つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

言葉のからくり

2019-11-30 | Weblog
全ての隷属は苦であると仏は訓えた。

働かないで生きるというのは、怠けるということではない。
傍を楽にするために生きているのではない、自分が楽になるために生きているのであるから、
傍楽ことをしないで自分のために動くという意識改革が必要である。
ここで、「愛する者」ということの意味を正しく理解することである。
自分は愛する者か?と省みる。
そうすれば、「はたらく」ということの本当の意味が知れてくる。

隷属社会からの脱却は苦からの脱却である。
不自由からの脱却である。
旧思想からの脱却、いままでの常識を打ち破れ!
従順に働いて心を詐取される。洗脳は、言葉巧みにからくる。

金融支配、お金の奴隷となって、ただ従順にはたらく!
だから、
はたらかないで生きていくことこそ、支配者が一番恐れることである。
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自分を見ることに敗れる

2019-11-24 | Weblog
意識の存在である私達は、量子的存在である。
そのため、意識がこの量子的存在ということにいかに気づくか?が
大変となってくる。僅かながらも、私達生命が、量子の集まりによって巨視的世界を
形作っていることを理解できるならば、奇跡ということが、
必ずしもあるというのではないことが知れてくるはずである。
つまり、奇跡は意識の無知にあり、本来は、
ありふれて起こすことができることであることを理解する。
私達は、量子エネルギーである意識の存在である。
簡単にして、心の在り方の存在。漠然としているが、
そうとしか伝えられない。
あまりにも譬え方が違うと思うかもしれないが、
競争するとき、
相手を眼中に入れるのではなく、心の中の自分と、外にある自分を視野に入れているだけでよい。
相手を計ると、自分の頂点は見出すことはできなくなる。結局、相手に敗れる。
つまり、自分を超えることは無い。
自分を見ることに敗れるから、相手にも勝てなくなる。
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無駄な存在は無い

2019-11-23 | Weblog
働かざるもの食うべからず、と先人は言った。
確かな言葉である。他の動物も、親元を離れたら自分の食事は自分で確保しなければ生きてはいけない。
そのために、親は一所懸命、最速で、餌取りの仕方を教え込む。覚えの悪い子は、ただその運命に従う。
それが、他の動物の命を養っている。自然はそのようにして、少しでも優れた命を養う。が、優れたものだけが
残れば、必然絶することになる。そうならないために存在となっている。その存在は愛。
愛は助け合う心、意識である。その意識が弱者の存在を維持する。
他の動物より知恵ある人間でも、必ず老いて働けなくなっていく。
その時、知恵ある死に方が愛情に包まれた死に方である。弱肉強食にある下等な死ではない。
未来世に繋がっていく高等な肉体の消滅である。
もし存在を維持する意識が無ければ、すべての存在の意義が無くなってしまい、宇宙自体が消えてしまう。
存在の意義というのは、すべてを可能とするものであるために、癌細胞のように、
自らを不可能とすることを可能として、自滅することができる。
存在として、私達の意識があるのは、ただ愛に委ねられている。その愛は、自由という
他から何者にも制限されることのない力で守られている。が、自意識過剰に由って癌細胞となってしまう。
自意識は自由を覚醒しなければならない。
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縦横無尽の道理

2019-11-23 | Weblog
縦と横の関係は、縦を優先順位として行けばうまくはかどる。
言葉にしても横縦とは言わないはずだ。必ずたてよこと言う。
これが自然であるために、この関係性を元にして考えれば、
縦糸と横糸は、縦糸から織り込まれていくことで、よい織り込みとなって作られていく。
理に適っているために、美しい模様となる。

父と母は横のつながりである。その繋がりでできた子は、父母との縦の繋がり親子である。
こうして見ていくことで、関係性に問題が生じたとき、必ず縦糸の関係性を重視して取り掛かることである。
縦のつながりのある問題提起を、先に処理をすることこで、事なきを得ていく。
この道理を無視して順番を間違えれば、事は大げさになっていくものである。
なかなかうまくはかどるものではない、もつれていく。

