つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

謙虚

2011-06-30 | Weblog
包丁も危険なものである。でも、
安全の保障は誰も求めない。
包丁を知り尽くして見切っているために、
扱うものに責があり、左右されるものであるから。
安全の保証を求めなければならないというのは、
危険なものを扱いきれていないためにあり、未知数であるからで、
そのようなものは、扱ってはならないことを示している。
知っ高ぶりというように驕りがあるために、治められない面に遭う。
扱えるものではないことを知ることは、大事なことである。
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謙虚

2011-06-30 | Weblog
包丁も危険なものである。でも、
安全の保障は誰も求めない。
包丁を知り尽くして見切っているために、
扱うものに責があり、左右されるものであるから。
安全の保証を求めなければならないというのは、
危険なものを扱いきれていないためにあり、未知数であるからで、
そのようなものは、扱ってはならないことを示している。
知っ高ぶりというように驕りがあるために、治められない面に遭う。
扱えるものではないことを知ることは、大事なことである。
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眠るな

2011-06-29 | Weblog
催眠を掛けられて脳は惑わされて、
正しい判断ができない。迷妄はこの世のように、
あるがままを見ていながら、あるがままに見えない。
正しいことが悪いこととして、悪いことが正しいこととなってしまえば、
悪だらけとなり、それが正しいとなって、誤りに気がつかなくなってしまう。
地獄の世界であるにもかかわらず、地獄と思わず、苦しむことが当たりまえであるとなり、
疑う余地も無くなる。
だから、
心を眠らせるな。
心に目を持ち、いつも起きてあれ。
そうでなければ、汚い物にたかって生きる虫けらのように、
地獄も天国として生きるものとなる。惑わされて、迷い騙される。
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囲わない

2011-06-28 | Weblog
裕福であればあるほど執着から解き放ち、
散財してその値の全うとなる。
裕福を身に抱えて偉ぶれば、なんのことなく貧乏の極みとなる。
苦楽織り成すように。
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菩薩は訓えた

2011-06-27 | Weblog
並外れた能力の持ち主であるなら、難行苦行にも耐えられようが、
これといった取り柄も無く、「ま、いいか」などと言いながら
加減そこそこに暮らしている日々多き凡人には、修行と謳うものは成し難い。
季節の変わり目などに、あるいは、
年の初めなどに、何か目標を立てて行うも、はや三日もすれば元の木阿弥になる。
あぁ~、救われない者だなぁとため息のでる人である。

「かならず非器なりと思うことなかれ」人は皆、仏性があるのだから
特に自分を卑下してはいけない、地道に努力して事は成ると道元禅師は言う。
親鸞聖人は言う「私たちは皆、根源的な悪をかかえた存在、煩悩具足の凡夫である」と、
そのため、超人的能力を秘めた人ならいざ知らず、自力で持って救われようなどと驕ってはならない。
他力(仏)の力によってのみ救われていくのである。・・・まったく正反対なことを説いているように見えて、
同じことを説いている。その過程において、自分に合っていると思われる道を歩めばよい。

菩薩は訓えた。
‘心無罣礙、無罣礙、故無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃’である。
心は経文の文字に礙げられるものではないために、文字を理解するのは心の勝手である。
そのため、無を無いではなく、無くならないとすれば、恐怖も無くならないとなってしまい、
心経の功徳とならなくなる。そのために、無くならないものは無いとして、顛倒して思って
記憶の世界から恐怖をなくしていくことである。それが、最終的涅槃である。

観自在菩薩はあの世から、舎利子を通じて心経を語った。それは、釈迦の同じ修行僧としての縁によってである。
そして、
宗教に知識が無くても、信仰が無くても、修行してなくても、凡人であっても、誰でも悟れるものとして、
経典として作られた。観自在菩薩が語るまでは、釈迦の教えた修行をしない者は悟れないものだった。
そのために、正しく理解してくださるよう心の問題であることを説いている。
くれぐれも間違って解釈せぬようにと心配しながら。・・・かくして、菩薩の心配は的中して、心経は功徳の無いものとなっているが、
ただ、正しく理解するものには、この上ない効力のある経典となってくる。最速最短最強と謳われる。
心の問題である。私達は、
心を主とし、心によってつき動かされるものである。
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菩薩の訓え

