つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

貧乏のお陰様

2013-05-28 | Weblog
愛情豊かな人を見つけるには、
貧乏になってみること。
人の心の‘実のところ’がよく見えてくる。
付き合える人と、付き合いたくない人。



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同化の支え

2013-05-26 | Weblog
一緒に動いている。
「一緒に」としてあるためにそのものになり、
有りのままでない有りのままを感じる。
止まっているものは何一つ無いものが止まってしまうと感じる。
自転車が自転車であるためには、乗って進むから倒れず、その道理を果たす。
飛行機は飛んでいて飛行機、止まってしまうと飛んでいられない。

そら(宇宙)に太陽が月が諸々星が浮いている。
太陽は、寸分違わず東から西にめぐり、月は月、星たちは星たちの動きでめぐり、いつもそこにある。
何の干渉も受けずにただ廻ってそこにある。
支えは動きである。
各各は違って廻っていても、全体としては同じ動きであるために
ゼロとなってしまう。
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一過程

2013-05-25 | Weblog
世の中は実に浅ましい人が多いように思われる。
不便として生活が自然的だったころ、つまり、発展途上にまだまだあるときは、
心が豊かであけっぴろげであった。隠す事がないものであった。
勝手知ったる他人の云々で、互いの事情はよく知られていて、また、それをどうのこうのと
論うわけでもなく、寧ろ案じたものだ。

便利は楽と知り、
物の欲が高まり、他人よりも抜き出て羨望にあやかりたく、所有欲が勝り、共存共栄をなくし、
人の心が荒んでいったような気がする。
隠し事が多くなり、本音と建前で世渡り上手に自分を卑下し、他を持ち上げて、
家の窓にも心の窓にもよくカーテンをかけて、本をカムフラージュしていった。
‘他人の不幸は蜜の味’とまで密かに思い、‘お気の毒ねぇ’と言えども、
ペロリと舌を出す始末。
さて、
高度成長期?を歩んで、心の堕落が進み、して、
どこかしこ歪が生まれていることを薄々本能で知る。
そうして、
天気は乱れる。
その気は怒り雷鳴となり、広くまた局地を轟かし、大地は揺れて
風は吹き荒れ、雨水は洪水となって流れ落ち、汚いも奇麗もなく一掃とする。
自然に立ち向かう力など一切ない。

あなたが私が思うも僅かで、無知の無数(汚い有り様)に及ばず仕方ないものである。
目障りになるもやもやしたものは、砕かれて潰されてまっさらになる。
目に見えるものの有り様である。
ただ‘是’であるゆえに。
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じたらく

2013-05-24 | Weblog
人が動いて働くと書き、傍が楽になるからと語路を合わせ、
自他楽として楽を供すれば、じだらくにもなる。
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裏腹

2013-05-22 | Weblog
貧乏だからこそ積める徳、施し。
金持ちには決して積めない徳である。

うらおもてと言うように、
表裏一体であるから、わかることである。
うらおもてと言うように、
裏は腹にある。

かなしみを知っている笑顔がある。
かなしみを知らない笑顔がある。
どちらに本当の笑顔があるのだろう?

うまくいっている時はみんな笑顔。
本当の笑顔って・・・

貧乏は何を教えてくれた?
裕福は何を教えてくれた?

妬み恨み羨むさもしさか?

慈しみ分かち助け合う、
我が身を抓って労わりか?

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積小為大

2013-05-21 | Weblog
事あるときに慌てて正そうとしても間に合わない。
日ごろの態度、行いが大事である。
小事の積み重ねは大事に対応しうる術を養う。
ささやかに何事もこなしていけば、慌てることも無くなる。
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智者によって

2013-05-20 | Weblog
地上に棲む生物を見る。
そして、よく観ていると人間にはとてもできないことがいとも容易くできている。
昆虫は縦横高さも関係なく自由自在に歩き回れる。飛ぶのもいる。
爬虫類にしても水陸両用自由自在に動き回れる。
ヤモリなどは、吸盤を持つわけでもないのに、つるつるの壁を自在に歩き回れる。
凝集力なる原子、分子間レベルでの働きを持っているためである。
クマ蜂なども、体の大きさに比べて羽が小さいにもかかわらず、難なく空中を舞う。
クマムシという微生物がいる。珍しくなくいるものであるが、
高温にも低温にも耐える。絶対零度にも数分間は耐え生きていられる。極度の乾燥にも耐え抜き、真空でも生きられる。
物理的量の自由度が優れているのであるが、同じ次元の中にあって無次元数が高い。

肉体は自由を持ってはいないが、精によって
肉体の自由度というものを
人間よりも自在に操れる能力が高いのである。

自然というありのままを眺めて、空を飛ぶものには翼があり、
無いものは飛ぶことができない。翼があっても飛ぶことができないものもあれば、
翼の有無に関わらず飛ぶことができるものもいる。
生きる、生きていく、生きていかなければという精の自由度が高ければ身に具わる術。
物理というのは法の自由であり、そのために存在の自由である。
法則を超えて物理は存在しない

人間には、‘病は気から’という言葉がある。
生きていくという自由度の操りが上手くできれば、一切自由を持たない肉体でも、
ある程度思いのままにできていくものである。

地上にある生物を見て、地球外の生物を思う。
無数にもある星たちは、地球に似た星もあるだろう。
灼熱に耐えて生きる生物がいるように、極寒で生きている生物がいるように、
嫌気性、好気性関係ない生物もいるように、人的尺度ばかりで考えては謎は解けてはいかない。
人智及びもつかないほど高度発達した能力を持つ生物、生命体もいるだろう。
発展途上にある者には気が付かないこと、秩序や、危機、その他もろもろな事柄が、
優れたものによって保たれていることを知らねばならない。

