つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

広大智慧観

2011-11-30 | Weblog
来年は新しい電波塔が稼動する。
誰もが
去年の年末には、この日本で、歴史に残る悲劇が起ころうなんて、ゆめゆめ思わなかったろう。
恐怖が自分の前に突然に現れて、それこそ、この世の終わりが来たと思いながら、
命を奪われていったに違いない。選択肢も無く連れ去られていった人達は、まぎれもなく
この世の終わりだった。

この世の終わりは人それぞれに、人それぞれにある。

それでも明日はやってくる。ごく普通に。

誰もが、
この世の終わりは夢物語で、あろうはずもないと思っている。
それは、日常に同化している為に、
人知およばないものとしているからである。

この世の終わりは、人それぞれにあり、
明日は絶対やってくる。
新しく稼動した電波塔は、その様をまざまざと映し出しながら、無残にも朽ちていく。
その時、刻まれた時は12/22で止まった。
未来は不定である。ある一つの線上には、確かにある現像として、人の智慧は見た。
このままという線上である。
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・・・知らないからである・・・

2011-11-29 | Weblog
みんな自分が大切である。
誰もが
一番自分を愛しい。
だから、損得を考えて得を得をと求める。
心の歪な奴ほどはなはだはげしく、
他人を蹴落としてまで自分を愛しいとする。

過去に、心をいびつにして、そのような生き方をした人達が、
ことごとく自分を害い、地獄に落ちたのを見て知った人達は、
ゆえに、自分が愛しければ愛しいほど、他人も同じであることを知り、
他人をまず尊重した。そして、先ず他を愛した。自分をさておいて。

愛するものとして接っしていくことによって、
愛されるものとなることを知った。
それは、
愛するものが愛するものに為す行為を
自らに為しているとなるからで、それこそ
すべからず得となった。

心の歪な人ほど正反対のことをする。我先にとして、
最も自分を害ってしまう。

彼らが真実を知るなら、自分だけ得をしようとは思わないであろうに。
「神よ許したまえ、彼らは知らないからである」キリストが人の無知を嘆いた悲痛な叫びである。
あまりにも憐れな身の上である彼らへ、真実をただしく訓えることのできなかった自分の至らなさを悔やみながら。

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無明を破る

2011-11-27 | Weblog
年収100万200万、何とか300万という人達が大衆である。
収入が低くても仕事はきつい。どうでもよいということはないから仕事としてあるのだが、実際どうでもよい仕事?が多いものだ。
働いても生活水準に満たなければ、働いている意味がない。
金が命となってしまっている時代である。金があれば信用されて、なければゴミ、ゴミはいらないものであるために、
早くなくなってしまえば喜ばれる。金があれば、悪者でも変に崇められて、変に力を持つ。変な力であるためにろくな事にならない。
変にねじれた力は、歪みを極めてぶち切れる。それが今の世界である。チャラになるまで行きつく。

金が幅を利かせる時代、金がものを動かす社会である為に、金がなければなにもできず、
命さえゴミ扱い、生きているということは金がかかるもの?であるために、金がなければ苦しみとなっていく。そのために、
金を稼ぐことに知恵を使うが、その知恵は悪知恵である。
財力のあるものが、悪知恵が働いて、更に私腹を肥やそうとする為に、道具として者を物のように扱う。
そのために、不当な対価のやりとりとなる。
人を道具として扱ってしまうのが金である。金というのは斯も人の心を悪にする。
知恵まで悪にする。かくして、使われた道具は捨てられる。
「人は道具に非ず」であるにもかかわらず、道具としている金の社会は、先を見通せずとも崩壊の中にある。

人は、誰でも幸せになりたいと思い生きている。
格にかかわらず同じである。
自分が嫌なことは他も嫌なんだと知れるものである。
知れることである為に、知れているなら、嫌なことはしないことである。それが、
正しい智慧の持ち主である。これを賢者といい、賢者は共存共栄を望むものであるために、
末永く共に生きていけるものとなっていく。
共にであるために、互いに身を挺して信頼となっていく。人という字の如くである。
賢者である為に身分が高くなる、高くなればなるほど下の者を思い保護していく。これが、
道理というものの中に正しく当てはまる。
当てはまる為に問題などは起こらなくなる。当ては円なのである。
これは道理の形、円であるためである。

