津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」三二、天 橋

2021-11-02 06:48:15 | 先祖附

      三二、天 橋

 慶長五年も殘りすくなき十二月の某日、幽齋父子は切戸文殊閣の方丈に打寛いて、
閑談した。忠興は關ヶ原の戰功によつて去月豊前小倉四十萬石の領主に榮轉し、不日
田邉城を去つて、新春を九州で迎へようとしてゐる。文殊閣の一日は、幽齋が愛兒の
ために設けた壯行の會である。雪後の寒晴、天の橋立は一條のしろがねを碧海の上に
引いてゐた。去んぬる天正八年この方、二十年の長日月、此處北國の小城を生活の本
據とした幽齋は、今さらに名殘惜しく思ふのであつた。反之、三十七歳の大名忠興は
前途洋々、愉快でたまらない。一首の和歌を料紙にしたためて、父の膝の前に差出し
た。
 立わかれ松に名殘は惜しけれど思ひ切戸の天の橋立
「さまで名殘の惜しそうにもない歌ぢや。乍併、よう詠めてはをる。」
「聚樂の御會の時から見ますと、少々は進歩いたしましたらうか。」
「よう覺えてゐたな。良藥は口に苦味しと申す。苦味いと感じたら藥は効くのぢや、
かう申す乃公も、昔、一如院から苦味い藥を飲まされたのぢや。」
 幽齋は、懐舊に耽りながら、弓術師拘和離の一件を忠興に告白した。もしも一如院
が「檀那藝」と笑殺してくれなかつたならば、本當に「檀那藝」で終始したにちがひ
ない。あの時の天橋立百首をお世辭にも賞めてくれたならば、以後は何々百首の連射
で悉く的を外づれた大矢數、一生草臥儲けで終つたにちがひない。
「一如院は元氣なもので。いまだに落葉を掃いてをります。」
「乃公よりも二十年の先輩だから、今年八十七歳の筈ぢや。乃公も京都に移る、妙心
寺の頭塔に無住なのがあるゆゑ、貴僧も移つては如何と誘つて見た。」
「何と御返事いたしましたか。」
「いやぢやと申した。日本海の北風にあたらぬと風を引くと笑ひ居つたよ。」

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