つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

性欲の自己管理

2006-02-28 | Weblog
 性欲は煩悩の最たるもの。
食欲は肉体を維持していくために必要で、生物学的に意味がある。
生きていくうえで絶対必要な欲は悪ではない。が、それさえも貪れば悪となる。

温厚な動物でも、繁殖期になると荒々しくなる。
ただ性欲に燃えて、他のオスたちとメスの奪い合いとなって争う。
傷つけ、傷つき、苦しみあうのに、なぜ必死になって子孫を作るのかも自分たちは分かっていない。
ただ性欲に支配されての行為となっている。

心に性欲が入ると思考が乱れ道徳が失われ、燃えた状態となる。
盲目となって、見境なくふるまい、おかしくなってしまう。
心に火がついて燃え盛ると、何もかも失う。火を消さない限り。

食事という欲も、睡眠という欲も、生きていくために必要であるが、
性欲はなくてはならないものではない。
空腹になると食事をし、のどが渇けば水を飲む。疲れると眠くなり、眠る。これはあたりまえのことで、医学的にも正しいし、生命維持には絶対不可欠であるが、性欲を満たしたいというのは、必ずしも必要なものではない。
心が生み出す煩悩であり、危険な火である。
火は管理しないと、すべて焼き尽くす。それも自己管理しないと・・・

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職業坊主は悲の人

2006-02-27 | Weblog
 職業坊主。
仏の衣を身にまとい、死んだものが、成仏できるようにと、経を唱えて、供養する。
あの世にいくために、あの世の名前が必要だとして、戒名と称して、あの世の名前をつける。そして、親族より高い料金をもらう。取るといったほうがいいのかもしれない。葬儀があって、なんぼ の勘定がされていく。

仏の道は、施しの世界。見返りを求めることなく、ただ、いつくしみ、愛をあたえること。
お金で愛は買えないものなのに、お金のやり取りが行われる。
仏の教えを逆手にとって、慈悲を説きながら、煩悩にまみれる。
仏の衣をつけながら、悟りの開けぬ愚かな人。悲の人で、地獄の人となる。

この世の名前があるものに、あの世の名前をつけたところで、何の意味もなさないものなのに、それなりにそれらしく説いて、しきたりとしてしまった。
仏教発祥の地でさえ、そんなしきたりはないものを。

職業として、仕事として、お金のやり取りが絡む仏の教えがあるはずがないものを、私たちは、凡人であるがゆえに、気がつかないでいる。
あまりに、偽善が多いために。
いや、気がつこうとしないだけかもしれない・・・

慈悲を説くのに、お金はかからないものなのに。
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つらいと思う日々は・・・

2006-02-26 | Weblog
 人は、心の中に淋しさを持っていると、やさしくなれる。
悲しい思いをしたり、苦しい思いをしたり、どうしようもない切なさにうなだれるときがある。いいしれぬ淋しさに包まれる。

両手をかざして、幸せを数えたら片手にさえ余るのに、不幸せは両手でもたりない。
なにやら、このような歌の文句があったような気がするが、
えてして、人生は辛いことばかりと、ほとんどの人は思うはず。

その淋しさ、せつなさ、辛さ、苦しさ、悲しさを味わうことによって、人の痛みもまた分かる。
分かるから、いたわりの気持ちが芽生え、やさしくなれる。我が身に置き換えて。

悲しさが、苦しさが、辛さが、切なさが、淋しさがなければ、やさしさはなく、
辛いと思うその日々は、ただ闇雲に無駄にあるわけでなく、自分のために、
けっして無駄とはならない。
連なる縁によって、自分が知らなければならないことがあるために、
それに応じた辛いと思う日々がめぐってくる。

