つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

だから・・・

2005-07-31 | Weblog
何も知らない為に、迷い苦しみ、間違いをおこす。まちがってもまちがいがわからずそのまま生きている。そのために、さまざまなことと摩擦となり、悩み苦しんで暮らしている。直線的思考がくるくる回るこの円運動の仕組みの世界とかみ合わないからである。この世界は、始まりも終わりもない円の動きでできている為、毎日変わらず同じことを繰り返す仕組みとなっている。回る動きは浄化する動きである為、同じことを繰り返すことによって浄化されていくようになっている。人もこの世界の存在である為、生きていくことは、浄化の行為となっている。けっして間違った浄化とならないようにいきていかなければならない。回る動きは永遠に回る動きであるため、なくなることがない。なくなることがない動きである為、人が死んで肉体がなくなっても、生命であるエネルギーはなくならない。人が生きてきた経験のエネルギーが、死後の現象の世界となっていくのである。その世界こそ生命の絶対的世界である為、その世界の幸せを作る為、肉体を持って生まれてくる。人生の目的である。くるくる回る動きはエネルギーの性質である為性質が縁となり生命がつくられる。すべて回る動きの存在である。円が縁でなる動きの世界の存在である。
さて、良いことをする人は良い人である。悪いことをしないから、良い人である。
もし自分が良いことをして、良いことを語り、良いことを思って暮らしていくなら、自分は良い人であることがわかる。すると良い人がする行為を自分にしていることがわかる。だから、自分のためにとして、子供のために、家族のために、皆のために、社会のためにとなっている。すべて円の動きである。円の動きが絶対性質となっている為に、縁となり、作られていく。自分のためにとして、子供の為、家族の為に、命をかけて愛していけるのである。自分が愛する人であるから、成り立っていく行為である。すべて円のうごきであり、なくなることのない永遠の動きである為、縁によってなくなることのない極楽の世界で生きていくことができるのである。ゆえに、自らをよく調え、慎み生きていくことである。では、また。
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なにもしらないために・・・

2005-07-30 | Weblog
いつもながら ‘しんどい’毎日が続いている。夏は暑いのだとわかっていても、暑い、暑いといってしまう。いいじゃないか、人間だものとなぐさめる。あ~
さて、いつもながらの独り言を書く。
神罰が当たったと聞くことがある。神がいるとしたら、神は絶対善である。絶対善であるために、罰は与えたりはしない。神は、善である為に、悪はなさない。もし神様の罰が当たったとするなら、それは神ではなく、悪である。くるくる回る円の運動の仕組みを理解し、縁でなる世界を理解すれば、誰から教えられなくても、自然とそんなことが、わかってくる。神罰を与える神はいないのである。
善は絶対善であるため、悪はない。これが、天国となっている。悪は絶対悪であるため、善はない。これが地獄となっている。縁でなる世界である為に、悪いことをすれば、悪い縁となり、地獄となる。良いことをすれば良い縁となり、天国となる。天国は、絶対善の世界である為に、迷うことなく、考えることなくすべてが、即答えとなる。そのため苦となることがない。苦がないために、楽しい世界だけとなっている。地獄は、まったくその反対である。誰も皆、地獄へは行きたくないだろうに・・・。この世限りの命と考えているから、やりたいことをやり悪のかぎりをつくしてしまうのではないだろうか。性質が縁となり、生命は肉体を持って生まれてくる。肉体が大事なのではなく、生命が大事なために、肉体をいたわり生きていく。生命はエネルギーである為に、肉体が滅んでも生命エネルギーは滅しない為に、肉体を持って生きてきた経験のエネルギーが現象のエネルギーとなり、現象の世界となっていく、これが、死後の世界となっているために、死後の世界の現象の世界で行き続けていく。そのために、縁が縁となり、それぞれの現象の世界の縁となる。自分が生きていく生命の現象の世界を、極楽とするか、地獄とするかを肉体を持って生きている今が決めることができる、唯一の時間帯となっている。人生何十年かの経験の縁で決まっていく為に、経験を誤りのないようにして生きていくのがその方法となっている。死後の世界を極楽の現象の世界としていく目的の為に、肉体をもって生きているときに、なにも知らなくて、過ちをしてしまったことに、気がついて、過ちを正して、精進努力していくことが、方法となっている。その方法が、八正道として説かれている。唯一極楽へとつながっている道、方法なのである。、おっと、ちょっと長くなったので、本日はこのへんで、では、また。
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そのために・・・

