私たちが思う神々の世界は、とりとめもなくつかみどころのないもので、
いわゆる、「わからない」という存在である。存在である為に、
曖昧という心の処理をする。だから、あると思う人にはあり、無いと思う人にはない、
という人それぞれの存在。それは、神業とされる事柄を示されて思うものと、
非常識にあるところの事柄に一度も出逢わずに、ただ人伝いに聞いて思うものとの心の在り方だけであり、
実際には誰も目の当たりに見ていないし、だから、証明もできない。
証明もできないために否定もできずに、何とも分からないという一言に尽きる存在である。
これは私たちが考える「無」ということについての、
「例えばこうではないか?」として語る想像の域を出ないのと同じことである。
語ってもしようがないことであり、語ることができないという事であるが、
どう処理をするかに於いて、‘例えば’としてわかりやすく示しているだけである。
仏教における在家の維摩居士は、無について問われた時、ただ口一文字であった。
それを見て、凡人にあるものは答えられないとして一笑にふすが、文殊師利菩薩はお見事と
その答えに感嘆した。
世の中、自然というものはありのままにしてあり、ありのままに表しているものである。
そのありのままは、ありのままでありながら真実に程遠く覆われたりしてあったりする。
それを鵜呑みにするのか、よく精査して明めるのかが
達人と凡人の格差である。共に一瞬にして思う判断ではあるが、雲泥の差となっている。
どこにその差がついて優劣となるのかは、知識の判断ではなく知恵の判断による。
知の識を選り分けるのは、経験の一事による知の恵み、致知による万事である。
智恵というのは、そのような功徳がある。悟りへの導である。
智恵の無いものは短絡的であり、その果は落胆に繋がっている。
一事が万事として、その者の‘ほぼ’を集約できる。
自分にできない事、或は、人としての常識的能力を超えて行える人は、カリスマ的として、
神様のように崇める。神様扱いをするように、人が神と呼ぶ存在は、
あまりにも超人的なことができるものを神とした。
科学に於いても、その技術が優れて、ありもしない力を見せつけられれば、当然ながらその者達を神様と位置付ける。
とてつもなく先進であるなら、太刀打ちできないほど強大な力を持つものである。
人が思う常識を超えた者達、それが神という生命体である。
人類の技術も進歩して、荒唐無稽と思われることが、実は、存在しうることとして捉えられるようになってきた。
ただ単に、人が神と呼ぶに至った存在は、
人類よりはるかに進んだ異星からの来訪者として捉えれば、人類史上の様々な不思議が、
辻褄が合ってくる。
生命というものは、ピンキリであるように思われる。無知にして劣悪にあるもの、
智慧を得て上等にあるもの、
如何に格物なる法則の仕組みを理解するかによって、正しい手立てが見えてきて、行くべき方向性が知れてくる。
今のところ、私の知る限りでは、「是」が答えであり全知全能である。その質が「自由」である。
抽象的として捉えるものであるが、自由である為に捉え方によって現象となる。
それは、量子に見られる正反対なものが同時にあるという現象。どちらも正しい存在である。
だから、無記にして自分が決める自由からなる。
自分が「良いもの」でなければ、裏腹にして物事は展開していく。