2011-06-26 | Weblog
好きな人と結ばれる。
激しく絡まり、その思いいき果てるとき、天にも昇る心地よさと言い表して、
ただ危なげながらも快楽の勝りに、それだけに心奪われる。
天の国に行ったことはないにしても、天というのはそれほどまでに快感のところなのだろう。
本能としての感である。
この世で、僅かに味わえることのできる天国という処の感覚の瞬間、性交の絶頂。
‘あ’っ‘あ’っと夢中に女は悶え、それを見て男は‘うん’っと言って果てる。
あ、うん、阿吽の呼吸。
天国の思いは、この世に比べられないほどの快楽という。性交の快楽でさえ僅かなものであると。
しかしながら、人の寿命の10倍ほどの命であれ、やがて尽きるときは来る。そのときの苦はまた、
この世の10倍ほども苦しいという。
天界もまた、輪廻の内にある。その内なるを破り、苦楽の苦を除くたった一つの方便、
刹那る快楽の性交を絶ち、輪廻の縁を作らなければ、それこそ永遠なる天の国にたどり着く者となる。

女のいないところにいれば、女と交わることも無くなるために、山に籠もり独り
心をみがく者となるのである。修行僧に本来
女がいないのは心の邪魔となるからである。釈迦の弟子に女がいないのはそのためである。依って菩薩は皆
男である。
僅かな快楽より、永遠の快楽の獲得の為に、禁欲として性を克服するのである。
難行である。凡人である人々には難しい。ならばとして、菩薩は訓えた・・・
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思いもままに

2011-06-25 | Weblog
道理に適う生き方をしていれば、不思議なことに出会う。
それは、煩いの無いことばかり。何事も
思い通りになる事へと進んでいくのである。
言葉の意味に善しとなし、思い論じることがいらなくなる為に、
即断となって答えられる。瞬時、誤りの無い判断となる為に、
大事に至ることが無く、難なく、
案ずるより産むが易しとなっていく。
どうりで善いことというのは素晴らしい。
欲得が無く善い事を行う人だけが知る事である。
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色と空

2011-06-25 | Weblog
色とはこの世のこと。
空とはあの世のこと。

色彩豊かに
受ける刺激が記憶にとどまり、印象ついた事柄が夢の想いとなってつくられていく。
嫌な想い、悪い想いをとどめてしまえば、夢想の世界は、
嫌な世界、悪い世界となってしまう。
すべてのものが疑いとなって、恐怖となっていく為に、
地獄の世界となっていく。
自分が中心として物事を見ていくために、自分を善として、
自分以外は悪となり、気になり、悪だらけとなって恐怖となってしまう。
疑うことの世界は、気の休まることのない世界で、気の毒な世界である。
それを誰しも天国とは言わない。苦しみの世界、地獄という。
天国も地獄も、はじめからある世界ではなく、想いが作り出す世界である。

空をあの世とするのは、
あの世が
生前の記憶がすべて現象してつくられていく世界であるため、死んでもこの世と少しも変わらない世界となっている。
人の想いは覗き込むことができないために、どんなに知ろうとしても知ることが出来ない世界となっている。
記憶が現象されていく世界であるために、生命の新たな記憶が作られることはなく、知ることの無い生命の空白の時、間であるとしているためである。

あの世には、時間も空間も無いために、どんなに長い間そこにいたとしても、生まれ変わる世との接点はゼロである。
生命はエネルギーである。記憶もエネルギーである。
無くなることの無いエネルギーであるために、生命には死がないものとなっている。だから、
何度も何度も生まれ変わる。輪廻していくのである。同じ質のエネルギーが集まり、衆縁和合して肉体は作られ、
諸行無常によって滅し、再びよみがえる。が、記憶はあの世の現象となるために残らず、生前の記憶は憶えてなく
新たな人となって生まれ生きる。その根本には、生命の記憶が連綿として刻まれていく。宿命をつくり、運命として変化しながら生きる。
生命が無くならないのは、法則そのものが無くならないために、無くならないものとなっている。生命が法則によってつくられているためである。
創造主というのは神でもなく仏でもない。ただ宇宙の法則、エネルギーによってである。
エネルギーの法則、それが是である。日が正しい。日の回りが正しい。つまり、エネルギーの質、円の運動によるものであるためのすべてである。

虚ろなところ、空しい間、この世もあの世も空虚な世界、ゼロの接点。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色・・・法則である。
円の運動である。ある意味、♪終わりなき世のめでたさに・・・
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不異、(ことならず)

2011-06-23 | Weblog
色不異空、空不異色、
色即是空、空即是色、
受想行識、亦復如是。・・・この世とあの世は変わらない、
あの世もこの世と変わらない。肉体は
滅んでも、色の世界が変わることがなく、そのまま空の世界となっていく。
空の世界でも同じである、そのまま色の世界となっていく。
想いもまた同じである。
かくして、おぎゃと産声を上げて、
何もかも忘れて生まれてきた。そしてまた、
あの世に帰っていくのである。
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都合よくして

2011-06-22 | Weblog
暑くなれば水が恋しくなり、肌に優しい。
寒くなれば水が冷たくなり、人に厳しい。
それぞれの都合で良くもなり悪くもなる。
その都合を付けて、厳しさも味方にして、
敵に回さない。
人というのは、都合よくして生きられる。
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