つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

誤解の生む世界、苦

2024-05-26 | Weblog
過去に於いて聖者と呼ばれた人でも、死んで地獄に落ちている。それは浄化の法であるエネルギーの法則を正しく理解できていないためである。エネルギーの法則は生命の存在の法則である。自由という性質をもって巡っている。この運動が円運動であるために、無くなることの無い運動となっている。つまり、永遠という事のエネルギーである。永遠であるために死というものは無い。存在しない。
消滅してしまうことの無いエネルギーである。その根本性質が自由である。「自らに由る」という性質である。例えば、「なぜあなたはそれが好きなのですか?」と尋ねられても、あなた自身分からない。「なぜだか好きなのです」と言うしかない。自由とはそういう事である。だから、すべてが自らに由って現れている世界である。エネルギーの法則、円運動となっている自由。その動きで起こる変化、移りゆくことで時間空間が生じる。動きの無いところには変化がないために、時間も空間も存在しなくなる。例えば、まったくの真円となって動いていれば、動きのないことと同様となる。動いていても狂い無き円運動であれば、動いていないのと同じとなって、時空も無くなる。変化が無くなってしまうためである。どんなに高速で回っていても、狂いなき円運動であるために「無」となってしまうのである。同化してしまうのである。言葉で表すにはそういう言い方しかない。深遠であるのだが簡単である。矛盾ではない。エネルギーの法則というのは、摩訶不思議なのである。
この摩訶不思議な言葉で説かれたのが、般若心経である。般若心経の正しい題目は、「摩訶般若波羅蜜多心経」と書く。「摩訶」とは「みがくうた」である。「般若」とは一般大衆」のこと。一般の般の文字と、不特定数を表す「若干名」の「若」を用いて「般若」としている。梵語の音写とした文字ではない。「波羅蜜多」とは、波の如く揺れ動いている多くの苦悩を示している、、「羅」とは「網」のこと、「蜜」は蜜蜂の蜜の如く、びっしり詰まっていることを示している。「多」は「多く」の意味。だから、「波の如く揺れ動く多くの苦悩に覆われた一般大衆の心をみがくうた」として、経としている。「経」とは、梵語で書かれた横文字を縦文字である漢文に訳したものとして「経」としてつけている。「経」は縦を意味する文字。「知恵の経典」として訳されることではない。その間違った認識のため、般若心経は何の力もない、ただの読経の為の経典となってしまっている。だから、何べん唱えても、ちっとも効力は発揮されない。人間の誤った解釈のために、御利益など無くなっているのである。初めて般若心経が説かれたときには、正しく解釈されていたために、多くの人々が悟りを開くことができた。そのために、力のある優れた経典として広まっていったのである。梵語の音写であるとして解釈してから、誰一人般若心経で悟りを開く者はいなくなった。
誰にもわかりやすくとして、できるだけ短く説かれたのである。衆生救済が難しくあっては意味がないためである。そのために、心経の言葉の意味に、
惑わされないようにと、ある意味注釈をつけているのが「開経偈」という経である。そのために、般若心経には序文としてついている。
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