終わりなき世である。
明日というのは絶対である。
それは、
私がいるとかいないとかに関わることなくである。
永遠となっているものであるのは、
宇宙が円運動の法則となっているためである。
諸々に於いて通じているものである。
例外というのはない。
そのために、
自分という生命も永遠である。
ただ、一日に始まりと終わりがあるように、そして、
それが繰り返しとして繋がっている様に、
同じ一日でありながら違う一日であるように、
自分という生命も同様である。
諸々が円運動の法則となっているものである。
その円運動によって存在している諸々であるために、
諸々が変化の中にありながら、永遠なる存在となっているものである。
各々の諸々は、各々の性質(周期)にあり、長短となっているが、
大小にして同じ長さとなっているもので、平等である。
偏りというのはない。
短命も長命も、寿命にして同じ長さ、平等なのである。
違いを感じるのは、
すべて、外部より受ける刺激に対して、どのように対応したか、できたかによってである。
しかしながら、あらゆる理は、各々に対して平等である。
大小も長短も無いものである。
結局のところは、すべて同等なのである。
そのなかでの、各々の感じ方なのである。
各々の刺激に対しての、‘対応の仕方によっての違い’というものである。
おそらく万人いて、何人が知る者であるのか?
水晶、或は、ダイヤ、或は金、銀、他希少な物があるように、
極めて少数である。
だから、価値があり、力があるものである。
そして、それらも
垢がつき曇ってあるものである。