生命が自分である。生命は死なないために、連綿としている。
その自分である生命が、知らないために犯してきた、数々の愚かな行いの報いを受けて、様々な苦しみにめぐり合う。
辛いと思う日々が、その報いを消化していくが、
その起こる事柄に、どのように対処したかによって、めぐる辛いと思う日々が変わってくる。
辛いと思う日々のめぐりが、反転して、その分やさしさが増していくならば、
必ず、辛いと思う日々は途絶える。
淋しいものを心の中に持ち合わせていなければ、心が優しくならないという
哀しい存在から抜け出せる。
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迷いを除くためには・・・

2006-02-26 | Weblog
心に迷いがある。
良心と悪心が棲んでいて、常に、することに対して葛藤する。
こうすればよいのだろうか?と迷い、こうしたらよかったのでは?と、先にも後にも迷う。
心は、自分だけは良くなりたいとか、誰よりもしあわせになりたいとか、一番になりたいとか、・・・さまざまに欲望を生む。
欲望そのものに善し悪しは無いが、人の判断が、善悪の判断となっているために、煩悩となってしまう。

人は、経験しないことはわからない。経験したことが無いために分からないとなって、警戒する。わからないために、怖いとなって、悪と判断してしまう。
初めて会う人に対しては、良い人なのか悪い人なのかわからないために、身構える。
この分からないことに対して、恐怖を抱き悪を判断するために、身構えるのであって、
人が人を正しく判断できないためである。
判断できないと、正しい記憶とならないために、悪が判断されて、悪魔の世界となって、地獄の世界となってしまう。
経験しないことは知識とならず、悪と判断されるために、常に悪が判断されて、
地獄の世界がつくられる。
知識を正しいとして、知識とならないことは、悪と判断されるために、善悪が創られていく。

この宇宙を作っている法則は、エネルギーの円運動の法則である。
すべての存在の法則である。
この法則には善悪は無いため、絶対善となって、浄化の法則となっている。
回る動きは浄化の動きとなっている。
そのために、人の動きも浄化の動きとなっていて、生命の浄化として生きていく。正しい浄化となっていかなければ、悪となって、救われることは無い。

この浄化の動きであることを悟り、善を行為としていくことで、
正しい行為となり、法則の行為となり、すべての判断が法の判断となって、
迷うことなく、即断となって、あらゆる災いをさけ、苦悩から解き放されていくとしている。
これが法の身についた判断で、「智慧」という。
「智慧」の身についた判断は、法の身についた判断で、浄化の行為で、善の行為で、悟りの行為となっている。
この無くなることのない法則の存在であるために、生命も無くならないとなって、生命の幸せのために、人は生きていくものである。
その行為が,善の行為で、愛の行為で、この経験が智慧の判断となる。
輪廻から解脱する。 
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智慧でみる、般若心経・・・その4

2006-02-24 | Weblog
 「無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」

「地獄の世界が創られると、地獄の世界が無くならず、尽きてなくなることも無い。
また、老いて死ぬ恐怖も無くならず、老いて死ぬ恐怖が、尽きて無くなることも無い。」

 無明とは、地獄の世界のことで、死後の世界が、法則の絶対世界であるために、
死後の世界が、地獄の世界となってしまうと、地獄の世界が無くなることが無く、
無無明尽として、その世界が尽きてなくなることがないとなっている。
そして、老いて死んでいくことに恐怖を覚えると、おびえた世界となって、その世界が尽きて無くなることがなく、その恐怖の世界からぬけだせなくなってしまう。

 「空」とは、死後の世界のことで、けっして知ることのできない世界であるために、「空」と表している。
「空」の世界は「是」の世界で、法則の絶対世界となっている。
「是」とは、日が正しいと書いている。日の運行を示した文字で、
日が、東より昇り、西に沈む、この法則が永遠に変わることの無い法則で、無くなることのない絶対法則であるために「是」としている。
すべてが、この下の存在となって作られている。
すべてが、この法則(是)の下の存在であるために、
法が無くなることが無いために、すべてが無くなることの無い存在となっている。
そのために、人は死んで、肉体はなくなっても、生命はなくなることがなく、
人生何十年かの経験が、記憶となって、その記憶が死後の世界となっていくとしている。そのため、
死後の世界は記憶の現象の世界となっている。

