つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

罰当たり

2013-03-31 | Weblog
方丈記にもあるように、平家物語にも語られているように、はたまた
いろはがるたにも歌われているように、他多に諸行無常、栄枯盛衰は世の道理であると語られる。
切なく哀しく響くのは本能である。
「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」とうたわれて、はなはだ納得するものである。
生きとし生けるもの、哀しいものであると昔から知られていても、共存共栄もなく
我が物顔で生きる人の罪作り。人でなしという罰当たり。
そのための不安な日々にある今日この頃。
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2013-03-31 | Weblog
道理の容は円満という容である。
そのために、天空は円く果てのない有限となっている。
私たちは、どこまで行っても果てにたどり着く事はなく、
円満の中から飛び出す事はない。それは、直線的に進む事はなく、
円運動をしているためである。
どんなにまっすぐに進んでいると思っても、思っているだけで、
実際には曲がってしまう。心も円運動のエネルギーであるために。

円満の外側は無であるために、私たちの考える事のできないものとなっている。
出来ない事を考えても無意味。考える必要のないことなのである。
無ということはそういうものである。

人が死んでしまうということは、肉体がなくなってしまうだけで、
生命、魂がなくなってしまうということではない。魂は心であり、心は記憶のエネルギーで作られているもので、
そのエネルギーが法のエネルギーと同じであるために、
法が無くなる事のないエネルギーとなっているために、生命エネルギーもなくなることがなく、永遠に存在するものとなっている。
肉体は一時的なエネルギーの対応によるもので、変化に対応した現象となっている。だから、無常であり一定ではない。
生命エネルギーが肉体を持って変化に対応しているもので、完全円満となれば対応する必要もなくなっていく。それが、
常住なる法である。生まれる事も死ぬ事もなくなっていく、喜怒哀楽のない寂静の世界となっている。
それは、何ものにも犯されることのない世界であり、どんな力をもってしても変わらないものである。

すべてが円運動を為していて、それがエネルギーであるために起こる性質である。
その性質は自由というものである。
左右回転していて、緩み広がるものと縮み締まるものと同じで作られている。
立つ位置で違うもので、全体は相殺して変わらないものとなっている。
天空には上下左右何も無い。

それは、「百千万劫難遭遇」である。所謂、唯一である。
どんなに優れても、この法則より優れる事はない。
優れるというのは、この法則になるということである。法に沿えば沿うほど優れていくのである。

人が憂えるということは、心を配るということであり、法に沿う生き方である。心配りをして優しくなって、そして、優れていくのである。
だから、同じ字でもって表されている。

時空を超えて、どんなに高度に発達した生命体がいても、この法則の下の存在である。
生命エネルギーに変わりはない。人と同じである。
よく道理を心得て生きる。・・・角を立てるな円くなれ、と!
法の性を生きる。
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裏腹に

2013-03-30 | Weblog
差別を付けたがるのが人間である。
優劣をはかり、少しでも他より優っていることに喜び高ぶる。
哀しいかな、それが何の得になることもなく
むしろ、ことごとく自分を傷つけることを知らない。
下劣なもの、蔑まれるものになっていくことを知らない。

威張るということは下品なものだ。
ただ自己満足のため、慢心あって敬するに値しない。
たしか、
弱い犬ほどよく吠えて威嚇し、擬態をするものである。
あからさまに哀しさがわかれども、一つの嘘も方便である。

浅ましさというのは、
その振る舞いによって勝ち得たとしても、一時の幻そのものとなり、
結局のところ損じてしまうものである。

真実のあるものは一切音無しく、静かに振舞っている。
佇んで観じているだけである。一事を観じ万事を知って
それなりに報う。

完成されたものというのは、表面は静かである。
内面は、絶えず規則正しく動じていて、
それが、‘動かぬ証拠’ということになる。
怠ることなく動じていることが休んでいることでもあるために、
満々として力がある。力があるために大人しいのである。

大地にむやみにごみを捨てても、大地は何も動かない。
捨てられたらそのままである。大地は咎めることはしない。

むやみにごみを捨てた者は、いつも汚く生きて、汚く死んでしまう。
汚い思いをして、心裏腹に死んでいくのである。結局のところ、
咎められた人生として死んでしまったことになる。


