宇宙の法則は円運動であり、エネルギーの法則である。
是といい日の回りが正しいとか書いている。
円運動であるために始まりが終わりとなって、終わりが始まりとなって永遠に繋がっていくものとなっている。
そのためいつも同じことを繰り返している。
いつも通りが始まりいつも通りに終わる、そしてまた再びを繰り返すと言うように、
一つ一つが一旦として区切られて繋がっている。それは大小長短それぞれの対応となっている。
様々であり自由である。その自由をもって変化である。
その場に応じた対応の容として現れている。
進化であるのも退化であるのも立場によってあるもので、それは互いの立場での進化となっている。
渦巻いてという右左は左右となるもので、何ら変わらない意味合いである。
その思いをもって鑑みて、
人の生まれは、魂の向上のためと見るのも捉え方の一理に過ぎない。
それは、不測に生きるものであるために、対処の仕方では向上とはならず低下となるものであるから。
だから、一概に魂の向上の為だけに生まれがあるという事にはならない。
それは、無知にしてあるもので、それはまた、本能という質、清浄にあるのだが、
垢がついているようなもので曇りくすんで顕れないためである。
その垢という曇りは、死して一旦区切られた時(それがあの世という)に於いて、生前の記憶は現象となってしまうために、
一切消えてしまい、思い出せないものとなるためである。無知となるのである。
つまり、思い出すことができないというのが垢のような曇りということである。
ただ、一つ一つの各人生で作られた記憶(心積もり)は性質となっているために、
格付けが良い状態となっていれば、是を覚ることによって思い出されるものである。
その意味で、性質の格付けが良い状態、つまり、性格が良いものとなっていれば、
縁によって
魂の向上という理が起つのである。
この一理を安易に道理としてしまえば誤解が生じ、死んでリセットすることによって魂の向上になるものだから、
死なせてやることで救いを与えたとなって、悪なることも善行為として解釈となる。善悪顚倒ということになり、
あらゆることが悪の都合に合うことになる。
是に無知、これが悪を為すことの根源である。
是は法則であり、廻り行くものであり来るものである。‘かえってくる’自業の自得である。
だから、自業自得と真に知るなら、
悪を為すという事はなくなるものである。誰に諭されることも無く、自ずと自然に善行為になるのである。
それが、真の愛する者と言う。
真に愛する者とは、身口意に於いて悪を為さないということである。
なぜなら、愛する者が愛する者に為す行為を自らに為していることになるからである。
人は誰でも自分が愛しい。愛しい為に先ず自分をとしてしまうが、それは誤りである。
愛しければ愛しいほど先ず相手である。よく人はここのところを間違い浅ましく生きる。
私は愛する者だと言いながら、我先にと他人を押しのけ走る。
無知であるために、偽善で生きているものである。
是といい日の回りが正しいとか書いている。
円運動であるために始まりが終わりとなって、終わりが始まりとなって永遠に繋がっていくものとなっている。
そのためいつも同じことを繰り返している。
いつも通りが始まりいつも通りに終わる、そしてまた再びを繰り返すと言うように、
一つ一つが一旦として区切られて繋がっている。それは大小長短それぞれの対応となっている。
様々であり自由である。その自由をもって変化である。
その場に応じた対応の容として現れている。
進化であるのも退化であるのも立場によってあるもので、それは互いの立場での進化となっている。
渦巻いてという右左は左右となるもので、何ら変わらない意味合いである。
その思いをもって鑑みて、
人の生まれは、魂の向上のためと見るのも捉え方の一理に過ぎない。
それは、不測に生きるものであるために、対処の仕方では向上とはならず低下となるものであるから。
だから、一概に魂の向上の為だけに生まれがあるという事にはならない。
それは、無知にしてあるもので、それはまた、本能という質、清浄にあるのだが、
垢がついているようなもので曇りくすんで顕れないためである。
その垢という曇りは、死して一旦区切られた時(それがあの世という)に於いて、生前の記憶は現象となってしまうために、
一切消えてしまい、思い出せないものとなるためである。無知となるのである。
つまり、思い出すことができないというのが垢のような曇りということである。
ただ、一つ一つの各人生で作られた記憶(心積もり)は性質となっているために、
格付けが良い状態となっていれば、是を覚ることによって思い出されるものである。
その意味で、性質の格付けが良い状態、つまり、性格が良いものとなっていれば、
縁によって
魂の向上という理が起つのである。
この一理を安易に道理としてしまえば誤解が生じ、死んでリセットすることによって魂の向上になるものだから、
死なせてやることで救いを与えたとなって、悪なることも善行為として解釈となる。善悪顚倒ということになり、
あらゆることが悪の都合に合うことになる。
是に無知、これが悪を為すことの根源である。
是は法則であり、廻り行くものであり来るものである。‘かえってくる’自業の自得である。
だから、自業自得と真に知るなら、
悪を為すという事はなくなるものである。誰に諭されることも無く、自ずと自然に善行為になるのである。
それが、真の愛する者と言う。
真に愛する者とは、身口意に於いて悪を為さないということである。
なぜなら、愛する者が愛する者に為す行為を自らに為していることになるからである。
人は誰でも自分が愛しい。愛しい為に先ず自分をとしてしまうが、それは誤りである。
愛しければ愛しいほど先ず相手である。よく人はここのところを間違い浅ましく生きる。
私は愛する者だと言いながら、我先にと他人を押しのけ走る。
無知であるために、偽善で生きているものである。