2005-07-25 | Weblog
暑い毎日で中年の私には、なかなかきつい日がつづいています。ふと、この頃「あ~疲れた・・・人生に」とつぶやいてしまう自分にせつなさを、感じます。さて、いつもの日記の続きを書きます。この世もあの世も縁で成り立っていく世界である為に、悪行悪果、善行善果として、永遠に続いていく。円の運動はくるくると回る動きである為に、浄化の動きである。これがエネルギーの性質であるため、人の動きもまた、すべて浄化する動きである。人が生きていくことは、誤った生き方の浄化となっている。円運動の仕組みをよく理解して、誤った浄化の行為とならないように生きていかなければならない。円の運動を理解し、縁でなる世界を理解し、記憶の現象の世界となる死後の世界は、生命エネルギーの絶対な世界である為、その世界を極楽とするための生き方が、肉体を持って生まれてきている人の目的となっている。行為は浄化の行為である為に、目的を把握して、誤った浄化とならないようにしていかなければならない。死んでしまうとなにもかもなくなってしまうとする、縁の否定をただして、エネルギーである生命は、不滅であることを知り、浄化の動きである為に、そこに救いの道があることに希望を持って、心念として生きていくことである。
助けを求め、祈り念じていく行為は、自分の動きの止まる行為である。祈りは立ち止り、目をつむり ひたすら願うもので、動きの止まっている姿である。止まる姿は死の姿と同じで、かたときも止まることのないこの世の円の動きに反するものであるため、それが摩擦となり苦しみを生んでいくことになる。苦しみ悩むことに助けを求め、誰かに祈り願うのではなく、自ら動き、積極的にその悩み苦しみに立ち向かっていくことである。祈り、願い、自らの動きを止めるのではなく、自らが願いをかなえる為に動き、行為としていくことである。人の動きは、浄化の動きとなっている為、行動していくことによって、円運動との摩擦とならず、問題は解決されていく。では、このつづきは、また、
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縁でなる

2005-07-22 | Weblog
今日もまた、いたずらに独り言を書く。
人の為と書いて偽りと言う。それは皆、自分の為として、家族の為、人の為、社会の為となっているからである。誰でも自分が一番かわいいために、他を愛し、いつくしみ、いたわりをもつのである。
{ここを間違えないで、もらいたい。}この世もあの世もめぐりめぐって自分にかえってくる縁で成り立っているためである。くるくるとまわっている円の運動で作られている世界だあるために、必ずもとにもどってくるようになっている。時計の針は24時を回って25時とはなっていかない。23時が回って24時、または0時、1時と繰り返す仕組みとなっている。日がのぼり、日が沈み、変わることなく繰り返す円の運動で作られている。これがエネルギーの運動であり絶対性質であるために、この回転する変化が縁となり生命が生じている。かたときもとまることのない円の運動の世界であるために、人もまたじっとしていられない仕組みになっている。意識することなく、心臓は動き内臓は動き、とまることのない円の運動となっている。すべてがとまることのない変化の動きとなっている。エネルギーの絶対性質となっている為で、円の運動は始まりから始まりに戻る為に、根本的に変化することのない仕組みとなっている。これがエネルギーの性質であるために、生命は不滅ということになる。生命はエネルギーである為に、これが人の生死となっている。肉体を持って生まれてきて、その目的が死である為に、死後の世界のためにとして、ただしい行いをして生きていかなければならないことがわかる。肉体はなくなっても、生命は不滅である為に、生命世界のためにとして肉体を持って生まれてくる。・・・このつづきは、また
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そして・・・。

