つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

沙羅(高遠)

2015-05-31 | Weblog
「おそらく」と言っておこう。

‘反して’と事物はあり、物事は起こる。
気性の荒い者がいれば温厚な者がいる。
頭の良いものがいれば悪いものがいる。
端整なものは一概に端正とは限らないが、
端正なものは一様に端整なものとなる。
裏腹にして事物はあれども、物事は裏腹ではない。
ある時という過程にして事物があるけれど、
終には有終の美となっている。
それが是という法則である。
エネルギーの法則である。
浄化の法則となっている円運動であり、
自由である為に、‘反して’として、
それぞれ正義となっている。

私たちは、文字に見合って正しい浄化の法となって、
苦もなく生きる事が正義である。
自由というのは、選択できる事である。
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食物

2015-05-30 | Weblog
○○梗塞、○○癌、こんな病名で死ぬ人が増えている。
うつ病、痴呆症など精神疾患、いわゆる心の病で死に結び付く人の多さに驚く。

なにやら、仕組みというのは、複雑にして一概に一様を示すわけではないから、
事細かな感受性を要して、真実を捉えなければならない。

縁起というのは、悪には悪、善には善である。
複雑にして一概に一様でないのはその過程にあるが、
果は単純にして一概一様である。
時としてその過程に惑わされたりするが、根本ゆるぎなくあれば、
そのまま単純である。

それを踏まえて、

毒は体に悪くが当たり前。つまり、体に悪いのは毒となる。
薬は、過程にあり秩序をもって奏するが、以外は毒でもある。
毒を以て毒を制するを知らなければ、ただ毒となってやられてしまう。

良薬口に苦しで、臨機にあるための処置、甘美にあっては常となり、
毒となるために自然の配慮がなされている。

食べてはいけないものは、人工的にして自然にない構造をもつ
食物である。あるいは、知らずして取り込まれたいけないものである。
自然に無い物を分解していくには長い時間がかかる。
その間、ずっと刺激し続けられて異常をきたす。
弾力が無くなり柔軟にかけて硬化をきたす。
そのために、気の廻りが上手く流れなくなる。
一番刺激し続けられているところが異常となり害われていく。
毒物は即異常となり死に至らしめるが、ごくごく少量ずつであれば、
ある程度の期間をもって死に至らしめる。その場合、一概に一様を伴わないために、
放置された状態となってしまう。つまり、はっきりした原因をつかむのに時間を要するのである。
食べてはいけないものは人は食べないが、食物として害には及ばない程度となれば食すのである。
つくる過程に於いて薬漬け、遺伝子操作、精製されすぎた食物等々、食べてはいけない人工的食物、添加物は
あまりに多く出回っている。
口当たりがよく、安価に作れて商売となればよい、その後がどうなるかをあまり研究しない。
老衰で死ぬ人はそんなにいなく、本来かからなくてよい疾病で死んでいく。あの人もこの人も、と。
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苦労の計らい

2015-05-28 | Weblog
馬鹿な者というのは何人いてもつかえないものだ。
ところが、気の利く者が一人いるだけで仕事は大幅にはかどる。
教え甲斐があるのは言うに及ばずであるが、
子に於いては鈍くさいほうが優れる見込みがある。
老いては気の利かない者ほど情けなく、誰も何も言わなくなる。
言いたくもなるが、誰も口を噤む。

苦労にある
愛の一面は反面でもあり、見込みと見放しと
で惑う。
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やり直せるということ(卒・業、・去)

2015-05-26 | Weblog
釈迦が悟りを開いた時、それは
あまりに深遠である為に、他に
訓えたところで理解されることはないと知る。

確かにそう思う!

愛は大事であるとみんな知るも、それは利己的にしてある愛。
利他にしてあれば争いなんかないものを。

理解というのは、道理を覚ることで、
道理はあまりに深遠である為に、往々にして誰でも覚るには無理がある。
そのために、道理に無いことは何をしてもかなわないもので、
一切衆生を救うという誓願はかなうことはない。
気づくものだけがかなうものであるが、それも、運命共同体にあり、
皆ただ滅ぶものである。多勢に無勢。
人間という稀に見る資質は、不完全にして高等な動物である。
だから、一旦という空白の間を置いて正され、書き換えられた
12ある螺旋遺伝子は甦りつつある。

魂の不滅こそ最強である。
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愛情

2015-05-24 | Weblog
人が円満に暮らしていくには愛情が不可欠。
あらゆる事柄に愛情が関与していて、そのために、
愛情の欠如した行為行動は、人という存在の有無を左右する
危険極まりない危機的状態になる。
進化の過程にある無知なるゆえの模索に赤信号がともっている。
犠牲の上に成り立っていく道程の誤りに気が付くことが無ければ
修正も行われず、互いに傷つけあって、そして誰もいなくなったという完全滅亡となる。
おそらく、いま知るところに、愛情の無い行為は逼迫している。
それは、魂の使命という根本性質に依ることが無く、各自利己的方法手段によって営まれる経済的方便で
成されているために、同種生命体でありながら、競争というより分けで生死を苦しみに変えている。
生きることも死ぬことも勝者敗者という差別の中に置かれて、互いを共存という見かけだけにして生きている。
宇宙に数多くいる高度に発達した生命体、また、その過程にある生命体にしてある中で、稀に見る非情なしきたりで生きているものである。

教育とかまた援助とか救援とかは、受ける側に気づきが無くして為されることはないものである。
気づくことのないものにどんなに救いを与えても骨折り損となるだけで、無駄なことなのである。
一時の救いに与っても元の木阿弥となるのが道理である為である。
絆絆と言えども、ただ言われるだけで、
困ったものの救いとなることはない。それは、真に困った者のみが受ける思いである。
救われるというのは、献身にあってこそなされるものである。
それは愛情一つ、互いの愛情交叉を持ってしてなされるものである。
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自らに然る

