉右衛門なる人物を通して奉行所に仰せ聞かされたこととして、おなべ様の許に召し抱えていた末岡某の替りとして、以前父・與五郎に仕えていた清助が宗加(志水伯耆)の許に居たが宗加がこの度死去したことによりおなべ様にお仕えしたいと申しているとのこととして、奉行所の裁可を尋ねている。

 細川興秋は天正11年(1583)母・ガラシャが味土野幽閉中に産んだ忠興の次男である。
慶長9年(1604)11月、父忠興の命により江戸證人として江戸に下る途中出奔、大坂の陣に於いては西軍に参加し豊臣家没落後の元和元年(1615)6月、父忠興の命により、城州・東光院にて自決したとされている。33歳。
おなべ様の中の父・興秋の記憶とはどのようなものであったろうか。おなべ様の生母(氏家元政女)は興秋の死後すぐに飛鳥井中納言持信に再嫁したから、おなべ様は生母とも引き裂かれたのだろうか?
興秋の死から14年後のこの奉行所日帳が語る一つの記事が、興秋の不幸な最期を考える時切なく迫ってくる。

 しかし三か月後の奉行所日帳はおなべ様の嬉しいニュースを記録している。 

  寛永六年九月十日            鳥うたい候て、
一、遠藤吉右衛門尉登城にて申候ハ、御なへ様今夜〇七つ時分ニ輙御祝被成候、江戸へ便宜御座ハヽ、
  御分を可被進之由、被仰由也、心得申候由申候、御息女之由申候也、

      長岡與五郎興秋                                                                     
           ‖---------                                        
      氏家元政女●          ‖----------伊千(のち、米田是長室)          
                                  南条元信
                6,000石




 

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■大日本近世史料・細川家史料「忠興(三斎)文書-元和八年」を読む (2)

2023-06-03 05:47:59 | 先祖附

 忠興(三斎)文書-元和八年

337、五月朔日書状
 ・来九月、秀忠本丸移徙ノ進物
 ・久世廣宣中風之こと
 ・中津作事ニツキ土井利勝ノ請合ヲ得タレド、能請合ハ却テ成ルマジ
 ・秀忠日光社参、御供二万事ノ外警固厳重
 ・江戸城普請ニツキ大名衆賜暇
 ・細川玄蕃(興昌)ト井上正就ノ縁辺調ハズ、玄蕃妹縁談ハ未ダ公許ヲ得ズ
 ・松平忠直ノ出府遅々トシテ進マズ
 ・黒田‐藤堂間ノコト、我々関知セズ
 ・上記、秀忠移徙ノ進物伊丹康勝ト談合無用ノ由

338、五月十四日書状
 ・有吉立道ノ後妻ニ三渕好重女ヲ配セントス、忠利ノ意見ヲ乞ウ

339、六月十九日書状
 ・細川玄蕃妹縁談未ダ定ラズ
 ・五月十九日江戸城本丸修復ノ為秀忠ハ西ノ丸ニ移徙、家光ハ本多忠政邸へ  (実ハ家光ハ四月廿一日)
 ・曽我尚祐湯治

(元和八年夏・米田是季帰参ス)
913、月日未詳書状 御ち(門川備中女)宛書状
 ・米田是季ノ召抱ハ忠利ノ意次第

340、七月三日書状
 ・七夕ノ祝儀

341、七月十三日書状
 ・盆ノ祝儀(蓮飯三荷・三種)到来

342、七月二十六日書状
 ・前田利常室(秀忠女・球姫)死去ノコト
 ・松平忠直未ダ江戸へ下ラズ

343、八月十三日書状
 ・木下延俊女(忠興外孫)七月廿ニ日祝言、珎重候
 ・家光、川越ニ御成ノ予定(八月廿一日放鷹、酒井忠利邸泊)
 ・最上義俊改易ノ理由ヲ知リタシ
 ・藤堂家ノ婚礼ノコト

344、八月十六日書状
 ・(十四五年已前)石井筒献上二ツキ阿部正次ゟ問合セ受ルモ覚不申、小笠原民部・松井興長ニ小倉デ知ル者アラバ直申遣ス
 ・最上義俊改易赦免ノ説
 ・茶屋四郎(清次)病死
 ・三斎近日灸ヲ可仕コト