縦横は無尽である。自由自在と言うように、
妨げるものがなにも無い。
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好転現象は痛む

2019-11-22 | Weblog
日本は生活基盤が優れている。
水は安全に飲めるし、下水も整備されている。
綺麗なものと穢いものをうまく選り分けられて暮らしている。
そして、これが当たり前であると思って生きている。
当然、生きていくには当たり前なのであるが、自然にはこの当たり前というのは無い。
人間が勝手に思っている当たり前である。そのために、この当たり前になれてしまうと、
とんでもない不幸が訪れてくる。自然が当たり前であって、自然は秩序在りながら無秩序である。
その無秩序から秩序となってくるために、自然というのは整然としていて美しくなっている。
便利を当たり前と疑うことが無くなってしまうと、必ず不便がやってくる。
常に、謙虚に不便を与っていれば、不便を高じることは無い。

日本は先進国であるが、当たり前という感覚が、愛情から作られてきていることを、忘れてきているようだ。
助け合うことをしないで、自己責任に押し付けて物事を処理している。
怪我を負ったことのない人は、回復の足取りを知ることが無いために、安易なものである。
結局、それが全体を蝕み、すべてを巻き込んで崩れ去ることを知らない。
わが国は、驕りの中にあり、安易に蝕まれている。
そうして、窮地ということを知り、忘れてきたことを思い出すことを覚える。
今、迫間にあるが、痛みは伴って回復に向かうものである。一旦という痛みは、膿だしである。
物事の道理というものは、そういうものである。
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変化が近いと感じる

2019-11-17 | Weblog
シャカもキリストも滅亡は避けられないとした。
そのために、
説いたのは魂の救いである。現世の救いではない。
魂という生命エネルギーそのものの救いを説いているのである。
人類の進化は、悪魔の進化となっている。科学は人類を破滅に導いているもので、
助けるものとはなっていない。
便利は、高じていけば不便極まりなくなっていく。
動物の中で、一番肉体進化の遅れているのが人類である。
なぜなら、自然に対応するのではなく、自然を自分たちに合わせて変えているために、
最も脆弱な肉体生物となっている。
脆弱な肉体は、すなわち宇宙空間に出ていくには限界がある。
自由に航行することはできない。

人の生命は精神的エネルギーである。物質的エネルギーではない。
そのために、意識的に思考をめぐらしていかなくてはならない。
そうすれば、自由に宇宙に羽ばたいていける。
意識に隔たりは無いからである。
意識が自分の世界を作るために、どのように思うかという正しい意識の仕方を
訓えているのが釈迦でありキリストである。どちらも同じことを説いているもので、
キリストは愛の行為を、釈迦は慈悲の行為を説き、死後の世界がこの行為によって
作られていくとして、生命に死が無く、意識が正しい世界を作っていくのであるからとして、
意識である魂の救いを説いているものである。

人類が原爆を使ってから、知的生命体が頻繁に現れるようになったのは、
原子力が宇宙の他の生命体に悪影響を及ぼすものであることを知っているためである。
しかしながら、自由を制御することはできないために、人類が自らから気が付いて、
制御していかなければならないことを諭すためである。
意識を正すものは、この低次元を超えて上昇していけるものである。これが魂の救いである。
死のない生命が、喜んで生きていくためである。
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常識を破れ、人は地球の覇者に非ず

2019-11-17 | Weblog
釈迦もキリストも人類は一旦滅んでしまうと予言した。
この予言は法則の予言であるために、誤りのない予言となっている。
つまり、100%滅亡にある。
恐竜時代が滅んでしまったように、人類もこの地上の変化によって滅亡してしまう。
それほどこの地球という惑星は不安定な状態にある。

