並外れた能力の持ち主であるなら、難行苦行にも耐えられようが、
これといった取り柄も無く、「ま、いいか」などと言いながら
加減そこそこに暮らしている日々多き凡人には、修行と謳うものは成し難い。
季節の変わり目などに、あるいは、
年の初めなどに、何か目標を立てて行うも、はや三日もすれば元の木阿弥になる。
あぁ~、救われない者だなぁとため息のでる人である。
「かならず非器なりと思うことなかれ」人は皆、仏性があるのだから
特に自分を卑下してはいけない、地道に努力して事は成ると道元禅師は言う。
親鸞聖人は言う「私たちは皆、根源的な悪をかかえた存在、煩悩具足の凡夫である」と、
そのため、超人的能力を秘めた人ならいざ知らず、自力で持って救われようなどと驕ってはならない。
他力(仏)の力によってのみ救われていくのである。・・・まったく正反対なことを説いているように見えて、
同じことを説いている。その過程において、自分に合っていると思われる道を歩めばよい。
菩薩は訓えた。
‘心無罣礙、無罣礙、故無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃’である。
心は経文の文字に礙げられるものではないために、文字を理解するのは心の勝手である。
そのため、無を無いではなく、無くならないとすれば、恐怖も無くならないとなってしまい、
心経の功徳とならなくなる。そのために、無くならないものは無いとして、顛倒して思って
記憶の世界から恐怖をなくしていくことである。それが、最終的涅槃である。
観自在菩薩はあの世から、舎利子を通じて心経を語った。それは、釈迦の同じ修行僧としての縁によってである。
そして、
宗教に知識が無くても、信仰が無くても、修行してなくても、凡人であっても、誰でも悟れるものとして、
経典として作られた。観自在菩薩が語るまでは、釈迦の教えた修行をしない者は悟れないものだった。
そのために、正しく理解してくださるよう心の問題であることを説いている。
くれぐれも間違って解釈せぬようにと心配しながら。・・・かくして、菩薩の心配は的中して、心経は功徳の無いものとなっているが、
ただ、正しく理解するものには、この上ない効力のある経典となってくる。最速最短最強と謳われる。
心の問題である。私達は、
心を主とし、心によってつき動かされるものである。