つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心の羽を伸ばす

2015-12-31 | Weblog
高台より見下ろせば、
下界は閉じ込められて不自由にあり、
ただウロウロと這い回るものである。
あぁ、無知なれば、満々なる気もそよ吹く風のように、
愛しげにただ頬を撫でるものにある。
空はあれどもただ空であり、舞うことのできないものに、
意味なく広がるものである。
もし、根気上がって運気上昇に虚空を制し、自在をもって自由を克ちとる。
気を吸い気を吐き生きるものである。
虚とするも実とするも空(くう)にして係り、無尽蔵である。
自由の義を是にして自在を知ることである。

地を這うもの、ただ下等にしても、飛ぶことを与かるものである。
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運命と宿命

2015-12-30 | Weblog
かけがえ
という言葉の
かけがえのないもの
という事を知る。

掟、

おきてなす、起きて成す。

おそらく、
衆生は、
悉く

説かれて、
知れぬものであるが、
知らぬばかり
ということもない。
おそらく
衆生は、
その面持ちに説いて
知らぬものではあるが、
知らぬままであるということもない。
よって、
語るべきであるとして、
徒然
語られる。
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山にこもるという方便

2015-12-28 | Weblog
人、交尾をするに誕生となる。
雄は雌を、雌は雄を思い焦がれて互いを引き合う。
本能である。生命エネルギーの性質である。
それは、回るものであるというエネルギーの法則に由る自由にしてあり、
昼と夜の二つの違ったエネルギーの廻りで、一つとして現象している。一対で成り立つ。
相対しているものである為に、与えて奪い奪って与える共存にして共栄を持つ。

本能で求めるものを抑えて、雄は雌を求めなければどうなるのか?その後の成り立ちは如何や?と
自由に思えば、悉くにそれを実行して、はて?そこに何が開けるのか?
それは、成り立ちを得ず、ないもあるともなくを得て、それこそ安楽というものではないか。
それは、エネルギーの法則に善悪は無く、故に、絶対善となっているような様を得る、というものである。
エネルギーの法則は道理にして、しかしながら、自由である。
その道理をもって、
はだかる煩悩を蹴散らすに、異性に触れず、異性に遇わず、異性を見ず、異性を思わず、もってして、
異性から離れて人里離れ山に暮らす。
ないものねだりを忘れて、ただ独りを生きるに思う。
そうして、「対」するものを離れて、単独とする一つを完成形と為して、あるがままとしての自由を得れば、
この世のあらゆる苦を離れて、安住が現れる。輪廻から解脱する。

愛するものをつくるな、愛するものが無ければ、何を恐れることがあろうか?

「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。
愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?」と仏は訓える(真理の言葉・212)。

四苦八苦にして、この世は一切皆苦であると説かれる。
生まれる苦しみと、それに伴う(生きる)苦しみと、死んでいく苦しみは、苦しみだけである。
この苦しみの中から、生まれなければという楽を覚れば、生きた(苦しみ)甲斐が得られるというものである。
それが人生である。高等な生命の所以である。




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人としての行為

2015-12-26 | Weblog
さて、
人としての行為とは何か?を考える。
人は人として生まれるために、人としての行為をする。
それは、人と人との繋がりでもって成り立つために、
他の生物との繋がりは持たない。
気を魅かれるのは男女の別である為に、
互いに意識しあって好き嫌いとなる。
人であるための本能で男女の交わりとなっている。
同じ性質のエネルギーが引き合うのである。
この交わりが性別の交わりで性交である。
この性交によって人は誕生する。
人は人との
性行為でもって生まれてくるのである。
互いを意識し合い愛しむために、絶対善の行為となって、
人は誕生してくるのである。そのために、子は愛の結晶と言われ、
我が子ほどかわいいものは無いとなっている。
もし、この行為(性交)が悪い行為だとするなら、生まれてくる子は、
悪い子であり、皆悪魔な子となってしまう。
全人類皆悪魔となってしまう。
そうではない、
淫らに不特定多数と交わる行為が人でなし行為というのであって、
男女が互いに愛しみあう行為こそ絶対善の行為であり、人としての行為である。
そのために、
人でないものと交わる行為は人でなしとなり、
人でないものとの縁をつくり、人でないものに生まれ変わる。
六道輪廻は、人の心の質、現れに由る生まれ変わる処。
その様に見て、人は人である為に人と関わり、人としての行為をして行くもので、
人の姿に生まれていても、人という種から逸脱した行為をしていけば、
自ずと逝く先は見えてくるものである。
それは、
人(肉体)は必ず死んでいくものであり、心は死に非ずであるためである。
心の現象があの世である。天国であるか地獄であるかは、自身の生き様に由るものである。
自ずと選択しているのである。

