つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

漂う気

2015-07-30 | Weblog
善い人の前でも悪い人の前でも、
何ら変わらず花は咲く。
自分を見る人の好むと好まざるとにかかわらず、
精一杯の咲き誇り。
ただ、
詳細にして、
善い人の前では好ましく、
悪い人の前では哀しく、その色合いが醸される。
妖艶にして、
好気的に好奇と香り、嫌気的に嫌忌と臭う。
ただ
どちらにも同じとして匂い放つ。
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敬老の人

2015-07-28 | Weblog
仕事をしていて、本当に毎日思うことだが、
無駄に年老いている人ほど哀しいものだと思う。
髪に白髪が混じり、顔の皺が立派に刻まれてありながら、
人間関係にとても疎く、礼儀が付いていないと情けないものだ。
何とも仕様が無いとその人間性に落胆する。
学あるものではないにしろ、礼儀をわきまえている人というのは素晴らしい。
敬意を持つ人というのを老人として、敬老とする。
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疲れる人

2015-07-27 | Weblog
吝嗇というのはいただけない。
最も蔑まれるものである。
改めるべき事。
節約というにはこじつけ。
浅ましい心である。
そういうものといるのは
ただ疲れるのみ。
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動じて

2015-07-26 | Weblog
どんなに美しい人でも、その体からは汚れという排泄物がでている。
それを常にケアしてのみ、美しさが保たれる。
そうでなければ、汚れていく一方となり、終に汚く朽ち果てる。
「常に」が要であり、手当は美というものへの絶対条件となる。
その手間を惜しんでは美は廃れていき、醜くなっていく。
手間暇をかけて手当していることで美は保たれている。
自然が美しいのは、常に動いているためである。
反応である。

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格物致知

2015-07-25 | Weblog
私たちが思う神々の世界は、とりとめもなくつかみどころのないもので、
いわゆる、「わからない」という存在である。存在である為に、
曖昧という心の処理をする。だから、あると思う人にはあり、無いと思う人にはない、
という人それぞれの存在。それは、神業とされる事柄を示されて思うものと、
非常識にあるところの事柄に一度も出逢わずに、ただ人伝いに聞いて思うものとの心の在り方だけであり、
実際には誰も目の当たりに見ていないし、だから、証明もできない。
証明もできないために否定もできずに、何とも分からないという一言に尽きる存在である。
これは私たちが考える「無」ということについての、
「例えばこうではないか?」として語る想像の域を出ないのと同じことである。
語ってもしようがないことであり、語ることができないという事であるが、
どう処理をするかに於いて、‘例えば’としてわかりやすく示しているだけである。

仏教における在家の維摩居士は、無について問われた時、ただ口一文字であった。
それを見て、凡人にあるものは答えられないとして一笑にふすが、文殊師利菩薩はお見事と
その答えに感嘆した。
世の中、自然というものはありのままにしてあり、ありのままに表しているものである。
そのありのままは、ありのままでありながら真実に程遠く覆われたりしてあったりする。
それを鵜呑みにするのか、よく精査して明めるのかが
達人と凡人の格差である。共に一瞬にして思う判断ではあるが、雲泥の差となっている。
どこにその差がついて優劣となるのかは、知識の判断ではなく知恵の判断による。
知の識を選り分けるのは、経験の一事による知の恵み、致知による万事である。
智恵というのは、そのような功徳がある。悟りへの導である。
智恵の無いものは短絡的であり、その果は落胆に繋がっている。
一事が万事として、その者の‘ほぼ’を集約できる。

自分にできない事、或は、人としての常識的能力を超えて行える人は、カリスマ的として、
神様のように崇める。神様扱いをするように、人が神と呼ぶ存在は、
あまりにも超人的なことができるものを神とした。
科学に於いても、その技術が優れて、ありもしない力を見せつけられれば、当然ながらその者達を神様と位置付ける。
とてつもなく先進であるなら、太刀打ちできないほど強大な力を持つものである。
人が思う常識を超えた者達、それが神という生命体である。
人類の技術も進歩して、荒唐無稽と思われることが、実は、存在しうることとして捉えられるようになってきた。
ただ単に、人が神と呼ぶに至った存在は、
人類よりはるかに進んだ異星からの来訪者として捉えれば、人類史上の様々な不思議が、
辻褄が合ってくる。
生命というものは、ピンキリであるように思われる。無知にして劣悪にあるもの、
智慧を得て上等にあるもの、
如何に格物なる法則の仕組みを理解するかによって、正しい手立てが見えてきて、行くべき方向性が知れてくる。
今のところ、私の知る限りでは、「是」が答えであり全知全能である。その質が「自由」である。
抽象的として捉えるものであるが、自由である為に捉え方によって現象となる。
それは、量子に見られる正反対なものが同時にあるという現象。どちらも正しい存在である。
だから、無記にして自分が決める自由からなる。
自分が「良いもの」でなければ、裏腹にして物事は展開していく。
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思いもよらぬという事

