一、同名平八に申談候は、何そ書置度被存候衆も可有之候、いかゞと申候へは、御目附衆へ尋申候へは不苦候、料紙御出し候へ、不及申御内見にて、
御届候へと被仰儀故、料紙硯坊主衆へ持せ、堀七郎兵衛罷出、御目附衆へ相伺、少も不苦候、何そ御認度儀も候はゞ、御認被成候様にと、内蔵之助
に向ひ被申候、其時内蔵之助何も認可申事も無之、重疊忝と被申候故、七郎兵衛引取申候、拙者も内蔵之助に、右の通申候へは、七郎兵衛殿のも
申候通にて、此間は段々御馳走難有仕合、難申盡候と被申候に付、耳本にて申候は、此方御心安思召被下私事に御座候間、御向上にても被仰聞度
儀御座候はゞ、承度と申候へは、扨々忝存候、此夏の頃は、定て御供にて此元御立可被成候、内々御咄申候様に、八幡を御通被成候砌、御非番にて
御座候はゞ、大西坊へ御立寄、今日の被仰渡、天気もよく、箇様/\と御咄被下候へ、次男共へ通じ申事に候、我等申候は、得貴意申候、當番たりと
も、傍輩共申合せ、立寄可申候間、御心易思召候へと申候へは、悦被申候、前以内蔵之助被申候は、大西坊は八幡山に居申候、是は譯も御座候間、
拙者家より段々継来候、只今の大西坊は、実は従弟にて御座候へ共、公儀は私甥と申上候由被申候事
一、吉田忠左衛門は、内々御咄申候伊藤十郎太夫と、御心安御語被下候へと被申候事
一、惣右衛門は、大きに封したる状を指出被申、内海道億へ内蔵之助より之上書也
一、源吾右衛門は、内々御咄申儀朱柄の鑓、泉岳寺へ残置候、是は先祖備前と申者鑓にて候、生残たるもの共へ遣度、頼被申候に付、其夜林兵助泉岳
寺へ被遣儀に付、咄申候へは、兼て兵助も右の趣は存知居候事
一、久大夫は、近頃憚成る申事に候へとも、此度腹中悪しく御座候處に快罷成候、萬一麁末成儀も可有御座候間、承置呉候様にと被申候、扨々被入御
念候儀共少も御気遣被成間敷候、慥に承置候と申候へは、悦ひ申され候事
一、十内笑ひ被申聞儀は、私妻の歌、此間惣右衛門に御書せ被成候と承申候、今日之様子、京都弓削太郎右衛門殿迄被仰遣候へは即刻通し可申と被
申候に付、太郎右衛門は心易者にて候、早々可申遣と申候へは、悦被申候事
一、喜兵衛は、何ともものは不被申、笑ひ/\指出し辞世の歌と書付給候事、歌は前條之内に書付あり
一、十郎左衛門は此間別て御心易被仰聞忝存候、老母兄弟共事被附御心被下候へと被申候、御袋様をも、私母と奉存候と申候へは、悦ひ被申儀事
(書き込み中)
■沢村大學家の四代友武の墓所は菊池市七城町亀尾字北杉田2038のキリシタン墓地の中にあるという。
キリシタンとは関係なく、沢村家の所領地であった故と思われるのだが・・・・・・
http://r1100rsp.main.jp/kyokusi-bunkazai/kirisitanboti.html
■宮本武蔵の剣法は、宮本武蔵→寺尾求馬助信行→新免弁助信盛→村上平内正雄と受け継がれた。
その村上平内は粗暴なふるまいが多く、所領を没収されたという。菊池市旭志小原(津留墓地内)にこの村上一族のお墓がある。
http://r1100rsp.main.jp/kyokusi-bunkazai/murakamike-haka.html
http://r1100rsp.main.jp/kyokusi-bunkazai/murakamike-haka.htmlhttp://r1100rsp.main.jp/kyokusi-bunkazai/murakamike-haka.htmlhttp://r1100rsp.main.jp/kyokusi-bunkazai/murakamike-haka.html村上平内正雄