知らずしてことをなすのは最悪である。
沸騰したお湯と知らずに飲むのと、知って飲むのとでは
どちらが大事に至るかであるから。


本来、年寄りは早く死んでもらいたいと、金の社会では思っている。
働かずして口は達者となり、金はかかるからで、また、金と健康がなければ長生きもまた辛いものである。
それだけ多くの死を見取り、悲しみを知るだけであるから。年老いれば、その肝心な金と健康がよく害われる。
金があればチヤホヤ、無くなれば厄介者扱いである。人の心というのは、俗世そんなものである。
憎まれっ子世にはばかるであり、そこのところよく心得て、口は慎み謹み、人生引き際早くで、良しとなっていくものである。
善人早死にとよく言われるように・・・。
かくは言っても、悪たれ三昧、あるいは、そうでなくとも、わけもわからず生きてきた人生では、
死にたくても死ねず、死にたくなくとも死んでしまうものである。
それは、すべて「無知」から起こっている。
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人のこころ

2011-11-24 | Weblog
誰もが皆幸せになりたいと思うものだから、
傷つけたり、悲しませたりしてはいけない。
そう思いながら生きている。

私のおかげで喜んでくれる人がいると嬉しい。
私のせいで苦しむ人がいたら悲しい。
そう思いながら生きている。

誰かの為になるように生きていられたら、
それが私の為となり、幸せな人生。
そう思いながら生きている。

役に立てて嬉しいと
人は誰でもそう思う。


幸せとはそういうことだ。

役に立てなくて悲しく思う。
不幸せとはそういうことだ。

私の為に
喜ぶ人がいるなら、
生きた甲斐があるというものだ。
・・・と決めつけて。

悪い人にはなりたくないと、
誰でもそう思って生きている。
と思う。

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2011-11-23 | Weblog
臨終に苦しんで死んでいく人の死後の世界は、極楽
往生とはなりません。
好き勝手、わがまま気ままに生きて、多かれ少なかれ他を害しながら生きた人も同じです。

喜びは苦しみの箱の中にあり、その蓋を開けるのも容易ではなく、取り出すのもさらに容易ではありません。
悲しくて、辛くて、汗と涙で
どこに入っているのか見失ってしまいがちですが、入れ子のようになっていて、
探し続けていれば必ず見つけられるのです。明らめられるのです。

「あきらめる」というのは明らめること。明らかに見ることということなのです。
そのために、言葉という文字に最高の位を意味する帝の字をつけ「諦」として、諦める(明らめる)というのです。
言葉の最高という文字なのです。明らかに見ることによって、是非がわかってくるために使う言葉なのです。
本来、物事を途中で投げ出してしまうことではない言葉なのです。

喜びを難なくして得られるということはありません。喜びと悲しみは一対のものだからです。
他方ばかりということは道理には無いのです。その強弱はありますが。難なくして得られた喜び?は、どこかで相応に償われます。
日頃、努力ということをして、事なき(難ともない)苦しみに対処していれば、喜びは一入となっていきます。
大苦となることは無く、悲喜の釣り合いが取られていくのです。そこに幸不幸の度合い、強弱の違いが感じとなるのです。

苦しませた人は、後に苦しまされ、苦しんだまま死んで行くことによって、地獄となっていく。
喜ばせた人は、後に喜ばされ、喜んだまま死んでいくことによって、天国となっていくのです。

苦をなぜと考えて、諦めていけば喜びが見えてきます。

苦しみ努力することによって、諦められて喜びとなってきます。
人生はすべて浄化の行為となっているのです。

諦=真実を曇りのない眼で見る。
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正しく浄化

2011-11-22 | Weblog
死んだ人の供養として、
立派な墓を立てたとしても、何の価値、意味もありません。
戒名なんて必要ではありません。死んでから戒めても手遅れなのです。

