つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

偽善で生きている

2013-12-31 | Weblog
宇宙の法則は円運動であり、エネルギーの法則である。
是といい日の回りが正しいとか書いている。
円運動であるために始まりが終わりとなって、終わりが始まりとなって永遠に繋がっていくものとなっている。
そのためいつも同じことを繰り返している。
いつも通りが始まりいつも通りに終わる、そしてまた再びを繰り返すと言うように、
一つ一つが一旦として区切られて繋がっている。それは大小長短それぞれの対応となっている。
様々であり自由である。その自由をもって変化である。
その場に応じた対応の容として現れている。
進化であるのも退化であるのも立場によってあるもので、それは互いの立場での進化となっている。
渦巻いてという右左は左右となるもので、何ら変わらない意味合いである。
その思いをもって鑑みて、
人の生まれは、魂の向上のためと見るのも捉え方の一理に過ぎない。
それは、不測に生きるものであるために、対処の仕方では向上とはならず低下となるものであるから。
だから、一概に魂の向上の為だけに生まれがあるという事にはならない。
それは、無知にしてあるもので、それはまた、本能という質、清浄にあるのだが、
垢がついているようなもので曇りくすんで顕れないためである。
その垢という曇りは、死して一旦区切られた時(それがあの世という)に於いて、生前の記憶は現象となってしまうために、
一切消えてしまい、思い出せないものとなるためである。無知となるのである。
つまり、思い出すことができないというのが垢のような曇りということである。
ただ、一つ一つの各人生で作られた記憶(心積もり)は性質となっているために、
格付けが良い状態となっていれば、是を覚ることによって思い出されるものである。
その意味で、性質の格付けが良い状態、つまり、性格が良いものとなっていれば、
縁によって
魂の向上という理が起つのである。
この一理を安易に道理としてしまえば誤解が生じ、死んでリセットすることによって魂の向上になるものだから、
死なせてやることで救いを与えたとなって、悪なることも善行為として解釈となる。善悪顚倒ということになり、
あらゆることが悪の都合に合うことになる。

是に無知、これが悪を為すことの根源である。
是は法則であり、廻り行くものであり来るものである。‘かえってくる’自業の自得である。
だから、自業自得と真に知るなら、
悪を為すという事はなくなるものである。誰に諭されることも無く、自ずと自然に善行為になるのである。
それが、真の愛する者と言う。

真に愛する者とは、身口意に於いて悪を為さないということである。
なぜなら、愛する者が愛する者に為す行為を自らに為していることになるからである。

人は誰でも自分が愛しい。愛しい為に先ず自分をとしてしまうが、それは誤りである。
愛しければ愛しいほど先ず相手である。よく人はここのところを間違い浅ましく生きる。
私は愛する者だと言いながら、我先にと他人を押しのけ走る。
無知であるために、偽善で生きているものである。

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時期尚早

2013-12-30 | Weblog
原子力を操ることの是非は否である。
未だその技術はなく、辻褄を合わせられない為である。
その段階で恩恵にあやかろうとしてもその理は無理である。
利して不利に陥る。それは、未来は不測の事態にあるために、
予測は外れるものとなっているからである。
微なるものを把握することなく、ただ損得にして道具として扱う見かたでは、
そのすべてを司るものの力の驚異は、ただ脅威となるだけである。

原子力の力は有利不利にして、過去においてまざまざと知り示され、
未だその不利益は降り注いでいるのだけれど、離れて人はその悲劇を薄れさす。
「喉元過ぎれば熱さ忘れる」というように、して、恩恵だけに目を奪われる。
刃物は諸刃の剣であるが、扱うものの意にあり始末をつけられるものであるために、
難無く利して扱う事が出来ていくが、微なる世界の原子の力は始末が付けられてはいない。
不測に遭い、ひとたび暴れだせば始末が付けられるものではない。
人の一生を覆ってしまう長い年月をもってして方が付けられるものである。また、
その方法しか知らないものであるために、広く恩恵に与ってはならない段階である。
時期尚早は為損じるという果にある。
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生きている目的

2013-12-30 | Weblog
学業に卒業という事があり、人生にも卒業という事がある。
でも、
学ぶという事に卒業はなく、生命にも卒業という事はない。
だから、一生涯勉強であり、それが無駄となることはない。
いつかという時の流れの中で必ず役に立ってくる。それは、経験という知識であるために、
智恵となっているためである。
生命というのは魂であり心である。エネルギーである。
それを気と言い想念である。
瞬間瞬間の思いは積もり積もって心積もりとなり、想念となり性質となっていく。
性質は格付けられて性格となる。性格の善し悪しは受想行識により作られ、それは、
外部から受けた刺激に対して、正しく対応したか、できたかに由ってくる。

