かってNHK熊本放送局の建物が建っていたのが千葉城の跡だが、既に取り壊されている。
この跡地はどうなるのだろうか。
現在では熊本市役所前から京町台へ抜ける道(かっての国道3号線)で熊本城域とは切り離された形になっているが、もともとは茶臼山の一角であったのだろう。
「茶臼山ト隈本之絵図」をみると、右端に小高い山が見えるがこれがそうであろうか。
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熊本城研究の第一人者・富田紘一氏は、堀切をもって尾根線を切断し独立させたとその著「熊本城・歴史と魅力」で書かれている。
南北朝時代、今川了俊が藤崎城に入り、菊池氏が熊本城で対峙したとされるが、その熊本城がどこであったのかはいまだ特定されていない。
わが熊本史談会の会長・毛利氏は本山城がそうではないかとされる。
私は案外この千葉城もその候補として良いのではないかと思ったりしている。
茶臼山の北西部に藤崎宮があり、藤崎城はこの周辺砦をきずいたものであろう。すぐわきの官道をもって動いている。
一方千葉城は東南部に茶臼山の尾根戦を掘り切って独立しており下を大蛇行する白川が流れ、坪井川が連絡している。
水運をもってすれば兵の補給も容易であったろう。
戦場は詫麻ヶ原に移つて菊池軍の勝利となったが、千葉城からここへ移動し、菊池方面からの軍と合流し今川軍を迎え撃ったというシーンは想定できないだろうか。
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