345、九月七日書状
 ・重陽ノ祝儀到来

346、九月十五日書状
 ・忠利迄最上氏改易ニツキ土井利勝自筆書状ヲ三斎へ届ク
 ・松平忠直、江戸下向ノ噂
 ・曽我尚祐病本復ス
 ・東国大名衆江戸ニ逗留ス

347、十月十七日書状
 ・本多正純改易、依怙ノ肝煎ナド発覚セバ、成敗モアルベシ
 ・黒田長政、本多ㇳ好誼アル故危カラン
 ・竹中重義・松倉重政等ハ才覚者ナレバ無事ナラン

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■御扶持方御切米御帳(11)

2023-06-02 08:13:46 | 史料

 所々御番衆(2)

一 三人扶持拾石           御銀番 後藤少右衛門
一 貮人扶持拾石           同   平野七左衛門
一 右同断              同   尾藤新助
一 右同断              同   富田又兵衛
一 貮人扶持拾石           同   安野藤左衛門
一 右同断              同   内山又助
一 右同断              木籠番 野々村半左衛門
一 右同断              同   加畑七郎右衛門
一 右同断              同   山田喜左衛門
一 右同断              同   岸本少右衛門
一 右同断              同   内田喜兵衛
一 右同断              同   藤山勘右衛門
一 貮人扶持拾石        松助殿御門番 阿部孫右衛門
一 貮人扶持五石           同   中松源右衛門
一 右同断              同   平塚喜左衛門
一 右同断              同     惣右衛門
一 右同断              御蔵番   甚右衛門
一 壹人扶持四石           同     作右衛門
一 壹人扶持五石        御奉行所使番   四兵衛
一 右同断              同     半右衛門
一 右同断              同     次郎左衛門
一 右同断              同     左衛門
一 右同断              同     三右衛門
一 壹人半扶持五石          同     太左衛門
一 右同断              同     茂右衛門
一 右同断           御借方間使番   勝左衛門
一 貮人扶持五石          塩焇蔵番 秋本九郎右衛門
一 右同断              同   日吉清右衛門
一 右同断              同   須藤清兵衛
一 右同断              同   本田市兵衛
一 貮人扶持四石           同     与左衛門
一 右同断              同     仁左衛門
一 貮人扶持七石   御花畑御小姓部屋口ノ番 林 八左衛門
一 右同断              同   宮本勘左衛門
一 貮人扶持五石      御花畑奥御納戸番 梶取又兵衛
一 右同断              同   戸井九右衛門
一 右同断              同   菅 次兵衛
一 貮人扶持拾石      御花畑表御納戸番 緒方新丞
一 貮人扶持五石           同   相場次郎右衛門
一 右同断              同   児玉孫左衛門
一 右同断        御花畑御楽屋口ノ番 河邉忠右衛門
一 右同断              同   田代久右衛門
一 右同断              同   中島甚左衛門
一 右同断              同   村嶋作右衛門
一 壹人扶持八石           同     善兵衛
一 右同断              同     理右衛門
一 貮人扶持五石 御花畑小堀長左衛門脇御門番 岡 平右衛門
一 右同断              同   松田五郎右衛門
一 右同断              同   竹移徙仁左衛門
一 貮人扶持四石           同     小左衛門
一 右同断          御花畑表御門番   孫右衛門
一 右同断              同     与七
一 三人扶持拾石        同所裏御門番 廣中太右衛門
一 三人扶持八石           同   足立三丞
一 貮人扶持拾石           同   大島兵左衛門
一 貮人扶持七石           同   稲田吉太夫
一 貮人扶持五石           同   窪田勝左衛門
一 壹人半扶持五石          同   樹木六兵衛
一 貮人扶持五石        同所黒門御番 白木八兵衛
一 右同断              同   小林藤三郎
一 右同断              同   野村新左衛門
一 貮人扶持四石           同     源兵衛
一 貮人扶持五石    御花畑杉馬場拍子木打 和田吉右衛門
一 右同断              同     加左衛門
一 壹人半扶持八石          同     又右衛門
一 壹人扶持六石         御花畑鹿飼   忠左衛門
一 貮人扶持四石     御花畑さいゑん作り   彦兵衛
一 壹人扶持四石           同     弥六
一 貮人扶持五石       同御裏方御門番 下田七左衛門
一 三人扶持五石           同     久右衛門
一 貮人扶持四石           同     弥次右衛門
一 壹人扶持四石        御馬屋脇辻番   源助

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■池邉吉十郎宛西郷隆盛書簡ー2

2023-06-02 06:47:38 | 先祖附

 こちらは熊本県立図書館が所蔵する「西郷隆盛より池邉吉十郎あて書簡(C/206.4/サ/)」である。
読み下しにチャレンジしているが中途半端の状態で完読には至っていない。

         