地上においても、
能力のあるものが能力の無いものを教え導くように、
有能者が無能者を諭すように、
優れた者は弱者をよく育んでいく。
それは、宇宙にもよくあてはまる。
エネルギーの法則は浄化であり、宇宙の法則だからである。
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精のせい

2013-05-18 | Weblog
鉱物、あるいは植物は、その場に応じた完成されたエネルギーであるために、
動く必要もなく考える必要もないものとなっている。
だから、脳を持たない。生きていくために、自らが緻密に計算、
何か考えがあっての仕組みではない。
あれこれ思い議論する必要などいらず、本能で生きている。
本能は法則の自由である。
だから、不思議な存在である。その場に応じて反応するのは精の所為、自由。

法則が浄化の法則であるために、生物の行為はすべて浄化の行為となっている。
廻る変化に反応し、場に応じた生命となっているために、
その場に対応し生きていけるものとなっている。
変化が繰り返されているものであるために、場の違ったところに置かれると死んでしまったりするが、
やがて順応していく。耐性が生じてくるのである。
何度も何度も繰り返されることによって、その場の対応となり生きていく術を具える。
法則という無くなることのない自由であるためである。
何も教わらなくとも自然に防御が身に付いて対応していくのである。それが法の自由であり精である。
刺激に合わせて進化していくのである。
本能というのは、自然に対応した動きである。
考える必要もなく、だから、迷うことのない決断となっているために、瞬時に物事に反応、それ相応に対応する。
それは、法則の自由であるために、誤りのない対応となっている。
人以外の生物は、ほとんど本能で生きているために、苦悩というものがない。つまり、地獄のような世界が無いものとなっている。
生きている場がすべてであり、それ以外は考えられないものとなっている。獣のように弱肉強食にあっても、
生きていくための行為であって、相手が憎いとかという感情で生きているものではないために、悪いことをしてしまったという
後悔の念などない。仕方のないことなのである。
だから、苦悩がなく地獄が作られない。脳はあっても感情が働かない。
人から見れば悲情な世界であるが、彼らはそうは思わない。
もし、感情が働けば進化となり、悲情な世界から抜け出していけるきっかけとなっていくのではあるが、
種は、ほとんどが種の保存に由来して輪廻する。

人は、人の歴史が始まって以来、性行為なくして生まれた事例はない。
今でこそ科学が発達して性交渉、試験管ベイビーなる授精を行うが、
男女の受精は性行為である。
キリストが、釈迦が性交なくして生まれたとされているが、
性というものが正しく認識されなかったために、性交が淫らなもの、邪な行為、悪なる行為として
判断され、それによって生まれてはならなかった。その誤った判断によって、荒唐無稽な誕生が作られたに過ぎない。
神仏が聖霊であり、聖霊であるとされるものが性行為から誕生するわけにはいかなかったためである。
それは、偏に性についての正しい認識がされていなかったために他ならない。まして、生命エネルギーというものについて
まったくの無知であったためである。
性交が悪の行為となれば、生まれてくる子供はすべて悪の行為から生まれたものであり、悪魔の子となってしまう。

性行為は人の愛の行為そのものであり、相手を悪としない浄化の行為である。
生命エネルギーの絶対善の行為であり、本能であり法則の行為である。

性についての誤りが、生命の誤りとなり、行為の誤りとなって、正しい浄化の行為とならず、
法則との摩擦となって、人類は滅びていくと釈迦もキリストも予言したのである。
その予言は、法則を見た人の予言であるために、絶対であり変えられないものである。
釈迦がキリストが言ったから正しいというのではなく、法則の予言だからである。
人類の終焉は、すでにカウントダウンに入っている。この世紀中と自然は示す。

地上の変化が歪になってくれば季節外れが多くなり、今までにはなかったとされる驚異が目につきはじめる。
正しく回っている独楽が歪に、つまり、ぶれてくればやがて止まってしまうように、
独楽が独楽としてのあり様が無くなる。

それと同じように地上に歪な変化が訪れ、地上の生物は運命共同体として滅していくが、
普通に変わらず地球に明日はやってくる。
どれだけの多くの時間が流れたろうか、再び生命は地上に宿る。進化した形、智者となって。
誤りを繰り返してはならない。
繰り返しが絶対となるために、そして、善となるためである。
誤ればまた、同じ滅亡の道をたどることになる。
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試練

2013-05-17 | Weblog
されて嬉しいことは、してあげるということを覚え、
されて嫌なことは、しないことを覚える。
ささやかなれど万事に通じる。

返礼は大事である。
得には徳をもって報いて試練はこなされ、
難無くを得るも、徳も積まれる。

「先ず自分が」と徳を積むことを覚えれば、
不平不満が思われない。

何かをしてあげるということは、してあげられることであり、
幸せという有利にある。
何かをしてもらうというのは便利にして不利を得る。
返報性の原理であるために、
不利を有利に変えるには、進んで報いることである。
謙虚にして!
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心尽し

2013-05-16 | Weblog
若い頃のこと、宅配の仕事をしていたときがあった。50件ほど荷を届けると、
そのうちの2.3件ほど労をねぎらって
何かしら差し入れをしてくれた。
缶コーヒーだったり、お茶だったり、ジュースだったりと、
とてもありがたく思ったものだ。
そういうことを学習して、心配りを覚えた。
何かをしていただく、心遣いをいただくということは、
ささやかでもとてもうれしいものだと知った。

労を犒える人は偉い。真に苦労をした人で優しい人である。
心配りができる人というのは頭の良い人である。
尊敬に値する。
年を取るほど、確かに心を宿したいものだとつくづく思う。
気高くというのはそういうことだろう。




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