2015-05-23 | Weblog
よく道理を覚る。
春には春の野菜を食べる。夏には夏の野菜を食べる。秋には秋の冬には冬の
それぞれにとれる食物を摂取する。
極寒にあり植物の取れないところは、それぞれに見合った保存食にして摂取する。

冬に西瓜が成らないのはそれなりに理由があって成らないもので、それを、
不自然にしてならせて、冬に西瓜を摂取することは、一時的な効用として以外は、
摂取してはならない。
それは、薬も常用として摂取すれば害となるようなものである。

各々季節に見合って食用としての植物を見分けることができなければ、
いくら良いものとしてあっても、災いとなって現れてくるものとなる。
それは、すぐにというわけではなく、じわりじわりとかさなってという間をもっている。
そのため、すぐに原因がつかめないでかなりの時間を要して、そのための犠牲は払拭できないものである。

私たちは時間に縛られてあり、時間をうまく調整できないでいるものである為に、
時機というものを捉えて行動しなければならない。時期を見て時機に応じなければ台無しという事になる。
そう言う世界観にいる者である為に、回ることによって生まれる時の流れを知らなければならない。
ただ堂々巡りでは時間は進むことはなく、空転となり道理に反していることになる。
私たちのいる肉体にある精神の世界は、時間が常に進むという事で作られているもので、
その上で、時間空間の無い回転、静の世界、純粋な故満円となっている動的回転に進化して、
常住を得るもので、その時、肉体を必要としない記憶の現象にある肉体として存在していく。
それは一見円い光の玉、エネルギー体にしてあるが、自由にその姿かたちを記憶の中に呼び寄せることができるものである。
それを為し得た記憶の肉体は、黄金律にあり、実に美しいものである。
それが魂の行き着いた最後の完成形の姿である。エネルギーにして眩い光の玉である。

神は、「自分に似せて人を作った」とされるように、
人もまた何かを「作る」には人という構造に似せて物を作る。
たとえば、車にして、宿命という体(車体)をつくり、ライトが眼でありタイヤは手足、、コンピュウターが頭脳、
燃料は食料に値して、排気が廃棄物(汚物)で、車内は車をコントロールする魂のいるところ、心という
とりとめもない場にあたる。その心(乗り込む人)によってハンドル(運命)はどうにでも操られる。ある制限をもって!
そこにそのものの持つ美的感覚の意識を持つが、その意識に囚われていれば、
美意識もそこに留まり、その目線で美的感覚を思うために、必ずしも画一的に美的とは思わない。
意識が飛躍してあるなら、黄金律は一様に美であるために、端整として意識する。
だから、自然(神)がつくるものは美しく浄化された姿形、情景を為している。
生命体は高度に発達していけば複雑になり人型に行き着くが、単純にしてバクテリア「小さい棒」に基づく。
それぞれに観た美意識が飛躍にあることが進化である。
共存という事をうまく理解する智慧を得ているという事になる。
そのために、「常」に平和を有している者である。
道理は自由にあるために、本来、自然には無いものが人工的?に混ぜ合わせて作ることが可能である。
しかしながら、なぜ自然が作らないのかという事に思いを馳せて、人工的という創造物でなければ、
凡そをもって、その創造物は創造主の脅威となって変化していく。それが、自然でないものの持つ異変という進化である。

私たちは「是」というエネルギーの法則に基づいて作られている。それは、
回るという事であるための時間空間が作られて、進化している。
だから、「いつも同じ」を生きているが、いつも同じにして同じではないことを知る。
堂々巡りは空転にしてあるが、進化は堂々巡りにはない。
あまりに完璧にして満円である為に、動いていることにさえ気づかないエネルギーの動きが自然である。
そのために、毎日が変わらない、同じという事にある。
そのことに気がついて、あらゆることが自然に教えられてくるものとなる。
常識は誤解に基づいてくるために、一人ひとり智慧を持って生きなければならない。
それが自然である。自らに然る。
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コピー

2015-05-21 | Weblog
本物というのは独自である。
誰かに師事して物事の特徴を捉えるのは本物とはならない。
本物になるというのは、自身を拠り所としてあらねばならない。
何もかもを一からという独自にあって本物となれるものである。
そうでない限りの識は神髄の無いもので、ただの映し画でしかないものである。
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肉体という煩悩

2015-05-20 | Weblog
肉体は煩悩の塊。
魂が精神的に向上していないために、
魂が肉体をもって生まれてくるもので、
そのために、肉体は他の命を食しながら生滅を繰り返すものである。
無常なものである。儚いものである故、哀しいものである。
特に、肉食にあれば肉体的向上は認められていくが、精神的向上のテンション(緊張)は下がる。
菜食にあれば精神的向上がされていく。
他の命をもらい生かされていく肉体は、哀しい性にあるものの、
精神的向上によって魂が磨かれて、輪廻からの解脱がされていく。
無常の中にあるものの時を活かして、煩悩を滅していく。それが
肉体の担う役目である。肉体の要求と魂の兼ね合いをいかに取るかである。
魂が精神的に向上していけば、流転も避けられていくのである。
肉体における制限は、魂の健全なる制御によって変えられるものである。
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生きている、を思う

2015-05-19 | Weblog
食べるために生きる。
だから、
年がら年中食べている。
美味しいを求めて暇さへあれば食べている。
口寂しくて、と。

生きるために食べる。
だから、
足るをもって食す。
有難く
を頂く。
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それぞれから

2015-05-18 | Weblog
植物、
花の一生を見て人の一生を思う。
縮図にして覚る。
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