つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無垢な心で

2014-07-31 | Weblog
私は、正しく心経を解して
道理を味方とすることができた。
まだ、完璧ではない少々というものだろうが、
確かに、無垢な心にて、浄に寄与すれば善に出逢う。
それは、経験にして知るもので、
不思議なものだ。
私が不思議としているのは、分からないが故の言葉としての不思議としているのではない。
あれこれ迷い、議論に及ばない事柄であるという思いである。
つまり、即断であり、それはまた、誤りのない思いであるという事。
そういうことが可能になるという事である。
智恵を身に付けることとはそういうことである。

智慧の判断というのは、経験の判断であり、
一を知ることにより十知れてくることである。
それは、未経験にしての予見がなされてくるのである。
実に、不思議なことである。
心経はそれを叶えてくれる唯一単純にしてある訓えである。
どう理解されるかは、本人次第、決して学識に依るものではない、
経験から学び得るものである。
むしろ、心貧しければ学び取れるものである。
それは、キリストの言う「貧しきものよ、汝は幸いである…」という事と同じである。

般若心、あなたの心次第であるために、
般若というのであるから。

よく、各各のその意を読み取れ!
無垢な心あらば・・・。
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気持ち

2014-07-29 | Weblog
因みに縁である。
それは、
自分に起因する。
それは、
によるものである。
何よりも
正しい経験が気の持ち様。
浄というのが要である。
清浄無垢にして道理である。

意という文字をじっと眺めてみる。
憶となって心が記される。
その人の記憶一生にして一億。

そこから起こる因縁。

一日はすべてを見せていて、是である。
心が作られる。
繰り返すことが善となる。
清浄がゼロに値して
真の善である。
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昨今

2014-07-28 | Weblog
なぜ努力があるのか?
一度きりの人生に。
一度きりの人生ならば、
好き勝手に生きてこそ幸せというものだろう。
それなのに、
なぜ
一度きりの人生に制約があるのだろう?

今日という一日は、昨日という一日から繋がっている。

今日という一日は、明日という一日に繋がっている。

今日という一日は、昨日という一日でもないし、
明日という一日でもない。二度とない一日である。
でも、同じようにある一日で、繋がってある一日。
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功を奏する

2014-07-27 | Weblog
生きていれば誰でも年老いる。
自然に何もしなくても自動的という風にして、
自分の意志に関わらず、否応なく。
でも、だから、
ただ単に年老いて行くというのは道理、
誰でもできる。
誰でも年老いて老いぼれとなる。が、
亀の甲より年の劫と言われるように、
人生経験から学んだ事柄は貴重である。
それが、何も学ばず生きてきたのであれば、
それこそただの老いぼれである。

苦しみ多く、楽しみ少なくして故に、深く刻まれてきた人生である。
他に交じらい、数まみれ、己を見てまた、他を知り生きてきた人生である。

齢はくっているが
礼儀を失していては人でなしである。
恥ずべきこと。

年老いるという事は、
案外とても難しいことなのである。

年相応にして、あるいは、
それ以上にして人情溢れていれば
年の劫、功を奏すである。

天にして喜ぶである。
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一目瞭然

2014-07-26 | Weblog
「舎利子よ~・」と呼びかけるかたちで解説されている般若心経は、
舎利弗が何の為に出ているのかわかっていない。
そのために、
正しい解説となることが無く、
心経で悟りを開くことはできなくなっている。

わかったようでわからないものとなっている。

学識豊かというのはどういうことだろう?
解説者の経歴は皆、いいのになぁ~・・・。

知識と智恵、このどちらで訳されているのか一目瞭然だ。

人は、知識だけでは自転車にさへ乗ることはできないものだ。
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辛さ

2014-07-24 | Weblog
つらいと思う日々にこそ意義がある。
それをどう思うかによって幸不幸に分かれる。
育成というのはそういうことだ。
つらい思い無しに、何もない。
生きていても意味が無い。
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思い違い

2014-07-23 | Weblog
「あの世は在りますか?」と聞かれて、
「あります」と、はっきりと答える。
「どうしてそんなことがわかるのですか?」と問われて、
こう答えた。
「日々の仕種を見ていれば知れてくるものです。
日々の仕種というのは、日の回りの事です。」
「日の回りは、終わることが無く続いているという事です。
繰り返し繰り返し続いているという事です。
昨日と今日が同じ様に、そして、明日も同じように繰り返しています。
それを絶対といいます。
でも、昨日は昨日、今日ではありません。
今日もまた明日ではありません。そう、一旦区切られて新たな一日があるのです。
それは同じでありまた、違うという様です。