「法」とは、円の動きで、これがエネルギーの性質となっていて、
このエネルギーの性質があらゆるものを生んでいる。
広大な宇宙も、微細な原子の世界も、エネルギーの性質でつくられているために、
丸い形となっている。円となっている。
エネルギーの性質が、円の動きであるために、あらゆるものが、回る動きとなって、始まりも終わりもないものとなって、繰り返していて、
そのために、無くなることが無い動きとなっている。
必ず元に戻る。
一時も止まることが無く回っている。

人も生命エネルギーであるため、意識に関係なく、止まらず動いている。
体の中は、循環している。まわっているのである。
人の動きも、朝、出かけては、帰ってくる回る動きとなっている。
時も、一日も、星も、宇宙も、原子の世界も、すべてが、円運動している。

あらゆるものが、繰り返して進み、もとにもどる。
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報いは、いずれ、ある

2006-02-23 | Weblog
 どんなに、うまくうそをついたとしても、そしてそれによって恩恵をうけたとしても、その行いの縁は残っていて、いずれそのうち、
その報いは受ける。
人は必ずいつかは死ぬ。
死ぬまでの間に、その嘘をついたことの報いを受けることなく、死んでしまったとしても、報いそのものがなくなってしまったわけではない。
報い手がいなくても、報いは残るため、いずれ現れる。
縁となっているために・・・、必ずその人に。

その縁を切るには、嘘をついたことの反対のことをしていかなけらばならない。
それは、その人にとって苦しみとなるが、嘘をついたことに対して受ける報いそのものからすれば、あまりに、楽なことである。

何も知らない、罪も無い幼子が、事件にまぎれて、殺されたとしよう。
なぜなのだろう?

山が高ければ、高いだけ、それに見合って谷も深い。
すべては、それに見合って存在している。

縁はつながるもので、良いものは良いものと、悪いものは悪いものと結ばれる。
それぞれの縁を断つには、それぞれの反対を行っていけばよい。
簡単だが、難しい。

報いを受ければ、報いは消える。あるいは、報いを消す行為をしていれば・・・。
人は死んで、リセットされるが、受けていない報いは、そのままついていく。
人と共に、輪廻して、いずれ現れる。
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伝えることが、へた なために、うまくできなくて・・・

2006-02-23 | Weblog
 「摩訶般若波羅蜜多心経」は、観自在菩薩が死後の世界から啓示として語っているもので、
お釈迦様が語ったのではありません。

般若心経は、大衆に説かれたものであるために、般若としているのです。
「般」とは、一般の般で大衆を示していて、「若」は、若干名の若で、数をあらわしていて、不特定多数をさしています。ですから「般若」を一般大衆として訳すのです。

ほとんどの般若心経の訳されたものは、
この般若を梵語でプラジュニャーといい、その音を写したものであるとしていて、
智慧という意味をもつために、般若を智慧と訳しています。
そのため、仏の智慧の経典であるとなって、仏の優れた才能で説いているために、凡人である私たちには理解しがたいものであるとなって、智慧とは何なのか、さっぱりわからないものとなっています。

「摩訶」は、訶(うた)を摩く(みがく)として、悟りの訶を摩く経として、
摩訶としています。

「波羅蜜多」は、波のように揺れ動き、蜜蜂の蜜のように、ぎっしり詰まって、
動きの取れない、どうしようもない苦しみ、悩みを表しています。
「羅」は、維(これ、つなぎとめる)に、あみを覆いかぶせて、苦悩を表す文字にしています。

「経」は、縦を意味し、横文字で書かれている梵語(サンスクリット)を、縦文字である漢文に訳したために、経としているもので、訳されたものという意味で経といいます。つまり、原文を訳したものという意味です。
よって、
「摩訶般若波羅蜜多心経」とは、「苦悩する一般大衆の心を摩く訶の経」と
訳されるのです。
「大いなる智慧の完成」と訳してしまっているために、何が智慧の完成なのか、
智慧とは何なのか、わけのわからないものとなっているのです。