法則には善悪はない。
ただ廻り行くものであり、廻りくるものであるために、
同じことを繰り返す。それが正しいとなっていく。
何度も何度も同じことを繰り返すことで当たり前となり善となっていくのである。
昨日今日明日とただ日は回り、毎日として同じ繰り返しとなって、絶対となり正しいものとなっている。
それがどうあれ一日として区切られ、一月として区切られ、一年として区切られていく。
周期となって、一旦戻るのである。そのために、浄化となっているもので円運動である。ゼロとなり、増えもしないし減りもしない
変わらぬ容、円となっているのである。
字の如く浄化であるために浄くならなければならないが、正しいとした浄化となっていなければ、
一旦戻ってもまたそれが繰り返される。

苦しいとする思いは正しい思いではない。
それが繰り返されるのであれば、苦しいと思うことが正しい思いであるとなって当たり前となって、
その当たり前に何ら疑問を持つものではなくなっていく。これが間違った浄化である。
一旦戻ってゼロとなっても、また同じことが繰り返されていくのである。間違った浄化が繰り返されていくだけである。
それが円運動であるために永遠となっていく。変わらない変化なのである。
ここに天国と地獄という事柄の分け隔てがあり、その隔たりは、生命が肉体をもって活動している時の行為によって分けられる。
それを業と言い、その業によって天国という世界と、地獄という世界とに分けられるのである。
生命というのは魂であり心である。エネルギーである。気と言い精である。
その心の現象の世界が、肉体を失った時、いわゆる死後の世界を作っている。想念の世界である。
肉体をもって活動していた時の業が心の表れであり、死後の世界を作っていくのである。
心の現象の世界は、夢の世界と同じで、この世のすべてがそのままある世界である。当然肉体もそのまま、
口で味わったことも、目で見た世界も、鼻で嗅いだ匂いも、体で触れたことも、心で思ったことも、何もかもそのままである。
だから、人は死んでも、心には老いも死も無い為に、あの世で生き、また輪廻していくものである。
あの世が天国であれ地獄であれ、それは自業自得である。
とにもかくにも、法則というものに無知であれば、円運動によって輪廻転生、繰り返していくだけである。
一旦肉体の消滅、死というもので区切られ、あの世で彷徨い、再び業の縁によって輪廻をするのである。
それもまた、ただ苦しみであると仏は訓える。
法則を覚り、輪廻から解脱することである。それが生命の完成であり、生きている時の目的である。
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知恵の輪

2013-12-29 | Weblog
ここにこうある存在は自由である。
自由をもってしてここにこうあり、あそこにはあーいうふうにある。
すべてが法則の自由でもって成っている。
だから、なぜそうなのかという理由は特にない。
自由をもってしてそういうものであるということである。
一つ、光というものを考えてみた時、
通常の計算が成り立たない仕組みで存在している。
ある一定のところまでは通常の計算で示されるが、それですべてが計れる存在ではない。
瞬時にというものを見た時に様々な疑問が示される。
その疑問は
通常のという計算では示されないもので、まったく別の観点から見て計らねばならない。
この世においては統一された過程が無く、時々に当てはまるというもので示されている。
それは、考えというものには対処しておらず、感、いわゆる勘という観である。
光は静、動に関わらず一定にして計られ、その意図は勘で計らねば観ずることができないものである。
通常計算では通らない微なる動きであり、精に通じるものである。そのために不思議となり司っている。
しかしながら、不可思議なものではなく、精をもってして計られるものとなっている。それこそ統一の理の論となる。
智の恵みである。
智の恵みは時を持たず間を持たず空虚である。虚空にあるために自由である。だから、何ものにも礙げられるものではない。
不確定の値はその時々をただ確定し得るものである。
それを、こうであり、あーであると定めることはできないものとして捉えて理解する。自由なんだと。
そのために、精をもってして当たり、精いっぱい思いが馳せれば確定して現れる。
神通力として表現するが知の恵みの輪である。

