津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 歌歴(一)

2021-11-09 06:50:57 | 先祖附

      「歌仙幽齋」 歌歴(一)

 細川幽齋は天文三年四月廿二日、三淵伊賀守晴員(入道宗勲)の第二子として洛東
鹿谷に生れ、同七年、細川播磨守元常の養嗣子となる。細川氏は清和源氏、足利義康
の孫義實の子義季を祖とし、代々三河國細川に住して地名を族穪とした。室町時代に
入つて、幕府の重臣に列したが、頼春の次子頼有の家は元常に至つて嗣子なく、將軍
義晴の命によつて、三淵藤孝を容れて繼がしめたのである。元常は天文二十三年六月
十六日卒去、時に藤孝廿一歳であつた。

 幽齋の實家三淵氏をしらべる。細川刑部少輔元有に男二人あり、長を元常といひ、
次を晴員といふ。晴員出でて三淵氏を繼ぐ。三淵氏は清和源氏、山城國三淵邑より起
り祖先は足利尊氏の落胤とも、義満の庶子ともいひ傳ふ。三淵加賀守晴恒に子なかり
しため、細川晴員を迎へて嗣とす。それが三淵伊賀守入道宗勲である。その次子藤孝
が出でて元常の養子となつたのだから、藤孝は伯父の家を繼いだことになる。晴員は
元龜元年三月一日、七十一歳にて卒去し、藤孝時に三十七歳。

 母はいかなる人かといふに、養母すなはち細川元常室は清林院とのみ、身分不明。
實母すなはち晴員室は船橋大外記清原宣賢女、天正十三年八月十日逝、藤孝五十二歳
の時である。船橋家は清原氏の族にて、世々明經博士、大外記であつた。

 以上は細川系圖の記すところに據つたのだが、藤孝の血筋に就いては面白い異説が
鹽尻に載つてゐる。それによると、彼は將軍義晴の四男だといふ。義晴に義輝・周崇
・義昭・藤孝といふ子供達あり、藤孝の母は舟橋義賢(宣賢の誤なるべし)の女で、
義晴の愛妾であつたが、後に、藤孝を連れて三淵晴員に嫁したと云。
 かやうに調べてみると、藤孝の父方には、八幡太郎の古はさて措き、祖先以來歌人
又は文人として顕れた人が多かつたが、母方船橋家は清原氏で、世々明經博士・大
外記であつたゆゑ、學問の血脈が幾分かでも傳はつてゐたものと考へられる。 

 

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