心経の文字に、惑わされること無く、正しく解釈してくださいと経文に説かれているのですが、誤って理解されたために、わかったようで、わからない、ちんぷんかんぷんなものとなっているのです。

漢文は正しく訳されているのですが、それを説いていく人の、判断の自由で説かれている為に、判断の誤りが経典の誤りとなって、理解しがたいものとなっているだけなのです。

般若心経は、正しく訳されていけば、神や仏を信じていなくても、難行苦行という修行をしなくても、してなくても、誰でも悟りは開けるとされたために、広く広まっていったのです。
啓示であるために、真実嘘のないものとなっているのです。
心経を、正しく訳していくと、それがわかってくるのです。

・・・つづく。






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智慧でみた、般若心経・・・その3

2006-02-21 | Weblog
「是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界」

 是であるがゆえに空のなかでは(あの世が法の世界(是)であるために)、
色(この世)の無くなることがなく、受想行識も無くならない。
色が無くならないために、目で見たこと、耳で聞いたこと、鼻でかいだ匂い、
舌で味わったこと(味)、そして、体も心も無くなることは無い。
だから、色彩も声も、香りも味も、感触も無くならない。それは、法則が無くなることがないためである。
そのために、眼で見た世界が無くなることが無く、そして、心の世界(意識)も無くなることがない。
空の世界(あの世)は、眼のなくならない世界となり、心の無くなることの無い世界となって、心の現象の世界となっている。

・・・つづく。
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智慧でみる、般若心経・・・その2

2006-02-20 | Weblog
 「舎利子 是諸法 空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」

舎利子は言った。(法則について分かりやすく説いた)
是がもろもろの法で、唯一絶対の法則であるために、すべての存在の法則となっていて、空の世界(あの世)の実相は、
不生不滅(すべてが円の動きの存在で、変わらない動きとなっているために、唯一絶対法則となって、なくなることがなく、老いて死ぬことはない世界となっている)で、
不垢不浄(汚いとか、きれいとかいう、感情の動きのない世界。‘感情で動くことがなく、動かされることもない’感情の働きがないために、死んだことも知ることがなく、生まれたことも知ることがなく生きていく。‘人が世に生まれてきたときに、「生まれてきた」と思わない、気づかない、と同じように。’)で、
不増不減(あの世は、人が生きてきた経験の記憶の現象の世界であるため、この経験の記憶の現象が、増えたり減ったりすることはない世界である。)となっている。
・・・つづく。
 
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智慧で見た般若心経・・・その1

2006-02-18 | Weblog
計り知れないほど奥深い如来の法を行じ、
悟りを開いた観自在菩薩が、法が縁となって、あの世から、
舎利子の心の中に身を現し、啓示として、
「人の五官により起こる行為が、皆、空の世界(あの世)となっていく」と
明らかにした時、悩み苦しむ一般の人々は、一切の厄から、解き放された。
舎利子は言った。
人の五官の行為のエネルギーの蓄積されたものが五蘊であり、その五蘊の世界が色
の世界となっている。空の世界は、死後の世界(あの世)である。
その色の世界と、空の世界は、違う世界ではない。
「色不異空、空不異色」と異ならないものとなっている。
色の世界が空の世界となっても、空の世界が色の世界となっても、まったく変わらないものとなっている。
法則が絶対正しいもので、唯一であるために、是となっている。その是によって、
色の世界が即空の世界となり、空の世界も即色の世界となっていく。
「色即是空、空即是色」の輪廻の法則となっている。
色の世界が、外からの刺激を受けて創られていくために、受の世界として、
人の想行識の行為が受の行為となって、受想行識の世界となっている。
「受想行識 亦復如是」として、受想行識も、亦如来の是(法則)によって輪廻していく。そのために、人は人として、輪廻転生する。

 「観自在菩薩行深 般若波羅蜜多 時照見 五蘊皆空 度一切苦厄。
舎利子。色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是。」

・・・つづく



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