つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

名は体を表すが・・・

2007-05-30 | Weblog
この世に生まれて
某の名を貰い受ける。
いずれ名は体を表す。が、
しばし、その意味を知らない者は
名に恥じて体を害う。
般若は凡そそうである。
夜のうちのある時期ひとつでも目覚めて、
ただじっと自分の名を見つめ
その意味を知るなら、体は名に恥じない振る舞いと成る。
名は、他からの愛しみの願いが込められていて、その念いは叶うものであるが、我がままに振舞うものは
名に恥じて、他を害い、自らも害う。

この世に於いて
幸福になるには二つあるという。
一つに、欲望を滅する事。
二つに、物を沢山持つ事。
一つめは、仏の言う究極の幸福を得るが、
二つめは、この世の事柄、苦楽の中にある。
究極の幸福は、人の世の快楽など及びも付かないほどの快楽であるために、
究竟涅槃という。あの世の事柄である。
人は必ず死ぬ。そのための事柄を説く。そのための幸福として・・・。

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一度きりの・・・

2007-05-28 | Weblog
人としての生命が
たった一度きりの人生であるなら、
何を耐え忍ぶ必要があるだろうか。
生まれて、思うがまま、我がままに生きたほうが幸せではないだろうか。
好き勝手に振る舞い、人の迷惑顧みずというふうに、
すべてが自分の快楽のために生きる。辛いことは避けて、自分に対して
すべてに於いて都合のよいようにして、他を無視して生きる。
とどのつまり、悪三昧で生きる。
もし、生命がたった一度きりの人生としてあるのなら、成り立つ理である。
然るに、真実はそうではないから、先人たちは言う。
道理を知り、真実を見るに至った賢者たちは、
口をそろえて、悪は為すなと言う。
それは、生命が、たった一度きりの人生としてあるのではないことを覚ったからではないか。
生命はあの世へと、また未来世へと縁をもって生きていくものであるからではないか。覚りの開かれぬ生命である限り、
行為の絆という縁を持って輪廻転生をする。
為した行為の報いを受けながら。
真実、たった一度きりの人生として生命はあるのではない。
これを理解した人は、どうして悪をなすことができようか。
自分という生命の為に・・・。
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依存

2007-05-27 | Weblog
雑草と呼ばれる野に咲く花は、
生命力旺盛で、辛い環境におかれても
なんとか 生きていく。日照りが続いて 水などなくて
カラカラにかわいたところでも
精一杯変わらずに咲き誇る。時を逃さず
旬として。
善く道理を弁えて、道理に従い生きているために
よくよく道理に守られて、旬に合う。
与えられた生命を全うする。
名もなき花でありながら、真理を具える。

自然から離されて、人の手がかけられたものは、
道理を奪われて、個に生きていく力を失う。
あでやかでありながら、依存に振り回されて
哀しくて短い。
人の手がかけられたものは
道理を失い、すべからく弱い。
真理を見る間もなく短命に終える。
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意味がある

2007-05-26 | Weblog
人の一生、およそ80年の生き方。
どう生きるか、どう生きたか、で 次の人生が決まる。
短命、長命が幸不幸を分けるのではなく、
どう生きたかによってわかれる。
一度きりの人生であるなら、好き放題に生きたほうが良いはず。
なぜ辛いことが起こるのか、なぜ耐えるのか、それらに
正しく対処しなければならないのはなぜなのか。
一度きりの人生であるなら、心の趣くままに
つまり、我がままに生きたほうが良いはず。
それなのに、どうして
我がままに生きる事がいけないことと理解されているのか。
善い事と悪い事、して善い事と、して悪い事
なぜ、あるのか
この理を知るべし

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かなしいよ!(悲しい世)

2007-05-25 | Weblog
一人でいるより二人のほうがいい。
寂しくないから。
ずうっと二人でいても違和感がなかったら
それは本物の愛。
生きていく中で、それが無かったなら生きていけなくなる絶対という
空気のようなもの。
もどきでなくて本物だから生きていける。
紛いものだったら、苦しくて生きていけない。
それなら、二人より独りのほうがよい。
空気は無くてはならないもの、でも汚れたら生きていけない。
愛も同じように 汚れたら生きていけない。
汚れた愛は、愛に似せられた紛いもの。愛もどき。
世の中にはそれが溢れている。だから、生きていけなくなってきている。
だから、悲しい世と嘆く。(>_<)
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愛は煩悩

2007-05-24 | Weblog
好きな人ができた。
その人に好きになってもらいたいために
いろいろ努力する。やがて、
片思いなのか、両思いなのかと悩み切ない思いをする。
心ときめいて、浮き上がり、ざわめく時を迎える。
激しく駆け巡り、無我夢中で通り過ぎていく透明な二人。そうして、
淋しさに出会い、、哀しみに出逢い、独りに出会い、憂える。
優しさに躓いて転び、いたわりに泣いて、
恋はするなと、愛するなと知りつくし、
恋におぼれ、愛に縋りつく。
恋は愛は苦しみだと知って、だから、恋するな愛するなと
愛する。
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人を好きになったら

2007-05-23 | Weblog
感官研ぎ澄まして
その時々の風をよむ。
場の雰囲気を察して、臨機応変に対処し、
常に倹しく慎ましくあれ。
引き際を誤ると嫌われる。どんなに長けていても。
頭が良くて、気が利いても、道徳を弁えず、道の理を知らない者は、
人としての格は下の下。
不器用といわれても、鈍才といわれても、
温厚で道徳に長けて、よく道の理を知る人は
慕われる。
幸に慕われ、福に慕われる。
よくよく愛する人に慕われる。
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「そうか」とだけ

2007-05-22 | Weblog
疑う事はやめて信じる事。
「信じるものは救われる」という。
信じたが故に騙されて・・・いまの世はほとほとそうだろう。
でも、疑う事には哀しみが付きまとい、迷妄止まず。
信じる事には誠が付いて、終には禍が無くなる。
真事が見えて騙される事がない。
嘘をつかれて、見抜いても
そのままにして暴かずに、つかれた嘘にうなずいて
信じてあげる。ただ、「そうか」とだけ・・・
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下心

2007-05-21 | Weblog
「損をして得をとれ」と言う。
本心 そう思うなら、そうした行為のその果は損じる。
その人に対して、本心得をしてもらいために、その一心で
自分が傷ついても、他に何も求めずに情を注ぐなら、
その果は、双方 善く報われる。
後の果の善し悪しを考えて、「損をして得をとれ」とするのは
下心。どんなに良くしても報われる事はない。
行為はその果を得るが、一時的にと、最終的にと現れる。
心の無いものの行為は、一時的に好い果のように現れるが、
終には、無慙にも悲惨になる。
心を注ぐ。何に対しても誠意を持って!
その果は、終には善く善く報われる。
下心は持たない。
捨ててしまえ、ただ捨ててしまえ。
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平常心

2007-05-20 | Weblog
人を嫌うのはよくない。
人を好きになるのもよくない。
嫌いになることによって気にかかり、
好きになることによって気にかかる。
共に心ざわめき、苦しいものだから。
愛しない。恋しない。だからといって嫌いにならない。
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