        以使者迅速其意候 偖過      
        日御招■(請カ)申置たる石塘口之      
        水留メ之儀日々水勢増長
        致し所謂水海之如ク駈■味
        方へ不利ヲ来ス事無量
        唯今之処ニテ者何分城内ヘ
        乱入之見込附不申最モ當城者
        遉日本之三名城之一城なれは
        中々容易落城極候事見込仕
        之 況哉谷干城も當城槨ニ
        楯籠り必死之場合ニ見止ンヤ
        候 向後迚も数日ヲ経たるとも
        當城城内へ打入事出来
        不申候 加之田原坂 木戸米(木留)
        頻ニ襲来近衛兵非常
        打入申之使方も相知連候様子
        猶又近日者八代沖合嶋源へ
        海境ニ者早海軍就各
        来■■候段■卦■■且
        時ニ砲聲も曳聞へ候就
        テ者最早當所之本陣者甚
        覚束無し 依テ今日夜迄ニ當
        地ヲ退松橋へ夜退陣之事
        ニ相究候間先ニ夫方も直ニ同地ヘ
        速ニ御退陣被濟度願入候 猶
        拝眉之上可■速■他ニ術
        無之候 右早終リ以テ毎
        用御懸命■し候 謹言
            三月九日 西郷隆盛
        池邊吉十郎殿

 この書簡を見ると熊本城下の水攻めは池邉が提案したことが判るし、西郷はそれが味方にとっても不利になると言っている。
熊本城攻撃については「當城者遉(さすが)日本之三名城之一城なれは中々容易落城極候事見込仕之」とし、落城させるのは難しいと判断していることが判る。
有明海には政府軍の軍艦が姿を現したし、松橋あたりまで本陣を後退させたいといい、池辺にも退陣するように促している。
しかしながら、熊本城攻撃は実行され官軍・薩軍ともに多大な被害が出た。水攻めは双方に一時の休息を与えたかもしれない。
そして松橋への本陣の交代は果たして実行されたのか。
熊本史談会6月例会では、熊本に於ける「西南の役」研究の第一人者・勇知之先生のお話しの二回目をお聞きする。
この書簡についても、ご説明があることだろう。面白いお話が聞けそうである。

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■御扶持方御切米御帳(10)

2023-06-01 10:40:30 | 先祖附

 所々御番衆(1)

一 貮人扶持八石        御本丸東御門番 坂井勘兵衛
一 貮人扶持五石            同   加藤与左衛門
一 右同断               同   樋井市左衛門
一 右同断       御本丸御数寄屋下御門番 麻生三右衛門
一 右同断               同   天野久兵衛
一 右同断               同   吉田久左衛門
一 右同断               同   花岡次郎左衛門
一 右同断               同   大野源兵衛
一 貮人扶持五石        御本丸闇御門番 右田与右衛門
一 右同断               同   土屋太郎右衛門
一 右同断               同   野村九郎兵衛
一 右同断               同   田中久左衛門
一 右同断               同   高瀬少左衛門
一 右同断         御本丸四ッ辻御門番 今永弥左衛門
一 右同断               同   西 善左衛門
一 右同断               同   篠田吉左衛門
一 右同断          御本丸御裏御門番 田中六兵衛
一 右同断               同   渡 長左衛門
一 右同断               同   塚本与左衛門
一 右同断            竹御丸御門番 門岡忠左衛門
一 右同断               同   井上彦左衛門
一 右同断               同   山田茂左衛門
一 右同断               同   松尾勘左衛門
一 右同断           竹御丸下御門番 塚本吉右衛門
一 右同断               同   吉村源左衛門
一 貮人扶持五石            同   堀 孫右衛門
一 貮人扶持拾石            同   柿本喜左衛門
一 貮人扶持八石          御天守手傳 佐田理右衛門
一 右同断               同   安見専右衛門
一 右同断               同   安藤清左衛門
一 右同断               同   清原喜兵衛
一 右同断               同   高見与三兵衛
一 右同断               同   榎本久右衛門
一 貮人扶持拾石            同   真野吉右衛門
一 右同断               同   矢野清右衛門
一 右同断               同   市丸勘左衛門
一 貮人扶持五石         西大手御門番 福井市左衛門
一 右同断               同   江崎加兵衛
一 右同断               同   村田惣兵衛
一 右同断               同   緒方何右衛門
一 右同断               同   深町茂右衛門
一 右同断               同   伊藤善兵衛
一 貮人扶持七石         南大手御門番 今橋喜兵衛
一 右同断               同   井口善太夫
一 右同断               同   上田五右衛門
一 貮人扶持三石            同     三丞
一 貮人扶持五石         北大手御門番 佐藤新兵衛
一 右同断               同   土方久太夫
一 右同断               同   松尾藤右衛門
一 右同断          御奉行所口御門番 河内又兵衛
一 右同断               同   小島角右衛門
一 右同断               同   小野与兵衛
一 右同断               同   杉山与兵衛