昼と夜の別が男女の別となって、このエネルギーの違いが一つとなっている。
昼と夜の廻りが男女の交じりとなって、生命の誕生となっている。

人が生まれて此の方、あるいは、地球が誕生して此の方、
明日の来ない日というのは、ただの一度もない、これからも無い。
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実際

2015-12-24 | Weblog
理論など知らなくてもよい。
論理を知ることである。
そうすれば、
机上の空論はなくなるものである。
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選択という分岐点

2015-12-23 | Weblog
明日はキリスト誕生の前日である。
おそらく、信者であれば降誕祭を疑うものはいないだろう。
歴史というのは事実に基づき語り継がれていくのであるが、
必ずしも、それらの事実が正しく伝わっていくということはないものでもある。
たとえば、何かの事柄、或は、物体を伝えるのに、十人いれば十人に正しく伝えていくというのは、なかなか難しい事でもある。
ある程度単純なものでさへ正しく伝えることは難しいものである。
四角いものが正確に四角として伝わっていくことは難しい。
それが、物語となれば、はたまた大勢ともなれば、四角いものでも三角、或は、円いものとなって伝わったりしてしまうものである。
また、意図されて
歪曲して伝わっていったりもする。

因みに、人の歴史にキリストはメシア(救世主)であり、メシアはミトラであり、弥勒と言われ、ミ・レーとして蜜としての教え、密教となっている。
太陽神(ミトラ)はアポロンであり破壊と創造を持ち、陰陽で成り立ち、伏義と女媧であり創造神となっている。
その創造神は各神話として語り継がれている。地球上においての神々は、地球外生命体の知的生物に於いての物語であり、
その訪問の関与により作られていき、様々な形で示されている。
知浅き人類には、人知及ばぬ優れた能力を見て神と位置付けるもので、本来の意味での創造神という存在は無く、
宇宙の存在は、エネルギーの法則によってつくられているものである。だから、神と呼ばれるものもすべてエネルギーの法則の下の存在である。
法を超えた存在はない。
そのために、いわゆる人が神とみなす存在は、知的生命エネルギー体生物であり、エネルギーの法則に善く順応し得たための
反応に過ぎないエネルギー体である。究めて優れた能力を持つが、人と同じように進化の過程にあるもので、
それこそ神とは何か?と探しあてているものである。また、神と呼ばれる進化にあっても、様々にしてあり、優劣があるもので、
それは、人に優劣があるのと同じである。人に好意的でないものと好意的なものとがいるのである。
それは、法則が自由であり、相対にしてあるものでもあるから。

宇宙は目まぐるしく動いている。エネルギーであるからで、その性質、環状体状となっている。
太陽系もまた高速で移動し、太陽系の惑星は、螺旋状に太陽を回る形となる。
それは、遺伝子のような形である。
人類は優れた遺伝子構造を有し、本来12螺旋であるが、二重螺旋構造とされている。
やがて、自然に元に戻っていくが、人が何かを長く維持するのには、常に関与していなければならないように、
自然的でないものは、不自然にして関与し続けなければ、元の形に戻るようになっている。
法則が‘元に戻るもの’であるためである。
自然的なものは永続するが、人工的なものは必ず無くなるのである。

人の能力というのには、可能性というものがあり、どれだけの力が発揮できるのか未知数である。
研究に研究を重ね、時と共に明らかにされてはいくが、限界という絶対はないと思われる。
一つのヒントに、「為せば成る 為さねばならぬ何ごとも ならぬは人の為さぬなりけり」という、上杉鷹山のことばがある。
無理と思われることは人の思いにあり、道理で生きているものの中には無理という事は本来無いものである。
そのために、
限界を決めてしまうのは人の思いである為に、限界はないものであると思えば、達成できていくものである。と思うことにある。
それは容易ではないことであるのだが、不可能ではないのである。なぜなら、エネルギーの法則である宇宙の法則は、
‘無くならないもの’としてあるためである。それが、自由であるためである。
自由はそう訓えてあるものである。

