稲津家は日向の紫波洲崎城の城主であったが、主家の伊東氏の没落により初代因幡守(九郎兵衛・重房)は加藤清正に仕えた(1,027石)。
加藤家改易後は細川忠興に仕え、天草島原の乱に出陣し活躍した。
この文書の角之允は9代目、嘉永六年家督し奉行、使番、長柄頭、鉄炮頭を勤め慶応二年六月十四日歿している。
稲津家は7・8・9代と養子であるがいずれも薮家から入っている。薮家初代は細川家で13,000石、その娘は長岡信友(織田出雲守高友に嫁いだ。
7代・次郎兵衛頼英は薮弥次右衛門末子、8代・久兵衛頼彜は薮内蔵允三男、そして9代・角之允は8代久兵衛の実兄・薮弥次右衛門の子である。
これは薮家6代弥次右衛門政登(稲津角之允休永二男)が稲津家から養子に入ったことによる。比着座・三千石。
その末子が稲津家に入った七代次郎兵衛である。
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