2005-07-17 | Weblog
私は私自身によって汚れていき、そして悩み苦しむ。だから、この反対もあると考えて自分自身によって浄らかになり、自分を責めることなく、楽しく暮らしていけることを知るために、精進の道を歩き始めた。するといろいろ教えられることにであった。先ず自分は何も知らない。根本は何も知らないのだということに気がついた。
目的がわからなければ、たどりつく方法がさがせない。そこで、根本となるところに目を向けて、何を目的にこの世界に生まれてきたのだろうと考えたら、ひとつどこを通ってもいきつく答えが出てきた。個人に万人に共通する答えである。それは、死という目的である。生というものにある絶対的条件である。生にある絶対的条件を目的と捉えたのである。生は死を条件として生まれてくる。生は死を目的として生まれてくる。はじめから死ぬとわかっているなら、生まれてくる意味がないではないかと思ったが、死ぬとわかっていて生まれてくるところに、目的がかくれているのではないかと?
そして、勉強してみてこんなことがわかってきた。生命というのは、エネルギー体で滅することがなく肉体がなくなっても現象として存在しているということである。そのために人が死んで肉体がなくなっても、現象としての世界の中で、変わらずに生きているということである。その世界が死後の世界であり、その世界を幸せな世界とするか、不幸せな世界とするかがエネルギー体である生命が、肉体をもってきめることのできる目的である。肉体を持って生まれてくるエネルギー体である生命は、
死後の現象の世界を極楽とするか、地獄とするかを決めることが目的である。このつづきは、また。
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偽りのわけ・・・。

2005-07-14 | Weblog
他人の為、皆のため、あるいは社会の為として生きていこうとすれば、自分のことはさておいてしまうこととなる。そうすれば、自分は生きていけなくなってしまう。
自分の為として生きていくことで、自分は生かされていく。人の為として生きていくことは、自分が死となってしまうこととなる。だから人の為として生きていくのは、偽りになってしまう。 人は自分の為として生きていくことで、他人の為、皆のため、社会の為となっている。
くれぐれも誤解のないように、自分の為というのは、他人をけおとして、先ず自分が自分が・・・ということではない。自分が愛する人でなければならないということである。
人にやさしくするということは、良い人のすることである。良い人のする行いというのは、良い行いである。愛のある行いである。自分が人に優しくする、慈しみを持つということは、自分は良い人である。ということは、良い人が良い人にすることを自分にしていることになる。だから 自分の為ということになる。だから 人の為と書いて偽りと読む。
情けは人の為ならず、めぐりめぐって自分の為。これは本当のことである。このつづきは、また。
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自分のために!

2005-07-13 | Weblog
愛し合っている男と女がいました。
いつの日か、女が男にこう言いました。「私は私が一番大事で、自分が一番愛おしく思います。」と、すると男は女が自分を一番大事だと言ってくれるのではと思っていたらしく、少しガッカリとした表情を見せたのですが、すぐに自分に気がついて、私も私が一番愛おしいと言い、彼女をいたわりました。これが本当の愛で彼の行為は正しく、彼女もまた彼をいたわりました。これは矛盾のない愛の姿です。 このことは、以前に書いた話の中の かたち です。
人を愛することは、自分を愛することになります。それでは、人の為と書いて、偽りと読みますが、なぜなのでしょう?
このつづきは、また・・・。
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諸行無常のつづき

2005-07-10 | Weblog
人は、どんなに教えても、なかなかすなをになれないもので、疑うことを覚えて足踏みをする。しばし時が過ぎてたどり着いたりする。疑うことで回り道をしてしまうのです。この疑う行為がなければどんなに素敵なことかと思うのだが、それができない。今の社会では、それも仕方のないことと思う。が、それでは物事がまえには進まない。先人は言う。心の中で、良いことを思い、言葉の中で、良いことを言い、動きの中で、良い行いができれば、例えあなたが、私は自分が一番嫌いなの。と言っても、あなたはあなたを一番いたわっている人、だいじにしている人であるのです。その反対に、いけないことを思い、いけないことを言い、いけないことをすれば、例えあなたが、私は自分が一番好きで、大切です。と言っても、あなたはあなたを一番嫌いで、あなた自身を傷つけている人です。と言えます。と。わかりますか?これは簡単なことなのでわかると思いますが、あえて、今述べた3つの事柄で、良いことを思い、良いことを話、良い行いをする人は、良い人であるから、良い人が良い人にする事柄を自分に対してしていることになるので、例えあなたが、自分は自分を嫌いだ、といったとしても、あなたはあなたを一番大切にしている人、愛している人と言えるのです。そして、その反対の人はその反対のことが言えるのです。
 これはとても簡単で、とても難しいです。でも簡単で、難しくて、簡単なのです。この続きは、また近じか・・・
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