地球外生命体は人類よりもはるかに遥かに優れていて、人類が太刀打ちできるものではない。
この地上を乗っ取ることはあまりにも簡単なことである。
しかしながら、この地上は人類であふれている。
地球外生命体と呼ばれるエイリアンはいない。いや、大ぴらにはいないという方が正しいだろう。
人類に様々な人種がいるように、見た目は人型という生命であるが、
必ずしも地球由来の生命体とは限らない。
同じ人間で、想像もつかないほど優れた能力のある人がいる。
他の動物にも、人類には、理解に苦しむようなことができる能力が備わっているのはたくさんいる。
擬態、つまり化けられる能力があったりする。
変幻自在に様態を変えられる能力、
人の常識を取り払って、不可能を可能とする能力があることを認識できなければならない。

人の生命は魂である。心とも言われていて、これといってつかみどころのないもので、
魂は、心はどこにあるのかと尋ねられても、明確に答えられる人はいない。
多分胸のあたり、或いは頭のあたりとか、人ははっきりと答えることができない。が、
魂があることは確信できる。そして、その魂に動かされていることを知っている。
「人は心にもとづき、心に付き従う」と言われるように、心が魂であり生命であり、人の行動を支配していることを知っているが、
漠然と知るだけである。どこに心がいるのかわからない。ただ肉体の中に宿していると思うだけである。
痛いも気持ちいいも肉体的感覚からくるために、
肉体が生命そのものであると錯覚してしまう。
肉体を通して感じ受ける心が生命そのものであると思えないのである。
肉体が大事なのではない、心が大事であるために、その心によって肉体が行動し、
喜怒哀楽を感受することができるために、肉体が大事となる。この順番を間違えるために、
全てが間違っていく。肉体が無くなれば、すべての感受がなくなって、魂である心が成長できなくなってしまう。
そのために、肉体を持って活動できている今が大事となってくる。人生が大事な理由である。
その大事な人生を、間違った行為をして生きていれば、肉体の無くなった後、つまり魂の世界だけになれば、記憶する
肉体が無いために、魂の成長は無くなってしまう。
肉体の死んだときのままの魂、心の状態であるために、間違えたままの人生経験がそのままあの世となって、
あの世もまた、間違えたままの現象世界となってしまう。変わることは無い。
なぜなら、肉体が無いためで、刺激を感受することができないためである。つまり、記憶は作られない。
記憶をする脳が無くなってしまっているためである。あの世の肉体は、生前の記憶の現象である。
ただ記憶の現象肉体であるために、新たな記憶はできないのである。死後の世界の記憶が無いのはそのためである。
死んだときのままである。そのために、魂の成長は無い。輪廻するまで苦しいままである。
また、輪廻しても縁はそのまま続き、来世も苦しみから始まる。
例えて、自殺した人生は、生まれ変わってもまた自殺するような場面に遭う。その時、自殺を避ければ、
もうそういう運命とはならない。あくまでも、魂は超えられなければ超えられるまで同じような場面に出くわす羽目を持つ。

運命とは、命を運ぶと書いている。そのために、生まれた世界の命を、どの様に運んでいくかによって変わっていく。
つまり、運命は変えられるものである。運命が変わっていけば、当然宿した命、宿命も変わっていく。
魂が変化していけるのである。よく変わっていくことが進化という。世の中の時間は
常に、前進のみであるためである。このようにして、魂、心は、肉体に宿った時のみ変化向上できるのである。
あの世に逝ってからでは進化は望めない。時間は無い処であるから。

記憶というのは、肉体のある時にだけ作られる。だから、魂は幾多の生前の記憶は思い出せても、
死後の世界のことは思い出すことはできない。思い出すことができないためにわからない。どんなに、
悟りを開いても、死後の世界の事だけは解らない。そのために、生命の空白の間であるとして、
死後の世界を「空」と釈迦は言ったのである。
分からないことを想像で語ってしまうと、それが間違いであったとしても、それを証明することができない。
証明することができなければ、語ったことが間違っていても真実となってしまう。
だから、釈迦は、悟りを開いても死後の世界は知ることができなかったために、
死後の世界の質問には、一切答えなかったのである。



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無知というのはこわい

2019-11-16 | Weblog
般若心経の般若は、一般人を指している。
般若の般は一般の般であり、般若の若は、数を表す若干名の若である。
つまり、一般の人々ということを示している言葉である。
大衆の心の経典という意味である。
音写された文字ではない。音写されている文字としているために、「羯諦羯諦」が理解できず、ほとけの真言であるとしている。
仏に真言などというものは無い。人が言葉の意味が解らないために、真言であると言っているに過ぎない。

