津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御恵贈御礼「国定忠治の時代」

2014-06-23 13:57:23 | 書籍・読書

                                      国定忠治の時代 ─読み書きと剣術
 国立歴史民俗博物館の名誉教授・高橋敏先生から御著「国定忠治の時代」をお贈りいただいた。
実は過日お電話をいただき、ある件についてのお尋ねがあった。なかなか骨の折れそうな案件であるが、熊本の歴史の一端に目をつけていただいたことはうれしい限りであり、ご協力をしなければならないと思っている。
Amazonで先生の御著をいろいろ拝見し購入を考えていた矢先、この著をお送りいただいた。厚く御礼を申し上げる。

この本の内容

上州の博徒・国定忠治が生きた時代は、社会の大きな転換期でもあった。養蚕業の発展によりもたらされた富の蓄積が、文人結社・手習塾などの興隆や、女性たちの自立を促し、やがては世の中を動かす原動力ともなっていったのである。本書はそうした時代の庶民の息遣いを、豊富な古文書と丹念なフィールドワークをもとに描き出した意欲作といえる。

この本の目次

1 国定忠治の周辺(桐生周辺の無宿・博奕打忠治の武器感覚忠治の読み書き能力―無宿忠次郎と師僧貞然 ほか)
2 民衆の読み書き(筆子・筆子中とは民衆の読み書きと村落文化落文・火札・張札 ほか)
3 もうひとつの近世社会(上州の女たち子育て絵馬と間引き絵馬商家の年中行事 ほか)


 

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■原子力ムラ・もう一つの闇

2014-06-23 08:12:12 | 書籍・読書

 この本は我が熊本史談会の中野会員の実弟・中野昭二郎氏の著作である。先の史談会の例会の席上でご紹介をいただいた。
先の地震・津波による福島の原発の被害は、遠く九州に住んでいるとメディアの報道で知るのみで、いろんな意味での被害に遭われた方々の御苦労が、実感として受け止められていないことは申し訳ないことだと感じている。しかしながら九州にある二つの原発の施設の再稼働問題は、近隣住民には深刻な問題として受け止められている。将来のエネルギー問題を真剣に考えることが求められる時代を迎えているが、よくよく考えると我々は原子力に係る知識は遠い次元の事として知らずに来た。この御著を読み意識を新たにする良い機会だと考えて只今読書中である。
 

                                      関東大震災の暴挙は終わっていない原子力ムラのもうひとつの闇

 

■紹介

原子力ムラの住人達は最高学府の高度の教育を受けて、超大企業や中央官庁に要職を得た、専門エリート意識の強い人々ばかりと言っていい。それなのに、その原子力ムラのなかでもトップを占める選りすぐりのハイセンスな嗜みを自負する集団のなかで、あってはならない「手談のヘイトスピーチ」が公然と、かつ決定的に行なわれた。
その実態を臨場感十二分に内部告発する、ノンフィクション・ドキュメント。
東日本大震災前夜の原子力ムラの奢りと高慢ぶりを直視できる、貴重な一冊。

■目次

はじめに 1

第1章 市ヶ谷にて — 原子力囲碁大会 — 5
第2章 キックオフ 12
第3章 日本棋院理事長室 22
第4章 ねぶた祭り 27
第5章 朝鮮半島と日本列島 36
第6章 終結しない議論 47
第7章 師走の御徒町 57
第8章 アトムネットワーク 71
第9章 情報途絶 77
第10章 4月の椿事 88
第11章 関西人の実力 98
第12章 緊急世話人会 105
第13章 聖断と波及 114
第14章 法による決着 140
第15章 原子力と倫理 157
第16章 歴史と真実 261
第17章 新たな戦い 285

あとがき 295

(参考)登場人物リスト 305

■著者プロフィール

中野 昭二郎(ナカノ ショウジロウ)

昭和43年京都大学工学部原子核工学科卒業。同年科学技術庁入庁。
英国ブリストル大学留学、研究開発局総合研究課長、民間企業常務取締役等を経て、
現在は原子力関係NPO法人の役員。

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■落髪令とは・・・?

2014-06-23 07:09:54 | 歴史

 大相撲で人気の遠藤関が、先場所曲がりなりにも髷を結って登場した。さて来場所は大銀杏を結えるのか大変興味深い。(無理だろうな・・・)
吉田拓郎に「僕の髪が肩まで伸びて・・・♪♪」という歌があるが、お相撲さんが洗い髪に成ると、髪の長さはそんなものではないらしい。

もう随分前の史談会でのS講師のお話だが、遊行上人が肥後の北の国境・南関に入られたとき、熊本では藩主家で不幸があったらしく、侍はすべて元結いを切り、斬ばら髪でおまけに月代をそれないため何とも表へ出かねて、上人を家の中から御迎えしたという話が残っているとお聞きした。

忠利公が亡くなられた(寛永18年3月17日)後、江戸からの使いが到着し4月13日「落髪令」が出された。山本博文著・殉死の構造によると「藩士の内知行取りが落髪し、知行取の嫡子および切米取りの者が元結いを払った」とある。
先の遊行上人の話はこの時の事ではないと思うが、国境の出先の役所の切米取りの役人の状況ではないかと推測される。
さて「落髪」とは一体どういう状況なのだろうかと長年考えているが、資料もなく時を過ごしている。
辞書を引くと「落髪=剃髪」とある。丸坊主になるという事だろうか。さてそうなると、髷が結えるようになるまでは半年・一年ではとても済まないように思うのだが・・・・御城下は丸坊主の侍が往来していたかと思うと、いささか異様な風景ではある。精々「髻を払う」とか・・・?そんな感じなのだろうか。
この「落髪令」の詳細について、どなたかご存じあればご教示いただければ幸いである。 

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