つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

涙の中

2015-10-31 | Weblog
人は
涙する
ただ
涙する
その
涙ことごとく
うちのめすものなり
かくも、
はいあがりしものなり
人、
ただ涙の中から
生き活きと
生かすものなり。
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祈るという事

2015-10-30 | Weblog
祈るという行為は
出来ればしてはいけない行為である。

日々は回っているもので、動的なものである。
けっして静止しているものではない。
これが自然であり法則である。
エネルギーの自由な法則である。
片時も止まることのない動きであるのは、
円を描く動きとなっているために、
始まりが終わりに繋がっていて、終わりが始まりに繋がっているものであるためである。
つまり、始終が無いものとなって動いているために、永遠な動きとなっている。
常住というものである。そのために、無くなることのない動きとなっている。
この動きが自由というエネルギーの性質である為に、
諸々が片時も止まることのない動きとなって存在となっている。
静止状態に感じられるのは、同化して動いているための感覚であり、
高速で走る車の中の状態と同じとなっている。

祈る行為は、動的な行為ではなく静止している様である。
法則の道理に合わない行為となるために、摩擦となって
苦となって感受する。これを解消するには、
祈らずに積極的に行動としていくことで解決していく。
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受想行識

2015-10-29 | Weblog
至極進化した生命体がいる。
頭脳明晰というのに程遠くある生命体に於いては、
その様な生命体との出会いは、神秘と共に恐怖を覚え、故に
絶対者として崇め奉る。
恭順な態度で接するもので、
それは、無謀かつ無責任なものであるが、
人知で計り知れないために、仕方のないことではある。

相対的な世界であるために、善と悪を分けるも、
何が善で、何が悪かは自由にしてある。
これは、法則に善悪が無く、ただ自由にしてある存在なために、
各々の自由に委ねられている。
悪魔は、苦しむことを善としての神である。
天は、苦しみを悪としての神である。
悪は悲しみを、天は喜びを善としている。
そして、悲喜こもごも同等にあり、自由にして相対である。
顚倒しての浄化とならないよう、気を付けることが肝要である。

示し申されること、ただ自由にしてあり、それを受けて、
受の世界である。

極めて進化した生命体が天に成し、今もってはからいの糧にあるのは、
人の自由を正しく導くための見守りである。
今までが
悪として、この世は一切皆苦、その
苦しみの束縛より解き放つために。
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無知にあるもの、ただ、なぜ生きると問うが・

2015-10-24 | Weblog
死ぬために生まれてくることを覚ることができなければ、
人生何もかも間違った生き方となってしまう。
まぁ、死ぬために生まれてくるという意味を分からなくても、
善いこと、善行に生きて一つの人生を終われば、
それなりに気づきの魂となり、なぜ生きる?という疑問に答えを見出せてくる。
魂とは何なのか?心とは何なのか?生命とは何なのか?精神とは何なのか?
神?仏?何者なのかという意味合いがそれとなく気づき始められるものとなる。

人に、九つの品があり、その品の中にも上下の優劣なる質があるのは、
エネルギーの充実にある反応、たとえば、鋭く輝くエネルギー、あるいは、鈍く光るエネルギー、
そのより多く束なったエネルギー、極薄いエネルギーなどの力加減に由る。
それは、
エネルギーの経験とでも言える刺激への反応である。
黒く濁った漂いに吸い付けられた反応、白く、或は、黄金色の漂いに吸い寄せられた反応の違いである。
それは、雨水が地面に滲みていき、浄化され清水となって現れてくるようなものである。
長い長い年月を要するが、無くなることのないという性を持つエネルギーには、悠久も瞬間も無いもので、
必ず経験するものである。
生命エネルギーは、各肉体という媒体によって浄化活動をするもので、肉体経験が生命エネルギーの進化向上の手段である。
人の生命の媒質となるものが肉体となっている。その肉体の経験が、生命への波動となって伝わっていく。
良い経験となって伝えることが善い生命の性格となって行くのである。
その肉体も、生命エネルギーの外部から受ける刺激により反応して作られていく。凡そ縁という刺激に由るものである。
‘生まれながらにして’という姿形も、生命エネルギーの知るべきところにある縁による反応である。
生まれながらの姿形、環境も生命エネルギーの進化向上の故の縁に由る気づきのための享受である。
さながら、それについて恨みつらむことは、偏に情けないことであるが、人、ただ無知にして情けないものである。
生きていく中で、
人生とは辛いものであると気づくが、気づくころにはほぼ肉体は衰えていて、
後の祭りという事が多分である。それでも、気づいたという事に一抹の希望を見出せるものである。
人は、年老いるごと角が取れて円くなっていく。それが自然と浄化されていった精神の表れであるが、
年老いても尚気が荒く、憎々しく思われて生きている人がいるが、
正しく浄化されてこなかった人生であり、長く久しく苦しみの世を何度も繰り返す羽目を背負うものである。
それこそ人生、自業自得であり、それは偏に、生命エネルギーいうものへの無知に由るものである。
たとえば、浅ましく吝嗇に生きたものは、餓鬼の世界に、残虐性に生き、行為に及んだものは喰い喰われる世界に、
暴力に生き、他を困らせたものは修羅の世界に・・・、など縁によって生命世界が創られる。
そんなところに生まれたくないといっても、自分が作っている世界であるために、当然の如く赴くこととなっている。
また、この人生がつらい苦しいからと言って自殺行為に及んで逝ったとしても、苦しいと死んでいったものは、苦しいままのあの世となっている。
それは、法が縁の法則でもあるためである。
エネルギーの法則は絶対世界である。慈悲で動く世界ではない。

