ある方から吉田氏に関する資料を頂戴した。
JR鹿児島本線、上熊本駅前から京町台に上がる坂道がある。その左手、現在の林野庁の施設がある辺りに吉田家はあったらしい。西南戦争時ここから吉田家十一代如雪正固が、熊本城の炎上をみたことが日記に書かれている。貴重な史料である。
資料を眺めていて、思わず「おっ」と声を上げてしまった。
6月26日のブログで「あゝ屏山先生・・」を書いた。高名な儒者水足屏山の奥方が不貞なる事件を起こし、屏山父子は不義の相手方に乗り込むがかえって返り討ちに遭い、屏山は死去、その子も大怪我をする。(この事件により水足家は絶家)そのとき駆けつけて助太刀し相手を仕留めたのが、吉田家五代喜右衛門父子だった。「水足事件助太刀にて笠井源右衛門を斬る」と書かれていた。喜右衛門の子・喜左衛門正弘は「武蔵流第三代」とあり、「肥後の武芸流派」をみると、次のようにある。
新免武蔵玄信--寺尾藤兵衛信行--寺尾郷右衛門勝行--吉田喜右(ママ)衛門正弘--山東彦右衛門清秀--山東半兵衛--山東新十郎
遠祖吉田美作は蒲生氏郷に仕え八千石、家老職を務めたという。二代・三代は加藤家に仕えている。明治十年当時吉田家が住まいしていた上記の場所は、赤尾本城址に近く加藤清正が荼毘にふされた場所でもある。
JR鹿児島本線、上熊本駅前から京町台に上がる坂道がある。その左手、現在の林野庁の施設がある辺りに吉田家はあったらしい。西南戦争時ここから吉田家十一代如雪正固が、熊本城の炎上をみたことが日記に書かれている。貴重な史料である。
資料を眺めていて、思わず「おっ」と声を上げてしまった。
6月26日のブログで「あゝ屏山先生・・」を書いた。高名な儒者水足屏山の奥方が不貞なる事件を起こし、屏山父子は不義の相手方に乗り込むがかえって返り討ちに遭い、屏山は死去、その子も大怪我をする。(この事件により水足家は絶家)そのとき駆けつけて助太刀し相手を仕留めたのが、吉田家五代喜右衛門父子だった。「水足事件助太刀にて笠井源右衛門を斬る」と書かれていた。喜右衛門の子・喜左衛門正弘は「武蔵流第三代」とあり、「肥後の武芸流派」をみると、次のようにある。
新免武蔵玄信--寺尾藤兵衛信行--寺尾郷右衛門勝行--吉田喜右(ママ)衛門正弘--山東彦右衛門清秀--山東半兵衛--山東新十郎
遠祖吉田美作は蒲生氏郷に仕え八千石、家老職を務めたという。二代・三代は加藤家に仕えている。明治十年当時吉田家が住まいしていた上記の場所は、赤尾本城址に近く加藤清正が荼毘にふされた場所でもある。
私の夫は大蔵省で財務官を務めた榊原英資でございます、決して怪し者ではございません、熊本の吉田家も訪ねてましたが残念な事にお目に掛かる事はできませんでした。