一 三人扶持八石         同所刀懸ノ番 林 傳兵衛
一 右同断               同   月方惣左衛門
一 右同断               同   土方三左衛門
一 右同断               同   八坂次右衛門
一 右同断               同   尾藤仁右衛門
一 貮人扶持五石          時太鼓御番 岩屋清助
一 右同断               同   尾崎長兵衛
一 右同断               同   津野傳左衛門
一 右同断               同   岩松長左衛門
一 右同断               同   山本与三左衛門
一 右同断               同   高宇田市左衛門


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■池邉吉十郎宛西郷隆盛書簡ー1

2023-06-01 10:15:54 | 史料

   西南の役に於いては熊本隊の総帥となった池邉吉十郎に宛てた、西郷隆盛の明治九年の書状である。
2016年7月26日放送の「なんでも鑑定団」に登場し、増田孝教授の鑑定で初出の真筆書状という事で出品者の価格750,000円に対し2,500,000と言う高値が付いた。
その折の益田教授のお話し「本物に間違いない。池辺吉十郎というのは西郷の親友で、西南戦争の際に決起するのだが、賊軍ということで捕らえられて斬首される盟友の一人。西郷が亡くなったのが明治十年なのでその一年前に熊本に行って大事な相談をしたいような内容。政界を退いてから亡くなるまでの西郷の史料というのはほとんど残っていない。依頼品は全集にも入っておらず、その意味では新発見といえる。」

処が全く内容の同じものが、早稲田大学図書館に西郷菊次郎極め書き付書簡として存在する。ただしこちらは「写(自筆)、書写年不明」とあるから「なんでも鑑定団」出品の物が本物なのだろう。

 この書状は三月十二日の日付があるが、西郷はどこで池邉と会ったのだろうか?勉強不足の私は承知していなし、余り語られることもなかった用の思う。菊次郎氏の極め書がある所を見るとその存在は承知されていたのだろうが、世に認知されたのは「なんでも鑑定団」によるものかもしれない。
書状には、熊本から帰った後、久光公の御供をして桜島に湯治に出かけたので返事が遅れたということわりの言葉と共に漢詩が添えられている。(左片の3行目~6行目)

      

              三太郎南返故郷
                 (三太郎南のかた故郷に返れば)
              薩山深處為花峡
                 (薩山の深き処花峡と為る)
              熊城春色容相憶
                 (熊城の春色容に相憶(おも)うべし)
              雖去猶存侠骨香
                 (去ると雖も猶(な)お存す侠骨の香り)

 三太郎峠を越え、南を目指して故郷へ帰ったが、薩摩の山々の奥深いところは桜の花が咲き匂う山あいとなっていた。
熊本の町の春景色はきっといつまでも忘れないだろう。立ち帰ったけれども硬骨漢のあなたの温情は、今も私の胸のうちに馥郁と香っている

 池邉吉十郎と西郷隆盛(吉之助)の友情のほどがうかがえる。西南戦争勃発の一年前のことである。

 

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■犬あずかりは駄目

2023-06-01 05:54:40 | 徒然

         御家中飼犬を間ニハ町家に預候者有之、夫よりして内輪種々申分も差起候哉ニ相聞候、
         程ニ寄其分ニ難被閣筋も成行候てハ難相濟事ニ付、以来町家に御家中飼犬を預申間敷
         候、たとひ無余儀訳を以預方談有之候とも堅相断候様、此段町中一統可及達旨ニ付小
         前々々ニ至迄不洩様夫々申聞置候様可有通達候、以上
              六月朔日         町方根取中
            市原永一郎殿

                       (熊本藩町政史料(三)文政十二年六月朔日の項から)

 町方に於ける奉行所からのお達しだが、武家から「犬」を預かる事を禁じるというものである。
何故なのかよく判らないが、預かった町方ではいろいろ難儀なことが起って奉行所に嘆願でもしたのだろう。
「余儀なき訳を以て」も「堅相断候様」とあるから、町方はよほどの迷惑を蒙ってのことであろう。
文政年間ともなると、武家の間に犬を飼うという余裕が生まれていることが伺える。

宛名の市原氏は古町で酒造を生業とする大店の主人である。その遠祖は毛利氏だとされる。

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