生命エネルギーは、是によって作られているエネルギーの法則と同じである。
そのために無くなることが無く、生命には死というものは無い。
肉体の滅びた後の世界が、生命そのものの住む世界である。
その世界が幸せな世界とするために、肉体をもって生命は活動し、生命の浄化、叡智を得るために生まれてくるものである。
正しい浄化となった人生に於いては、来世というのは無く、輪廻より離れ、
永遠なる幸せな生命世界で暮らすこととなるものである。
それを得るまで、
人はなんどもなんども苦しみの世を行き来する。この世は一切皆苦である。
そこから何を悟るのか?どんな生き方をするのか?自分自身の気づきにかかっている。
だから、無知をなくせ、是を知り、生命エネルギーを知ることである。
そうすれば、方法が分かり、誰に頼ることもなく、
どういう生き方をすればよいのかが知れてくるものとなる。智恵であり、自然と知れてくるのである。
それが法の功徳である。
エネルギーの法則は、「自由」から成り立っているものである。
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何でもあるという事由の自由

2015-10-22 | Weblog
宇宙創造より138億光年という遙かな時の流れにあるという。
もう4~5百憶光年はすでに進んでいるのだろう。
「今」というこの瞬間は、宇宙の隅々まで同等ではない。
「今」この瞬間は、普遍なようで一様に今ではない。
今というこの時の間は、
ある範囲までは一様にあると思われるだけで、どこにも
今という一様さは無いものである。
それは、まるで陽炎のように、あって無い、無くてあるような在り方である。
それを幻の様というが、
実体としてある現象のあり方である。
一様に、ただエネルギーの性質として、自由というものである。
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よのなかは・・・

2015-10-20 | Weblog
荒唐無稽?、

事実は小説より奇なり。

自由は、

法則の道理である。
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生の絶対条件、死

2015-10-19 | Weblog
生きることが死に繋がっている。なぜなのか?

人の一生は、死後の世界の為にある。
つまり、人は死ぬために生まれるものである。
死後の世界が、生命の真実の世界であるために、
生命は、肉体経験によって死後の世界を創造するものである。
死後の世界は、肉体経験の記憶の現象の世界である。幾多の記憶の統一された現象の世界ということが言える。
今生はどのように生きたか、
それが死後の世界の幸不幸を分けるということを覚ることである。
いわゆる、生命の性質の格の上下に関わる。
悪事を働き、他人を困らせて生きた人生は、
当然の如く死後は地獄となっている。
それは、生命の質の悪さである。
法は縁起の法でもある。
よくよく心得ること。人生の要点でもある。
法は浄化の法である。
法は自由である。
その自由によって浄化ということを覚ることである。
どんな意味を持っての浄化なのか、
自由はよく訓えている。
自由という文字をよく観ることである。

自由の意味は単純である。
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優先

2015-10-18 | Weblog
この国は優しい国だとは思うのだが、
なんとなく殺伐感を覚える機会が増えている。
‘おもてなし’ということを強調して、他との調和をとろうとするが
持って成すという事が今一つ上手くされなくなっているように思われる。
浅ましいというのは吝嗇にあり、損得を下心に持つために、
利他を望まず自利に徹する。
先ず自分という優先順位は、最も最悪な果をもたらすもので、
多くが貶められる罠の様なものである。
人が、先ず
世の為他人の為として生きていけば、自分が生きていけなくなる。

人はみな自分を一番愛しいものであるとして生きる。

これを正しく理解しての、
そのための、
先ず、世のため他人の為としていくことで自分は生かされていく。
自分の為となるのである、を覚ることである。
思うか思はないかという心の順番は大きく優劣左右する。
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摩訶不思議な経典、心経

2015-10-18 | Weblog
不思議なもので、
般若心経や妙法蓮華経の中の観音品に説かれている法を身に付けた人の行為は、
まことに功徳千万で、諸々の処に於いて善の行為となっていく。
知識を一切必要とせず、考える行為が要らないために即断となって行く。
そのために、瞬時に禍から避けることができていく。

不思議というのは、不可解なことをいうのではなく、
あれこれと思い、議論する必要のないことをいうのであって、
迷う時間のいらない心ということである。

心経の功徳は不思議なものである。
智恵の身に付いた行為は、
一を知ることにより十を知れるのである。
何一つ知識など必要としないものである。

迷うことのいらない心をみがく詩の経である。
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刹、観音経

2015-10-17 | Weblog
刹(せつ)=悪を刈り取ること。
いわゆる、悪の浄化する行為である。
羅刹というのは、この行為を覆い隠してしまうこと。
そのために、刹に羅の字をあてているもので、
悪鬼を指している。
生命(魂)の浄化のされないところ、つまり、刹のないところには、
清浄なる者(菩薩)の現れることはないとして、「無刹不現身」と説かれる。

法が浄化の法であるから、生命の浄化の行為は「刹」である。
この行為のされないところには、
縁となって、
仏(菩薩)が現身し啓示することはない。

刹とは、悪を刈り取る行為であるから、
正しいことに専念し、善いことをして生きていくことが「刹」であるとなり、
生命の浄化の行為となるために、善の修行となっている。
この生き方が法の身に付いた行為であり、智恵の行為である。
人の行為は、すべて「刹」をする為が目的達成の修業行為となっているものである。
くれぐれも間違った浄化の行為(羅刹)とならないよう、生きていかなければならない。
法を身に付けることによって、諸々が正しく浄化され、四苦八苦滅せられて、
苦しみから離れられていく人生となって行く。それが、
「生老病死苦 以漸悉令滅」である。
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