「歌仙幽齋」 歌歴(八)
慶長十五年八月廿日、偶然にも藤原定家の正忌の日に、幽齋は京都三條車屋町の館
で薨去した。七十七歳。九月十三日、小倉城外にて豪華無比の葬典が執行せられ、遺
骨は分つて彼地と京都とに斂めた。小倉の墓所は泰勝寺であつたが、後に其寺を肥後
國飽託郡黒髪村に移して改葬した。法號は泰勝院殿徹宗玄旨大居士。京都の墓所は細
川満元の再興せし南禪寺塔頭天授庵に在り。堂前より墓地に入り、道に從つて南行十
數間、つきあたりに生垣を繞らし、北面して木門を備ふる一域あり。これ細川家の塋
にて、幽齋の墓は其東南隅に位せる小廟舎内に五輪石塔を置く。
幽齋の居住に就いても略述する。誕生した所は、細川系圖には「洛陽鹿谷」とし、
但、按於洛陽東山麓岡崎、三淵晴員別墅誕生、後蓋移住鹿谷と附記す。永禄六年忠興
が京一條館にて生れたが、一條の何町か不明である。細川兩家記に、永録十一年足利
義昭が將軍に拝せられて入洛した當時、藤孝の館に滞留すとあり、それは一條館のこ
とであつたろう。天正時代、洛西長岡を領邑ととして勝龍寺城に館した。次で、丹後
入部の節は少時宮津城にゐたこともあつたらしいが、おちついたのは田邊城である。
關ヶ原役後、忠興小倉に移封せられて以後は、彼地と京都とを往來し、京都にては吉
田に閑居して、その家を随神菴とも風車軒とも名づけた。
仰ぐなり先づ天地の神まつる吉田の里に春を迎へて
これは、慶長六年正月の詠である。薨去は三條車屋町で、烏丸通よりも少しく東に
當る。
幽齋の風采如何。大徳寺高桐院藏の肖像によれば、眉長く、眼もきれ長にて、口も
と尋常、殊にふくよかな双頬がよろしい。勇敢の武將といはんよりも、大人君子の如
くに描かれてゐる。尤も、老後の面影ではある。天授庵藏の肖像も、おなじく丸坊主
の老躰ではあるが、この方は顔の表情が梢鋭く、きかぬ氣の人に見える。脇差を挟
み、右手に團扇を持つた座像である。慶長十七年(幽齋薨後二年)に描かれ、崇傳が
「讃」を作つたのは、すなはち此の畫である。讃の一節に曰く、團扇在手、掃除人間
蒸熱、利刀挟腰、截斷煩惱縛纏。
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