先のブログ「生誕450年記念・上田宗箇-武将茶人の世界展」図録・・・つづきに関し、東京のTY様から再度のご教示をいただいた。
お許しを頂きご紹介する。
国立公文書館の「デジタルアーカイブ」による検索方法は「詳細検索画面」→「内閣文庫」→「和書」→「和書(多門櫓文書を除く)」として
検索窓口に「中根」と入れ 更に「画像等閲覧可能なデータ」で絞り込みます
請求番号「156-0017」 冊次「92」 マイクロフィルム「021700」 開始コマ「0134」
これで「中根・中島」の「略譜」(原本は「畧譜」と表記)PDFでも閲覧可能です(印刷も可能)
全168コマ中
中根越中守信照二男康政からの略譜は 62コマから67コマ
重要な織田信照こと中根新兵衛尉可賢からの略譜は 67コマから74コマです
この中根可賢と本多忠勝に殉死した中根忠實とは同一人物と推察されます
参考・・本多家・岡崎藩・分限帳(PDF)二冊目(忠勝様御代の中根氏)
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103280851-001.pdf
上記タイトルは下記参照
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/18.html
実は小生高祖父の母方である紀伊藩士・坂部惣太夫の家は本多家附人の一人・長坂甚平(天正18年6月24日・武州岩槻にて討死)
討死した甚平の子供は母親の胎内におり のち26歳の時には本多美濃守忠政の元で大坂の役を迎え功名を挙げました
その後 母方の名字である坂部氏を名乗り紀伊藩士となりました(多分・本多家のリストラが原因と思われます・初め300石・後代1000~2000石)
本多家の中根氏はよくぞ「姫路城内曲輪絵図」「古河城関係史料…下総古河城本丸地図など」等を残したものだと感心致します
さらに中根忠實は どうやら本多忠勝の妹を娶ったらしい…
http://www.city.okazaki.aichi.jp/MUSEUM/DB/KKP/H13-09-15/Ky00801.htm
また 織田信秀が熱田の商家の娘を奪って妾にし生まれたのが信照という。
この娘(信照の母)は織田信秀死後、水野信元の側室となり三子をもうけたとある。(W)… という説もあります
水野元信の娘に はじめ松平大学「某」に嫁し、夫の死後に内蔵助「重信」に再嫁。重信の戦死の後は「伝通院」に仕え、「一木」の名を与えられる。家康の関東入封につき従い、江戸城内、紅葉山に住んだとの「寛政譜」の記述がある(新訂18巻10項「鈴木」)。内蔵助「重信」との間に杢之助「重政」(杢之助重次)をもうけ、その子孫は旗本となっている。なお、「寛政譜」が意図した「一木」の読みは「ひとつぎ」と思われる。同書はその名の由来を、杢之助「重政」の采地が三河国高橋庄の一木郷であったことにもとめており(同15項の按文)、この「一木」の地名を「ひとつぎ」と記している。・・・ この旗本の家は 小生の知友である松平氏(旗本・鈴木氏で明治に松平氏に復した)です 思えば いろいろと面白い縁があるものです。