イディオ・サヴァンという言葉がある。賢い白痴(仏語)と言うらしい。
イディオが差別語にあたるとして、サヴァン症候群としてかたられる。
通常ではありえない人知を超えた優れた能力を持っているが、反面、身体に障害も持つ。
おおかた、偉人というのは偏屈者が多く、だから、紙一重というものである。が、
その様な人たちを思えば、人は人であるに違いはなく、粗方誰にでもそのような優れた能力はあるものでもあるといえる。
ただ、凡人として見出せないでいるのである。そして、凡人であるままでいれば、あいつは変人、はたまた気違い呼ばわりをされるものである。

人(生命)というエネルギー(たま・魂・霊)は、磨けば光る玉としての存在である。それは、神の如くにある存在でもある。
仏教で訓える一闡提から覚者まで九品九生にあり、
ただ自らによって仏性を起こせば、誰でもブッタになれるものであると訓える。
何の為に生きる?とは、偏に、自分自身を磨くためであり、それによってエネルギーの本質を知り、
知ることによってすべての問題が解決されていくために、して、苦からの解脱となって、
安楽な世界での安住となるためである。
涅槃寂静となるためである。
知的生命エネルギー体の訓えである。
それは、人がサルに智恵を教えていく様なものでもある。
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正義(道理に適っていて、正しいこと)

2015-12-20 | Weblog
少し前に、ロシアに隕石が降ってきて、およそその落下スピード時速60万キロ、音速にして
50くらいと言われている。人類の現在の科学をもってして対応できるスピードは皆無である。
ビデオカメラで捉えられた映像は、隕石の背後より飛来物が現れ、隕石を貫通していく様子が映されている。
人類の現代科学では追い付けないスピードで落下するものを捉えることは不可能でありながら、
可能としている技術力は、とても太刀打ちできない知力が存在していることを訓えている。
ある程度空中で撃破されていなければ、甚大な被害が及んでいただろうことは容易に察しづく。

人類は、地上の覇者として君臨しているように思われているが、そうではないという事が、
科学の発達によって明らかになってきている。
日常では起こり得ないとする超常的事柄に出遭ったとき、人知及ばずとする浅はかさによって、
神がかりとしてただ恐怖するも、宇宙の法則の真理は一つであり、統一されたものである。
「私がいる」としても、私は私を本当に知ってはいない。
私が私でありながら、私はどこから来てどこへ行くものであるのかを知らないように、
宇宙の法則もその様である。これが自由という正体である。
私という心が、‘なぜそう思うのか’というのが、自由という正体である。つまり、エネルギーである。
その自由によって、反応したものが進化を遂げていく。知を廻り蓄積していく。
知力増大して、ありとあらゆる経験を知る。
その知力にして先見を得、事の成り行きが分かっても、未来はただ不定である為に、
常に監視にあらねばならない。それが正義という自由の本質であるためである。

人類が、ヨチヨチながら宇宙に飛び出して、恐る恐る探索を始めていく。
這えば立て立てば歩めの親心という段階にある為に、知力の進化した生命エネルギーには、
親心で見守り、或は、試練を与える。

人にも様々がいて、温厚なものそうでないものがいる様に
他の生命にもその様である。人類より少し進化したもの、遙かに進化したもの、
、その進化したものよりも究めて優れて進化したものなど様々いるのである。
特に、混沌として道義性に反した状態にある時、縁によって、悪いものには悪いものが寄ってくるように、
悪い者が訪れてくるのである。
そこに、人から見て、対、神と神の戦いが繰り広げられるのである。進化の過程の違いがあれども、
高度な技術によって熾烈な争いが続くことになる。・・・
・・・

さてはて、
自由の本質、正義があるために存在しているのである。
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シューニャ、零、うつろな

2015-12-19 | Weblog
先見の眼(まなこ)でもって見聞きする。
たとえば、
最新技術をもって作られた最先端デザインの車をみる。
その時のその眼で見ていれば、最新科学の素晴らしさを感じるも、
その時間線上遡って過去と未来を見つめれば、「今」はただ過去の如くの映像となり、
ブリキの様をその車に見る。
数十年?先のまなこに映る映像は、卵の如く凹凸も無く、
つかみどころのない扁平な変形を容易になす。全体が窓であり壁であり、
透明にして様々な色合いをなす。どこともなく扉となり開閉するも、
隙間など微塵も残さない。
防水にして防音で全域の寒暖を遮断する。
ある手ごろな船となり、微にして格納、持ち運べる。
まるで量子にあり、ミクロとマクロを瞬時入れ替える。
柔軟にして強固そのものを持つ。‘ナノ’とつく単位の強固さを持ち、
更に進化しての強固さも得ていく。
それは、
エネルギーの法則の自由を、自在と知り得た徳である。
「自由」という義(いみ)を深遠にして、よく精査(知る)ことである。