動かないものというのは、‘動かぬ証拠’として
絶えず動じていて観じて感じているのである。
威厳のあるものであり、完成されたものであり、
すぐさまということは無くすぐさまに、相応を与えている。

飾り立てるものほど一時であり、中身の無いものである。
弱いものほど強がり、威嚇する。
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ヤドカリ人生

2013-03-28 | Weblog
あの人生この人生と何度となく生まれ変わって生命である。
その時々の運命の記憶が統一されて、今ある人生の心となっている。
魂である。その魂の放つ色、マイクロウエーブは鮮やかに輝いているか?

魂の善し悪しで、物事の善し悪しが集まってくる。
良いものには良いものが、悪いものには悪いものが、と寄ってくる。

表向きはよろしく計らっていても、
心根がよろしくなければ、よろしくないものが集まってくるのである。
それは、損得で生きて、損をして得を取れなどと下心があれば、
損得勘定ばかりの人が集まり、タヌキでありキツネである化かし合いの哀れさに終始、
共によい目に合うことは無い。感情の無いいわゆる無情の世間を行き来するのである。
それもこれも心根、魂の所為である。
「どうして、こんなつらい目にわたしだけが・・・」と歎くも、
心根、魂を省み正さないためである。
魂に無知であるためである。
さて、夢が未来となることは無く、過去が夢である。
強く意識したことが現れてくる。
空を飛んでたり、怖い夢だったり、見たことの無い世界だったり、
それは、心の記憶である。連綿とした過去の記憶である。

法、それは円運動のエネルギーである。エネルギーの性である。
して、自由であるための永遠である。
だから、
生命エネルギーも同じである。無くなることが無く永遠である。
無常という常住に生きるのか、常住という無常に生きるのか、自由である。
ただ、法は浄化であるために、常住という無常に帰するものである。
だから、生命もまた、浄化という常住の無常を本能とする。
そのために、生きるという。人生は、すべてが浄化の行為となっているのである。
ただ、汚いもので汚いを拭いても汚れが移っていくだけで、正しい浄化とはなっていない。
肉体という宿をいくつも借りながら、早くきれいに掃除しなければ、いつまでも汚く苦しいままである。
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不可思議

2013-03-26 | Weblog
思い論じることが出来ない。

不可解なことは無知に因る。
信じることは不思議になり、動じないものである。
念じることは不可思議になり、惑わされ迷い振り回される。
だから、
祈らず願わず行動あるのみ。信じて疑わず。して、
不可思議なことにならない。
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不思議

2013-03-25 | Weblog
思い論ずることの不。


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融通

2013-03-24 | Weblog
競争社会で育ち、
誰よりも偉くなることが、育てたものに報いる正しい事だと教育され、
二番より一番でなければと、他人を蹴落とし、無情にして勝ち得た地位は孤独そのものだった。
いや、人間、生まれる時も一人、死ぬ時も一人なのだから、
孤独にして理に適い、当たり前と気丈にして生きていた。
気丈に生きるとすることに、違和感を覚えたが、気にかけることなく
この人は生涯を閉じた。
物と金には不自由せず、それによって多勢に囲まれていても、
常に孤独であった。孤独は不安、恐怖を伴ってすべてが暗闇、何も見ることができなかった。
そのために、見えていたものは似非。信じることのできないものばかりであった。
諸行無常で、何事も幻として解釈していたために、これもまた、理に適っていたことと疑わず。
物と金に囲まれ勝ち組として人々は計ったが、自己顕示欲が強く迎合することが無かったために、
真剣に付き合う者はいなかった。
金に群がり、個々の利益のみに執着したものばかりが集い、損得勘定の付き合いであった。
それも、
死して、物も金も何一つ持って行けるものは無く、手ぶらで孤独に帰っていった。
墓石が立派でも何の意味もなかった。つまり、無意味な人生だった。
無意味な人生はあの世も無意味。成仏することが無い。
やがて風化して跡形も残らない。
やみくもに暮らしていたために、本物を見つけることができなかったのだ。
もしも、
違和感を覚えたことを気にかけていたなら、諸行無常も正しく知れたろう。
一人で生まれて一人で死んでいくとする事実を無根とすることができたろう。