般若心経は智慧の経典とされているが、智恵を説いているわけではない。
無の文字がやたらに出てくるために文字の知識で否定の経典とされて、すべての有の否定となって知識となっている。そもそも、
無から有が生じることはない。それが道理である。
もともとそこには「ある」として生じているものであるが、私たちの目には見えていないために何も無いとして、
無いところから有るものが生まれてきたとする。
無から有が生じてきたと思ってしまうのである。
そこで心経は、「心無罣礙無罣礙」として、‘心は心経の文字にさまたげられるものではない’と説いている。つまり、心の自由であるとしている。
どう解釈するかは心の自由であるために、間違った解釈、いわゆる文字の知識だけで解釈してしまうと
無が‘無いのだからこだわるな’という解釈となり、何も考えずにただ一心に唱え祈れば仏に通じていき、その功徳が得られ恐怖も無くなっていくとしてしまう。
もともと無いものにこだわるために苦しむのだともっともらしく解釈してしまうのである。
そのあとに「故無有恐怖遠離一切顚倒無想」としている。
これは、無の解釈を顚倒して思い、心の都合のよいように解釈することであると説いているものである。

心経は、無を‘無くなるものではない’ことと理解して、知識ではなく知恵の目で見て道理を判断することであると訓えている。
心の自由であることを知り、知識ではなく知恵で判断していくこととしているものである。
それ故に、心の問題であり、心の経典とされているものである。
智恵は道理が教えてくれるものであり、それは経験である。それを、こう捉えるのだよと訓えているのが心経である。
くれぐれも文字の知識に惑わされぬよう、正しく解釈していくことである。
誰しも、繰り返し繰り返し廻りくる日々を経験しているではないか。
‘♪終わりなき世のめでたさに・・’いう元旦の歌にあるようにこれが道理である。法則である。万物の。
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自然の猛威

2013-12-28 | Weblog
新聞の片隅に
百年後の日本を予測しなさいという広告があった。

残念であり無念であるが、百年後の日本、というより地上の
変化は著しく、
地球上の景色は一変していると思われる。
それは、
無残にも荒れ果てた文明の残骸が広がり、荒涼たる風景となっているようだ。
良いも悪いも無く、運命共同体としての絶滅のようである。
今にして、
この文明
科学水準を思えば、到底ありえないことと思われがちだが、
自然の力は比類無きものであり、人知を超えて示されるものである。
瞬く間に、一夜にして一変という事は案に可能である。

これまでに作られたものは無駄に処するが、その叡智は無くなることが無く無駄になることは無い。
知性である。それは、宇宙の時を数えて再びを得るものであるが、再びの間はゼロとなっているために、
遙か彼方としてあっても、同時として捉えることができる。

悠久の時を経て地球というものは存在し、人類の計る時など秒にも満たないほどである。
その悠久の時の流れは有るでもなし無いでもなしであるが、
人の計る中でも変化は絶え間ないものであると知る。
それはただ単に、変化によって生み出された産物が、自然の変化に正しく対応できていたかに由来してくる。
案にその精が、自然に適わない破壊のみにあるものであるなら、あるいは、破壊のみにあるものとしてなるなら、
淘汰となって消えてしまう運命にある。
そうして、悠久の時を越えて、繰り返し繰り返し地球に合うものだけが永遠となり、地球としてのエネルギーとなっている。
自由である為にこの法則の性質、浄化によって洗われるのである。
もともと綺麗なものとしてあるなら、垢だけが取り払われて長く久しく存在する。
地球と共にである。
どうあれ、洗濯機の水流にもまれる如く、ゴロンゴロンと転がされかき回されて、
清浄なる純という精になるものである。
変化は、あらゆるものの浄化にある。
浄化されたものは変化はない。変わらぬものとして存在する。
どれほどの渦にあれども、何ら影響を受けることなく、静かにとどまってあるものとなるのである。

地球上のあちこちで見れば、何ら昔と変わらずにきな臭いことが絶え間ない。
戦いに明け暮れるものである。互いに真っ当正当な理由が付けられていてらちが明けることが無い。
いつしか
暴力で経た事の悲しみは、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、きな臭さはたちまちに火を熾し、
知性を抑えて再びが繰り返される。野蛮という正統?を汲んで、ただ滅びる道を歩むのである。
日本も今、きな臭くはないか?
さて、客観的に見てと正当に物事を判断しようとしても、
そう思うことが主観であるために、
客観視することはできないものである。
どちらも我々が正当であると謳い争う。

自然だけが正しく判断するものである。客観であるためである。
自然の驚異は今に始まったことではなく、浄化にあるためである。
ただ垢が付いたものが地上に増え蔓延してくれば、道理に沿い
自然は猛威をふるいだすのである。極まって、過去に存在していた者として、
知性に記されるのである。
生命エネルギーの進化の一つ、とても重要な刻みではあるが・・。