2015-07-23 | Weblog
人の真実は、死ぬために生まれてくるという事。
だから、死後の世界が生命の真実の世界である。
その世界が幸せであるか否かという絶対世界である。
曖昧ということはない。
そのための選択肢にあるこの世である。
生命は不老不死である。
ある意味、ヤドカリのようにしてこの世とあの世を行き来して、
死ぬために生きるという真実を覚ることによって、
輪廻の繋がりを絶つ。
それは、無常にして常住というエネルギーの法則の自由を悟るために、過つことが無くなるためである。
人知の識を改めて、
不老不死にある生命が、エネルギーの法則の自由を常として識とし、恵みとすることで叶う。
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独りが気楽

2015-07-22 | Weblog
気遣いの出来ないものといるのは疲れるものだ。
それなら、独りでいる方がよい。
馬鹿といるほど疲れることはない。
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無報酬

2015-07-21 | Weblog
ただ働いて帰ってきてテレビを見て寝る。
この繰り返しで人生が過ぎていくなら、
意味も無く生きているということに変わりはない。
お金を稼ぐことに執着して、幸せを買う。
幸せを買うことが幸せとして生きている人生だから、
毎日を従順にして労働に勤しむ。
お金に縛られていることを不自由とも思わずして、
鎖に繋がれた犬のように、束縛に従順して自由をはき違える。
労働というのは、お金に縛られてあるものではなく、
魂の自由にしての使命となって、究めることに感嘆するものである。
労働が献身として、魂の使命、功徳となる。
神々の生きている仕組みである。
高次元の世界観。
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2015-07-20 | Weblog
「...喜べるときも、また病むときも
共に分かち合い、共に助け合い生きていくことを誓いますか?云々・・・」と
人、皆、ほとんどはうまくいっている時は優しいものだ。愛情豊か?にして寛大でもある。
特に経済的にして上手くいっている時は、好い人としていられるものだ。が、
ひとたびそれが崩れてきて、上手くいかなくなって貧困ともなれば、
互いを罵り、あげつらう。
本性が現れ、醜さがほとんど。優しさというものも無く、
寛大でもなくなる。
性善なるもの、性悪なるものの本性が現れてくる。
「病むとき」も、の「時」が大事である。要となる。
要は、常にゆるぎなく持ち合わせていなければならない。
そうすれば、試練は常に乗り越える。

汝は、どれを持ち合わせるかと、問いかけられる。

人生である。



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愚か者は恥を上塗る

2015-07-19 | Weblog
「たった2520億円、国が払えないのかねぇ」と言った森さん。
いやいや、日本国、それこそそんな金なんか払えるんですが、国民の批判があまりにも大きくなってきたので、
下がり気味の総理の支持率に危機感をもって、見直しに入ったとしただけで、少々の批判のままであれば、
そのまま決行したはず、金のあるなしなど、税金で食べている人たちには破産の危機感などない。
現にこの国の借金高を見ればわかることだが、どんなに負債があろうとも公務員にはボーナスも払われて、
総理の貰う額は羨ましい限り。それは一国の長であれば、当然であろう程のきつい仕事なのだから当たり前なのだろうが、
国は、借金漬けなのだから、無い袖は振れないものなのだが、無い袖を振って払っているのはおかしなものだ。
もらうものはしっかりもらって、金が無いから税金を上げよう。最も取りやすい国民から消費という理由に於いての税金で、
吸い上げようではないか。これは平等?というもっともらしい理由をつけて徴収すれば納得いくことだ。
嫌なら消費しなければよいのだから・・・と。平等の線引きも平等ではなく、営業努力の必要性も無い義務とする形で入ってくる税という金の量は
凄まじいものだから、その金を扱って生活をしている人達には、
金勘定がマヒしてしまうのだろう。だから、たった数千億と口に出てしまう。
まぁ、億、兆単位で扱う行政機関やら他金融関係のところは、往々にして金への感覚麻痺は否めないものである。

十円百円千円という僅かな金勘定の中で、懸命に働いても、月十万、二十万、無理強いして三十万の賃金、
あの税金、この税金ととられて、はたまた介護料だのと払っても、ろくな介護も受けられずに、おまけに、働いていながら
生活保護を受けている人よりも低い賃金という有り様は、どう考えても理不尽である社会。
子供を養えるほどの賃金も無く、結婚するほどの経済力も無く、人を道具として捉えるブラック企業などという言葉がまかり通り、
その悪徳に支えられての有名企業があるのも、何とも経営者の資質の最低さがうかがえる社会である。
自分さえよければ?が見て取れる社会かもしれない。
そんな一部の金の亡者の悪智恵が働く人達と、何にもしなくても入ってくる税の仕組みを作る人達の悪智恵とが合わさって、
世の中の常識が作られ回っている。いま、ピラミッド型にある人の階級は、悪智恵の働く者の仕組みであり、頂点の彼らは挙って
頭が良い。その一部の人達が、豊かさを続けていくためにある騙しのテクニックに導かれた社会、世界秩序である。

日本は、原爆を二発も落とされた国である。戦争を経験した人たちはほぼ死んでしまい、その悲惨さを語り継がれていても、
経験したことのない人たちがあふれてくれば、真実の恐ろしさも薄れてしまう。人は愚かでもある。
頭脳明晰にしても煩悩具足にして愚かに尽きる。

一人ひとりがいつか死ぬものである。その死ぬ際が悲惨ではなく、誰もが安らかでありますようにと願うことに、
同じであることを覚り、議論も無くなるものである。
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