すべてがその様にあるとして、日々暮していれば見て取れます。
だから、それと同じように、命もあるのです。
一旦として区切られて続いているのです。
無くなってしまったという事ではありません。
この世からあの世へという行き来にすぎません。
前は前として一旦区切られ、次としての新たとなっているのです。

昨日が今日と同じように少しも変わってはいません。明日もです。
それと同じように、
あの世はこの世と少しも変わることのない世界なのです。
なぜなら、
この世の記憶があの世の現象となっているからです。
つまり、心の現象の世界なのです。
心は日と同じように、無くなるという事が無いのです。
永遠に続いていくという事なのです。
一旦として一日が終わり、亦として新たな一日が始まるように。
だから、
あの世は、この世の映し画で、
この世を苦しくて過ごせば、あの世もそのまま苦しくてという世界となっているのです。
そしてまた、その縁によって、この世となるのです。
あの世はこの世の映し画であって、映し画の肉体である為に、
業によって変えることはできません。
この世に生まれてきた時が、新たな肉体を持つことになるために、
業によって変えることができるのです。
良くも悪くも、この世の心次第なのです。
運命も宿命も縁により与えられ、その縁を変えられるのは心次第なのです。
新たな肉体をもってこの世に生じた時だけなのです。
それ故、生きているという事はとても価値が高いことなのです。
無駄にしてはなりません。
一日が終わり、新たな一日が始まるように、しかし、昨日を引き継いでいるように、
心(命)もまた、過去を引き継いでいながら、無垢にして無知となっている様に見えるのです。
自分の心の写し画が、宿命であり運命となっているのです。
心次第、如何様にもなるのですが、その心はよく惑わされて、騙されやすく、して、
思うようにはいかないのです。それが人生、経験を豊かにして悟ること、
つまり、智恵を身に付けて覚ることなのです。
そうすれば、過去(過去世)が思い出され、何を為すべきか人生が見えてくるのです。
つまり、心がどうあるべきか知れてくるのです。そうすれば、
心の進化(悟り)はずば抜けて早くなるのです。
誰からも教わることなくして、‘道’というものを覚れるのです。

この世という肉体の死を生命(心)の死と思い、死んだらどうなってしまうのかと、
無という暗黒を思い描き、恐怖となっているために、死が生命の無くなることであり、
すべての恐怖の基となっている。
死は生命(心)の無くなることでもなく、だから、恐怖となることでもない。
それは、日の回りという法則が無くなることのない仕種となっているためであり、
恐怖というのも無いためである。
人の心が勝手に間違った判断をするためである。
惑わされて、迷い、騙されて、誤って思い違いをするのである。
日々のありのままを見て、ありのままに見ていないためである。」


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持て成す

2014-07-22 | Weblog
‘親しき中にも礼儀あり’であり、それは忘れてはならない思いである。
妻がある人ならば、妻を敬っていますか?
夫がある人ならば、夫を敬っていますか?
親友がある人なら、その友を敬っていますか?
身内であれ、心を許した友であれ、
親しければ親しいほど無礼をしてはならない。
不遜があってはならない。
人として常に対人として見、敬重することである。
確かに軽蔑に値する者がいるが、
自分が礼をもって生きている者ならば、障ってはこれないものである。

子であれ、親であれ、
対する人(命)
と見て敬い接することである。
重んじるということである。
すれば、
持って成されるという事である。
未来に微笑むのである。
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戒める。

2014-07-21 | Weblog
倹しく慎ましく謹んで生きる。

それは、がまんしてということではない。

どんなことにでも礼をもって生きることである。

無礼であってはならない。

自分を愛しいものとするなら、
当たり前のことである。

人の心に邪があるものだから、
謹慎は常に大事である。
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等しくと・・

2014-07-21 | Weblog
人に優劣があっても、
その心、皆等しくとあれば、
優劣にして優劣なく、長短の長を見てあり、
ただ偏に敬われて慕われるものである。
親しみ深くして平伏されて、何にも増して崇められるのである。
それでも、皆等しくあるとするために、献身にして
慎ましく倹しくをもって感謝感謝の念いひとつである。
さて、
頭を上げて胸を張り、私と共に語ろうよと歩むこと、
笑みの絶えないことである。
その周り、
智慧の溢れろこと然りして、共栄である。
我一人して独りならず、そこらじゅう
思い溢れるものである。
あぁ、有難き、有難きと謹み謹み深くあり・・・。
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