エネルギーの法則は、数字にして計算になり、よく図られてあるものであるも、
計って図られないものでもある。
簡単にして、
食欲はその人の思いであり、図って計れないものとしてある。
個々にして曖昧であり定まってはいない。
口にする物の、エネルギー量を計り定めて取り入れると、
計れないものと図られたものの違い(摩擦)が生じ、エネルギーの流れの滞りとなる。
スムーズにならない。はかどらなくなる現象が起こる。
それはストレスとなり、肉体の過剰刺激となってやがて異常をきたす。
つまり、病気となっていく。
健康の為と思い、カロリー計算されたものを食事としていくと、
その思いと裏腹に、健康を害っていくのである。
肉体の弱体化が起こっていくのである。

食欲は本能であり、肉体の要求するものを食べることがよい。つまり、
‘食べたいときに食べたいものを食べる’が基本である。ただ、足るを知るということを心掛けるということである。
昔から言うように「腹八分」が肝要である。
食欲は本能であり、、肉体のエネルギー不足によって起こる。
だから、おなかがすけば何を食べてもおいしく感じる。美味しいと思うものは甘いと認識する。
その逆に、おなかがすいていなければ、美味しい料理も食べたいとは思わない。
野生で生きる動物たちは、本能で生きている。そのために、満腹であれば、
目の前を餌となる動物が通っても狩りはしない。
身の危険を感知すれば、逃げる(その場を去る)か戦って身を守ろうとするだけである。
むやみやたらに襲うことはないのだが、ほとんどは食うか食われるかの世界に生きていて、
腹を空かせていることが多いのである。

計算によって緻密にあるを知るが、知って知れないことを知る。
それはまた、勘をもって計られたりするゼロ、0、零と認識するものである。
ただ、‘うつろ’な である。
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2015-12-18 | Weblog
頭一つにして、脳みそは右と左を持つ。
顔ひとつにして、眉は右と左のふたつあり、
目もふたつ。
一つの鼻にして二つの穴を持ち、
口一つにして右と左の対称型で、
上と下との合わせ唇。
耳も右と左を持ち、合わさって一つを認識する。
一つの身体にして、右と左を対称的にして持ち、
一つでありながら二つで作られてある。
そうした一つが一つとして完成を持ち、性別をもつ。
性別の違いが合わさって一つが立ち上がる。一対という完成形を為し、
一つの存在を作り上げる。
大にも小にも一つにして二つがあり、一つを形創る。
その様にして、苦もあり楽もある。喜怒哀楽と対して起つ。
‘つくり’というのは二つにして一つであり、一つにして二つである。
そうした別々を曖昧に見て中とし、はっきりとした認識を得る。
この‘中’をして、三つ巴で「明」の認識となり開けてくる。
先見の明となってくる。
知る人ぞ知るである。
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一対

2015-12-16 | Weblog
一対として存在である。
そのために、
常に対立としてあり、それは、対等としてあるものである。
だから、
朝と夜、闇と明、男と女、陰と陽、優と劣、
昼夜と言い、明暗と言い、男女と言い、陰陽と言い、優劣という。
長短は、長所と短所で優劣にあり、時と場合に変化して同等で一つの中にある。
ありのままは、一つの完成形にしてあって完成に無く、
戸惑いをもってつまずいてしまうが、明らかに見て、二つで一つとする完全完成形を知る。
一対である為に、苦楽があり悲喜交々を持つ。
それは、避けられるものではないが、強弱として対等を得られるものでもある。

けっしてしたくはない苦がある。至極の楽がある。
その長短は一緒にして高低差を持つものでもある。
自分次第の心がけだけで・。

ありのままは、ありのままとして対立を対等にして示し、
戸惑う迷いの中に明暗を分けている。
気づけるのは自分次第に由るものである。
一対に気づく。

正しい選択は、八正道にあり、
敬服して行うことにある。


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