生命はエネルギーです。固形物のような感触はありません。
水のようにかたちあるものではなく、かといって、
かたちがないものでもありません。水が宙に浮いたとき、そのかたちが円い容になるように、
生命もまた同じです。高貴であればあるほど円く大きく眩いのです。強大な力の塊となっています。
高貴というのは、喜怒哀楽を知り尽くし、よく分別ができていて、善悪が無くなって、
そのために、まったくの善となっているエネルギー体なのです。法則そのものの姿形となっているのです。
エネルギー体であるために、じっとしていることが無く、たえず反応していて、その質、回転となっているのです。
回転である為に、常に元に戻りゼロとなり、ゼロが終わりであり、始まりでもあるために、無くなることのない存在となっているのです。
ゼロになることが浄化であるために、善となっているのです。それが是であり、法則というのです。
諸々の法則となっているのです。だから、「是諸法」と説かれているのです。

生命エネルギーは、法則の回転変化に対応して生まれていったものである為に、変化が進化となって、
変化に対応した姿形となっているのです。その変化は浄化であるために、正しい対応となっていけば、
端正なものとなっていくのです。是(自然)は、常に浄化された姿となっていくために、
美しいものとなっています。だから、
人の行為もすべて浄化の行為となっているのです。それが本能、道理となっているのです。それが正しい進化なのですが、
もし、誤った浄化の行為となっていけば、それは、退化であり、淘汰となるのです。法則との摩擦となっていくためです。
人の行為はすべて浄化の行為となっているのです。だから、
人生は浄化なのです。そのために、無知であるための過ちを正していくことが、自然の行為であり、道理であり、法の行為となるために、
幸せへと繋がるのです。正しい進化であり、端整な世界となるのです。それが永遠となるのです。


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知れば知るほど・・・

2011-11-21 | Weblog
生命というのはエネルギーなのです。
そのために、死も無く老化もありません。だから、
生命の世界は、一様に若い世界となっていきます。
年老いて死んでも、若くして死んでも、皆二十歳くらいの若さとなる。エネルギーだからです。

生命の質によって、
生命世界の赴く先がきまる。
質の向上は天国であり、低下は地獄。
生前の肉体経験が質の善し悪しとなっていくために、
努力というものがけっして無駄とはなりません。また、
地獄も天国も、もともとあるところというのではなく、
心がつくっていくところなのです。

誰もが天国に行きたいとは思っていますが、
容易いようで容易くはありません。それは、自分の心が邪魔をするからです。
悪しき思いが邪魔をしてしまうためなのです。
だから、自分の心さえ制御できたなら、思い通りにいくのですが、
それがなかなか難しい。だから、容易いようで容易くないと言うのです。
常に、怠ることなく精進努力しなさいといわれるのはそのためなのです。

肉体が幼児の頃に亡くなってしまった場合は、四季が一巡する頃には、
再び母胎に宿るのです。それは、生命が人生経験を持たない為なのです。
いかに人生経験が死後の世界、生命世界に影響を与えているかということです。
人が生きるということは、とても大事なことなのです。
生命の幸せそのものを創る為の役割を担っているのですから。だから、
一時の迷いから、むやみに自ら死を選んではいけないのです。
地獄というのは、地獄の苦しみというように、この世の苦しみの比ではないのです。
自分を悲観して、死に追い込んでしまったものが、どんなに哀れまれても救われないのです。
感情で動かされる世界ではない為に非情となっているからです。「不垢不浄」と説かれる世界なのです。

この世で、悪いことをして、人を欺いても、
生命世界、死後の世界には通用しません。肉体行為は、エネルギーとして刻まれていくからです。
100%その行為は償われていきます。悪しき行為は悪しき行為によってです。

無知であるために、怖いもの知らずとして若さを生きるとき、無謀にも悪に染まり、
他を害して生きたなら、その償いは人知では計り知れないほど恐ろしいものとなるのです。

どうぞ生きている間に、生きている間に改める心さえ抱いてくだされば、
誰もが幸せになりたいという
生命の目的の糸端をつかむことはできるのですが。

知れば知るほど、あれこれと、行い改め改め生きる人。
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死ぬときは・・・

2011-11-20 | Weblog
苦しくても自殺してはならないわけがある。
懸命に生きたけれども、
なぜ生きる?ということの問に答えられず、
あるいは、正しい答えとなっていなければ、
これといって罪を犯さず生きてきても、死後の世界は亦苦しい世界である。地獄のあの世となっていく。
よい人だったけれども、絶望して苦しさのあまりに死を選んでも、死は非情である。苦しく死んでいくものは、
死後もまたそのまま苦しみが続いていくのである。救われたりはしないために、
無知のまま自ら命を絶ってはいけないのである。生きている間が意味ありなのですから。