百年後、いや、百年に満たない内地上は運命共同体として、悪のエネルギー蔓延のため浄化されるのである。
して、荒涼たる風景を経て、再び緑豊かな澄んだ青空の景色となり、生命は誕生するのである。
百年後、それは人の時の計りであり、それはまたすぐ様でもある。自然においては「直」ゼロである。
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権勢にあるもの

2013-12-27 | Weblog
民が幸せにとして働くものであるなら、
自分が清貧でなければならない。
自分が煌びやかで他に清貧をうたっても、それは嘘。
そのことを知って周りを見れば、
なんと嘘の多いことかと知れる。
だから、
世は廃れるばかりのものであるために、
未来は崩壊。
野蛮なものとして過去があり懺悔があるも、
野蛮にただ向かう。どんな理屈があっても過つ未来。
喰うか食われるか動物の域を出ない
火宅に住むものである。
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人生捨てたものじゃない

2013-12-26 | Weblog
人生は
また、
短い。
人生は
また、
長い。
無知にして過ごす幼少年の頃を過ぎ、
がむしゃらに過ごす青年期を経て、
疑問と屈辱と、
入り乱れ相俟って壮年の頃、
情けに耳を傾ける。
仏に出合う。
それは何かと自問自答。
瞬く間、足早に時は過ぎゆく。
長くも短く、感謝と焦りと交じり合いながら、
人生未だ捨てがたい。明日は知れずと知りながらも
十までの数字の羅列の文様。有難い有難いと様を敬う。
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信心

2013-12-24 | Weblog
聖夜である。
凛として澄み切った冬の夜空、
流れ星一つ瞬く。
星夜にあり静夜。
神を見るようである。
淡々と更けていく。
別に何もなく。
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律する

2013-12-23 | Weblog
世の法則は自然である。
万物に通ずる。

人の世の決め事は法を律することにあり、
それぞれの社会での各決め事として人の作った規準、法律である。
それは、‘不完全な’とする人のつくるものであるために、
自然の法則には程遠く、不条理なものでもある。

人の世の法律に合い、合法にしてその権力を有して活動する者達、
主に、人の褌で相撲を取る者と言い、
善人振る者、偽善者に当てはまる。
公務に属し、金融に属す。
最もなことを言いながら、公私混同になる。
人の世の最たる悪とも言い得る者である。
賢いをいいことにズルが付く。合法にして不条理に動く。

法則の絶対世界に赴いたとき、分け隔てなくきっちり方を付けられる。
そこに不条理という事は無い。

権力にあるものほど、世の法則を知らなければ怖い目に遭う。


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是を見てもの思う

2013-12-22 | Weblog
性交は類いまれな快楽である。
本能の侭にあり、それは切なるもので愛しみの行為である。絶対善となっている。
法則の行為であり浄化の行為であるために、「汝の隣人を愛せよ」と、愛の行為が天国をつくるための行為であることを説いた。
それ故、節度なく誰かれなく快楽のみに溺れては何一つ得られるものは無く、
倫を排するものである。
長く久しくその反動の苦を味わい、輪廻から離れられないものとなる。
ただただ苦しみと刹那的快楽の織なしである。

この人としての行為こそ排除して縁を滅し、動物としての下等から離れられる。
愛する者を作ってはならないという真の愛する者となるために。

子があれば子で悩み、親あれば親で悩む。
愛しいものがあれば愛しいもので苦となり、
無ければ無いでまた悩むが、それは、是に無知であるため。

是に善も悪も無く、だから、絶対善となっているもので、
それが、ゼロ〇に帰すものである。何ものにも侵されることのない清浄である。
〇に何を掛けても〇となるように。

この世は足し算と引き算、どちらも積もり積もっていく。
0に一足してプラス一、二足してプラス二、一引いてマイナス一、二引いてマイナス二と、
善い行いは+となって上に積まれ、悪い行いは-となって下積みとなる。
あの世に逝って、掛けられ割られて清浄となる。
天と地の差に分かれて。

人の科学は未だ、
宇宙に果てがあるのか無いのかわからない。
かたちがあるのかないのかわからない。

是を見て円となり、有限でありながらまったりとして無限となって閉じられている。
それは、右に巻いて縮み、締り、閉まり、左に巻いて伸び、緩み、広がり、
翻って逆になり、どちらでもあるものとなっている。相反してゼロという有である。

私がいて認識するも、私がいなければ認識できない。
私がいて‘ある’とするも、私がいなくて‘ない’となる。
そこに物があっても無くても、私は関われないが、私には関わる。
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