個々はそれぞれ個性を持っている。比べられるものではない。
競うものでもない。長短持ち合わせて優劣あるものでもない。
融通無碍にしてある。
共存社会である。
融通きかずして生きた人生は、悲しい。
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魅力

2013-03-23 | Weblog
さよならとはじめましてが行き交う時の間、
よいことに出会うこと。

自分の心が穢い心であるなら、よいことに出会おうとしても、
よいことにはならない。
それは、穢いものには穢いものが集まるからである。
穢いところには穢いものがいる。道理である。

きれいになりたいとして努力しても、見かけだけでは
はなはだ化けの皮がはがれる。あちらこちらほころびが出るもので、
結局、化かしあい(愛)の挙句、恨み辛み悲しみにどっぷり浸され、
損得ばかりで損害をこうむるばかりとなる。

それは、自分の心が穢い心であるために、好い思いをしようとしても、穢い目にあってしまう。
好い思いをしようと穢さを企てるために起こる必然である。
穢い人は、自分の穢さを掃除する事がなく、ただ蓋を被せて見せかけの綺麗さを
ごてごてと塗りつけるだけであるために、実に不自然で、不自然なものは、
何をどうしても綺麗にはならない。
輪をかけて醜くなっていくのである。
綺麗に施されたものまで腐っていってしまう。
根本、心を磨かないで綺麗になりはしない。
見せ掛けの綺麗さは、見せ掛けなものしか集まらず、必ず醜さを露呈しあう。

よし、と声を出し、心に決める。
掃除しよう、心の掃除だ。穢い思いとの訣別だ。
心をこする(摩)、なでさすって、つまり、磨いて綺麗に近づくのである。
心の垢、曇りをなでさすって綺麗にして、天高く、摩天楼のように気高くするのである。
そのために説かれた方便ゆえに摩訶=みがくためのうた(詩)、として、般若=大衆の
波羅蜜多心=悩み多き心の
経=横文字の梵語を中国語である縦文字の漢文に訳したとして、
摩訶般若波羅蜜多心経としている。
この訶(詩、うた)をよく(知恵でもって)理解して、心経の文字の意味に礙げられることのないように、
と説かれている。
心を磨くための訓えの詩である。
大衆に説かれたものであり、難しくあってはならないものである。
観自在菩薩の導きに遇って、綺麗な心になれば、
不思議な事ばかりが起きてくるのである。
好ましい事ばかり。
愚か者が最も救い上げられる、最短最強の訓えである。
別れと出会いの季節、どうか、善い人に出会うことである。
そのためには、少なからず、綺麗な心になれ。
綺麗になるということは、きれいな者、物、事、本物に出会う。
心惹かれて
よいものに見初められる。
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中正不易

2013-03-22 | Weblog
幸せになりたくて生きているのに、幸せと思わないで生きている。
不幸せになりたくないと思っているのに、不幸せと思っている。
幸せも不幸せも、本当のところ分からないために、
自業自得、裏腹に合う。
幸不幸を思わない中庸にして徳となる。
偏るな。
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勉強

2013-03-21 | Weblog
人に嫌なことはするな。
嫌なことをすれば、そのまま自分に返ってくる。
いずれ自分が嫌な思いをしてしまう。
なぜなら、世の中は廻るのが道理であるから。
嫌味なことをする人は、
自分を愛しいと思いながら、自分を一番傷つけている。

なにもかも、自分のしたことは自分に返ってくることを覚ることである。
すれば、悪いことは恐ろしくてできないものだ。
知らないということは恐ろしいことである。
生涯、この簡単な道理を知らないで終える人のなんと多い事か。

一つ、自分の行動も、自分の体も、廻る動きでなりたっているではないか。
どれひとつとってもその様である。ありとあらゆるもの。

道の徳を学ぶことである。一番の勉強である。
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