生命というものに無知であるなら、
その生き様は、少なからず間違ってしまい、どうして?なぜ私だけがと
ありもしないものに訴えかけて生きること多く、刹那的喜怒哀楽に親しんでは、空しく苦しい人生である。
人生は空しいものとして感じてしまう。

地位や名誉や財産やらと、人生を豊かにするものとしても、得てしてもその人生は裏腹である。ましてや、
死後には負の財産として報う。金の扱い方は実に難しい。修行僧とて、その方法が誤れば地獄に落ちるのと同じである。
金儲けは生命の目的とはなんら関係ないものである。むしろ執着として欲に苦しみ、弊害となる。
献身であることが自然なのである。自然はみな献身で保たれているのであるから。
財あるものは、散財して難無きを得ていくもので、囲っていては腐り毒が回っていくのである。
財あるものにもめごとが絶えないように。

金の切れ目は縁の切れ目といわれるのは、欲に執着したものである為に、金がなくなってくれば、
互いにいがみ合い、揉めていく。そんな人に愛など微塵も無く、金に愛しているものである。
人の心根を知りたければ、貧乏をしてみればよい。よく知れる。
裕福なときの優しさは、錯覚であることが多い。

苦しんで死んでいくものは、あの世もまた、そのまま苦しみである。縁であるから。その上で自殺してはならない。
死にたくなくとも死ぬときはくる。寿命尽きるまで生きて、苦の義を覚れ。
そして、
死ぬときは、安らかな顔で・・・。
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豚に真珠

2011-11-18 | Weblog
般若の心とは、凡人の心、大衆の心のこと。
その心を磨くのが智慧である。
智慧は自分の経験の識である。
道理に学んだ識であるために、誤りの無い識である。
知識は他人の行為を正しいとして学んでいくものだから、たとえて、一輪車の乗り方を知識で学んでも、
一輪車に乗れることは無い。身をもって体験、練習し、そのこつを覚えなければ乗りこなせないのである。
自分の経験がこつをつかみ智慧を得るのである。その智慧は、知識ではない為に忘れることが無い。
智慧を得てしまえば、意図も容易く乗りこなせるのである。

そのように、道理に学び智慧を持って見ることで、未知のものも見えてくる。
その善悪である。
してはいけないこと、触れてはならないこと、
障ってしまったことの是非の対処は、
自然と感じられてくるものとなる。
その感力は「真観清浄観、広大智慧観」となるためである。
偉大な智慧の力である。そのために、善悪を正しく判断でき、誤った行為の浄化としていく。
誤った行為で創られている人生が正されていくために、地獄も天国となって、
常に正しく判断されていくようになる。
「悲観及慈観、常願常瞻仰」となるのである。それが、心念の力となるためである。
「悲観」とは誤った心の念い、「慈観」とは正しい心の念いのことである。
誤った心の念いの行為が、正しい心の念いの行為となっていき、日常の願いとなり、日常の判断となって、日常の行為となっていくために、
心念の力となっていくのである。

智慧を身につけて、心経にある「無」の文字を観る。
「無」を否定として観るか、肯定としての「無」と観るか、
知識と智慧の判断の違いである。「無」の解釈が要である。
知識で観てしまえば、わかったようでわからない訓えとなってしまい、
悟りの開かれない、ただの読経のための経となってしまう。

死が人の経験とならず知識とならないための、判断の誤りによるものである。
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過ぎたるは・・・

2011-11-17 | Weblog
11月も中頃というのに
日差しが暑い。
その季節らしからずで、心なし気がかりと、
そんな人も多いはずである。
なにやら不穏を感じずにはいられない。
国内外に於いて、経済は貧窮を来たし、頭を抱えながら
目は天を仰ぐ。その瞳に何が映って見えるのだろうか。
太陽はいつになくまぶしすぎて見られない。

後手後手になって、もうごたごた。それは、何もかもが誤多誤多だったから。
争うという誤りから生じている。
競い争う。
紛争である。人の歴史である。
悲しみを知って愚かであると気づくも、
すでに機は熟している。
不穏は六感である。
太陽が眩し過ぎる。
過ぎたるは及ばざるが如しと言う。
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