真言=真理を伝える、仏の言葉。呪文。と、ある辞書にあった。

真理を伝えるのに、わけのわからない文字は使わないものである。

仏が大衆に訓えを説くのに、難しい言葉を使うことは無い。なぜなら、難しくあっては、
衆生救済には向かないからである。子供に難しいことを言ってもわかない。それと同じである。
賢者は、難しいことを簡単にして教える。道理を知れば自ずと知れてくるものである。

得てして、般若心経の解釈が正しくされていないために、以来、
般若心経で誰一人悟りを開く者はいなくなっている。
ただの読誦のため、心の癒しにとどまっていて、本来の優れた効力が無くなっている。
どうか正しく解釈してくださることを願って、般若心経には「開経偈」という序文までつけてあるのに、
人は、仏が案じたように間違えて理解してしまった。
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意識の仕方(考えよう)

2019-11-16 | Weblog
宇宙はエネルギーである。
意識というエネルギーである。
その意識は自由から成っている。
意識がエネルギーであるために意図されてある。
0から9までの数字は、このエネルギーの自由を示していて、
解釈の仕方で矛盾となるが、自分というものを知ることに由って、
その答えは導かれていく。
正義は存在の自由である。
正義は善悪ではない。
存在の正しい意味。それが正義である。
エネルギーの自由は善悪は無く、そのために、絶対善となっている。
これがエネルギーの自由たる義である。
この自由たる義を知れるなら、他に師とするものは必要ない。
自然が全てを訓えてくれている。この自然の理を見て学び、学習していくことで、
これが知恵である。
なぜ自然というのか、なぜ自然は美しいのか、なぜ自分というのか、この義を理解するなら
自然と知れてくる。意識は自由である。隔たりはない。自分の思いがどこへでも行けるように、
何の障害もないではないか。不自由をつくるのは自分の意識である。
つまり、自分の意識次第が現象を生み出している。
とは言っても、思い通りにいかないのが人の意識である。
それは、宇宙のエネルギーが意識のエネルギーであり、それから生み出されているのが生命エネルギーであると
いうことに無知だからである。エネルギーの自由たる義は善悪は無い。このことに無知だからである。
単純に、宇宙の意識エネルギーは、善悪のない絶対善の自由エネルギーである。
そのために、人の生命の能力にある8っつの自然の正しい行為をしていけば、意識の自由がかなっていく。
誰でもできる行為であるが、誰でもできるものではないのが意識の自由であり、意志の弱さにある。
ただそれだけである。8っつの正しい行いも難しいものであっては広まってはいかない。
本来は、日常にある簡単な事柄の繰り返しである。
それが難しいとするのは、意識の仕方であることを多くは知らない。
「心を込めて何事も」、要である。
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円思考に矛盾は無い

2019-11-14 | Weblog
私達が意識の存在であることを覚れば、
死が何であるのかが悟れる。
死は肉体の消滅であり、意識の消滅ではない。
肉体という物質によって、精神という心を理解するのに必要不可欠なもの。
物質的肉体に限定があるために、意義を持つ。
その脆弱さに精神が養われる(鍛えられる)、向上という進化である。
意識は形あるものではない。物質的存在ではなく、精神的存在である。
あえて言えば光の玉のよう。
それぞれ意思があり明暗がある。こころざしがよければ白く明るく輝いている。
意識は無くなることは無い。意識に死は無い。永遠であるために、
ある意味、恐ろしくもあり、恐ろしさは無い。
この意味を知るなら、先生はもういらない。
この意識が現象世界を作っている。
巴は、二元論にして三つ巴である。
意識は、堂々巡りにして遊んでいる。
忘却という廻りに存在となっている。
だから、気付くことである。忘却という遊びに!
円周率は決して解かれることは無い。数字がそう示すのは、矛盾が無い円だからである。
存在に「無」がないためである。永遠だからである。

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