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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■鉄炮衆・「五ヶ所地筒」その他

2025-05-30 06:29:03 | 歴史

 ある方から依頼を受けてK家の先祖附を久しぶりに読んだ。代々(全てではないが)掃除頭を勤められた家柄である。
そして一方では、鉄炮衆の集団「五ヶ所地筒」を預かっている。掃除頭と鉄炮衆の取り合わせは少々違和感を感じるが、鉄炮衆は決められた期日に登城し掃除方を務める必要があり、そのため掃除頭に組み込まれたものであろう。
その五ヶ所地筒を含めた八ヶ所地筒とは

  大津地筒・・・寛永12年正月設置  支配頭・吉谷平太夫・野田角右衛門
   1、大津新所地筒(菊陽町・鉄炮小路)    76名
  五ヶ所地筒・・寛永13年設置         支配頭・お掃除奉行上林甚助
   2、花立地筒(菊陽町・上津久礼‐花立)      10名
   3、黒石地筒 (合志市)          34名
   4、麻生田地筒(熊本市)          25名
   5、楡木地筒 ( 同 )          14名
   6、兎谷地筒 ( 同 )            6名
  保田窪地筒・・寛永12~13年設置  支配頭・阿部弥一右衛門
   7、保田窪地筒( 同 )         (39名)
   8、平山地筒 ( 同  保田窪地筒の分れ) ーー     数字については時代により異同あり

3名の惣代が(1・2)(3~6)(7・8)の組をまとめ、それぞれに小頭・組横目がついた。それぞれに土地が与えられいわゆる屯田兵的な業務についた。
天草島原の乱や正保年間のオランダ船長崎入港に際しての出陣、幕末の小倉戦争などに出陣しているが、平時においては鉄炮の訓練とともに、城下へ出向いてお城の掃除方を務めている。

 このほか御家中地筒と呼ばれる、有力家臣の召し抱えによる地筒として、細川内膳家地筒は入道水村内古閑(菊陽町)に54人、柏原家地筒は引水村(人数不明)は鉄炮小路に隣接しともに独特の雰囲気の集落を形成している。
又家老の米田家地筒は立野村や上津久礼村八窪(八久保)などに100人弱の人々が居住した。
其の他周辺地に、家来地筒とよばれる長岡佐渡・牧多門助・村上孫四郎・鈴木八郎助・江藤丑之祐・大願寺?・沢村衛士・木村次郎右衛門・斎藤喜兵衛などの家来が若干名を置いている。

先述の通り五ヶ所地筒は御掃除頭に属したが、大津地筒・保田窪地筒の支配頭は時代とともに変わったものと思われるが、現教祖の経過を承知していない。

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