津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■稲津角之允殿

2017-07-04 14:18:40 | 史料

                                        中上質少厚紙・甲0立物幕之紋図文久元年八月、稲葉角之0より長岡監物殿、少虫喰い

 

         稲津家は日向の紫波洲崎城の城主であったが、主家の伊東氏の没落により初代因幡守(九郎兵衛・重房)は加藤清正に仕えた(1,027石)。 
         加藤家改易後は細川忠興に仕え、天草島原の乱に出陣し活躍した。                       
         この文書の角之允は9代目、嘉永六年家督し奉行、使番、長柄頭、鉄炮頭を勤め慶応二年六月十四日歿している。
         稲津家は7・8・9代と養子であるがいずれも薮家から入っている。薮家初代は細川家で13,000石、その娘は長岡信友(織田出雲守高友に嫁いだ。  
         7代・次郎兵衛頼英は薮弥次右衛門末子、8代・久兵衛頼彜は薮内蔵允三男、そして9代・角之允は8代久兵衛の実兄・薮弥次右衛門の子である。  
         これは薮家6代弥次右衛門政登(稲津角之允休永二男)が稲津家から養子に入ったことによる。比着座・三千石。
         その末子が稲津家に入った七代次郎兵衛である。

 

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