つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自由という暗号

2015-11-30 | Weblog
進化途上というのは
何れにもあるもので、それぞれの段階にして遭遇して、
優劣というものである。
人類というものからすれば、地球外から訪れる異星人は、
神のような力を持つが、神の中の神というものがいるもので、
はたまた、全く次元を異にして、太刀打ちさえ無にしてしまう
自由を操る自由がある。
神の中の神さへも、一段階の様に過ぎないものである。
上には上がいるが、自由はただ無上なものにある。
生命はその自由から生まれている。
自由を克ちとるために、自由から生まれている。
だから、この上ないものである。
すべてを彷彿しているものである。

一つ一つ、ところどころを用いて、
支離滅裂と組み上げて、自由な知恵をもってつなぎ合わせれば、
なるほどを得るものである。

まるでこの世の人生のように、
一筋縄ではいかぬ様である。
自由というものは。
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あれこれ

2015-11-28 | Weblog
経済的に豊かな人ほど吝嗇にあるもので、
もっともっとと抱きかかえて離さないものだ。
お金は人の心まで変えてしまうというのは大方本当である。
俗世、人の心というものは利己的にあるもので、だから、厭世的になる気持ちもわかる。
善人にはこの世は住み辛く、悪人には住みやすいものだと仏は言う。
しかしながら、
人の心、魂というものは、この世とあの世を行き来するもので、
今ある自分というものも、幾多にわたって輪廻してきた魂である。
魂というものは、死を持たないものである為に、この世での生き方によって、
あの世が現象していくものである。
魂はエネルギーである。そのために、あの世が生命の本来の世界である。
あの世はエネルギーの法則の絶対世界である。
そのため、曖昧というのは無い。どちらか一方という世界である。
正か負か、善か悪か、上か下か、右か左か、後ろか前かなどなど、相対するものが一つの中に含まれてなく、
全く別にして対立しているものである。
この世の中は、相対するものが同等にしてあるもので、また、その比率、割合がどちらかに傾きはすれども、
全く持って無垢にしてあるということはない。
だから、善人にも悪なるものがあり、悪人にも善なるものがあるのである。
善人にも悪いことが起こり、悪人にも好いことが起こったりするが、それは、道程にしてあり、
果は因果応報にあるもので、必然である。善人には善いことに、悪人には悪いことに辿り着くものとなっている。
道理であるためである。道理は絶対であり法であるためである。それが、みずからしかあり、自ら然り、自然という。
曖昧は無い。だから、死んでからでは救われることはない。地獄に仏というのは無いものである。

人は無知(エネルギーの法則に無知)によって誤りを犯し、そのために苦しみを受ける。
無知というのは、生命が一回限りであり、死んだら何もかも終わり、無になるという思いである。
法はエネルギーの法則である。円運動である。そのために無くなることが無いものとなって、
永遠に繋がっていくものとなっている。このことを知らないために、人生一度限りとして誤った生き方をする。
魂は生命である。生命エネルギーである。生命エネルギーは、エネルギーの法則によって永遠である。
だから、なんどもなんども生まれ変わる。一度限りとするのは肉体であり、魂は連綿なのである。
そのために、前世、或は何世代にもわたって為した生命エネルギーの行為が宿命となって、その環境にあった誕生となっている。
魂が知らなければならないための環境が作られているのである。報いとか報われるとかは、魂の過去に為した行為の清算である。
だから、人生、悪事をなしてはいけないと先人たちは挙っていうのである。訓え諭しているのである。

法は浄化のエネルギーとなっているために、法に沿っていなければ法との摩擦となって、その
摩擦は苦として感じ享ける。それが永遠に繋がっていくものである為に救われていくということはないが、
感じ受けるエネルギーも法のエネルギーである為に、法に沿うまで幾度となくその廻る変化に対応するものとなっている。
その変化が輪廻である。幾度となく生まれ変わるのである。
それをあえて言うなら、地獄に仏という事に当てはまる。生まれ変わること、つまり
この世に現れてくることは一切皆苦なのである。しかしながら、そこに一つの憐れみが掛けられている。
生きとし生けるものが幸せであるようにという慈しみである。慈悲の慈である。それがエネルギーの本性である浄化であるための性である。
それに沿うことがエネルギーの法則から生じている生命エネルギーの目的である。
だから、生まれ変わってエネルギーの法則を覚り、正しい浄化の行為としていって初めて
法則そのものの正しい浄化のエネルギーとなるために、輪廻からの解脱となる。摩擦となることが無く、
円滑な流れとなるために、苦を感じることが無く、永遠に変わることのないエネルギーとなって行く。
それが自由気ままなエネルギーとなっているために、極楽というエネルギーとなるのである。
涅槃寂静であり、起伏が無い為に、あるともないとも言えない動きとなって存在となっている。
無上なエネルギーなのである。
たとえて、
わかりやすく、
光速で真円となって動いているエネルギーは、
静止している様ともいえる。
そこに触れた時、それは何ものにも影響を与えることなく取り込み、
しかしながな、何ものをも変えてしまうというエネルギーである。
法則の力は何者も変えることはできない。

自らが気づいて改めなければならないというものとなっている。
それが、自由という。
法は自由で成り立っているからである。
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束縛

2015-11-26 | Weblog
街に出れば物があふれている。
どの店にも所狭しと商品が並ぶ。
お金さえあれば何でも買える?今の日本。
欲望が刺激され、あれも欲しいこれも欲しいと、
物に執着、でも、結局のところ
求不得苦となる。

お金に支配された社会構造。
物があふれている社会は自然ではない。
不自然というのは永続しないものである。


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理非曲直

2015-11-24 | Weblog
吝嗇なるものといるのは苦痛である。
往々にして狡猾なものであるために、
一緒にいるのは苦痛である。

「乏しき中からでも自ら与えよ」
「分かち合うことによって物惜しみにうち勝て」と仏は訓え諭す。

老いて尚、分かち合うことをせず、物惜しみするものは軽蔑に値するもの。
ただ恥ずかしい限りである。年を取るという事はどういうことであろうか?
恥をかくのは若いうちにしておけ!

「愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。
愚人と共に住むのは、常につらいことである。ーー-仇敵とともに住むように。」
「心ある人と共に住むのは楽しい。ーーー親族に出会うように。」ー仏はそう訓え諭す。
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独り歩め

2015-11-23 | Weblog
人に善人もいれば悪人もいる。
他の生きものにしても同じである。
同種でありながらも、個々にして気の荒いもと温厚なものがいるのである。
時を経て、年老いてくれば血の気の多かったものでも温和な風貌となってくるものだ。
それは、それなり道理に適っていて、知れば知るほどいかんともしがたいものを知り、
謙虚にして平安を知るからである。経験、それは時を経てして与えられる識の恵を
上手に捉えたからである。経験を活かせないものに知恵は生まれない。
上手く活かせないものには悪智恵が働いて、何とも疎まれるものになる。
世の界というのは、繋がりを持っている。
単独であるのではない。
知識ばかりで智慧を持てなければ、
独りよがり甚だしくなり、身勝手に振る舞う。
知的という中にも、ただ一点張りに知識ばかりをため込むものがいて、
智恵の働かないものがいる。智恵を上手に使えないものがいるのである。
それは、多くに迷惑をかけてしまい、はたまた、それが自分に返ってくることも知らない。

道理を知らないという事は、道徳に欠けるのである。
道徳が平安をもたらすことを机上の論理でしか知らない。
そういうものといることは、ただ苦しみである。
それなら、
独り歩め、サイの角のように、と。
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修行の場=この世

2015-11-22 | Weblog
ミクロな世界とマクロな世界は一種違いがあるが、
影響しあって存在である。
一長一短が補われる時というものは心にあり、
心の如何で現象の有無が生じる。ただ偏に心の進化にあり、
そこには無限の可能性が秘められている。
宇宙のエネルギーが無限に生じているように、心も無限に進化をすることができるのである。
エネルギーは循環型エネルギーであり、環状体状になっている。
有限にして無限な繋がりとなっているもので、一方では無限に拡大していき、一方では無限に縮小していく
という繋がりである。両々相俟って故に、進化となっている。
これがエネルギーの自由という性質である。つまり、プラスとマイナスで打ち消し合ってゼロという容。
ゼロという容である為に、プラスとしての存在となっている。それは、エネルギーの法則に
善悪は無いもであるのと同じで、だから、絶対善となっている様と同じである、というものである。
この意味にして無知であれば、
これが善悪顚倒となってしまい、善が悪であり、悪が善となって絶対悪という動きとなる。これも浄化という動きであるが、
間違った浄化という動きである。
浄化というのは、浄く化けると書いているが、まさに、一旦ゼロとなるための‘化’、浄化なのである。それは、
エネルギーの法則に善悪は無く、故に、絶対善の動きとなっているために、悪事を改めていき、ゼロに帰しての‘浄化’で、正しい浄化なのである。
法は、元に戻るという円運動であるためのゼロに帰し、そしてまた、始まっていくという進化にある。

相対性であるのも、両々相俟っての意味合いから来るもので、同等にして一つを形成しているものである。
それは、
男と女がいるように、互いに辿る完成形は同じにして違いを持ち、さて、引き合って一つの完全完成形を為す。
常に引き合いはすれども、機会をもって(得て)完全完成形を為すのである。共存にしての共栄である。
一対というエネルギー体である。
人という字、互いに支え合って為している。存在の意義である。もし、支え合うことなく
単独であるものとすれば、‘人でなし’となり、存在の意義を失う。つまり、
獣の如く出遭ったら最後命の奪い合い、生き延びるためだけの争いとなる。
そこに情というものは無い。

人というのは、知能豊かにして、高等な生命エネルギー体である。
情けあるもので、感情にして喜怒哀楽を知るものである。故にまた、
畜生の心にもなり、餓鬼の心にもなり、修羅の心にもなり、地獄にもなり、天上にも為り得る人間という心持ちである。
エネルギーの法則は絶対善の動きである。だから、それが正しい浄化としての人生である。
円運動である為に無くなることなく繋がっていく。それ故、縁となっていくために、
人の一生、法に沿って、無知によって為した悪事を改めていく行為にして、悪事の縁を絶つものである。それが浄化の行為であり、
善に縁を結んでいくのである。悪事には悪いことが、善い事にはよい事が現れてくる、これが道理である。道理は絶対である。
そのために、正しい浄化の行為とすることが人生なのである。それが、魂=人としての心=生命エネルギーの目的である。
生じてくる意味である。
生命エネルギーは微にして巨視的な肉体を形作り、その肉体を介して
生命活動を為しエネルギー(魂)をみがく。その行為の経験が記憶となって心を形成していく。
それはまた人格の形成となっていく。だから、正しい経験をもって正しい記憶としていかなければならない。
それ故に、
この世は、魂の修行の場なのである。
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エネルギーありき

2015-11-21 | Weblog
自然=是=法則=エネルギー。

エネルギー=「活気、精力、物理学的な仕事に換算し得る諸量の総称。
物体が持っている仕事をする能力の量」とある辞書に記されていた。

このエネルギーが、自由という円運動となって、諸々を作り上げている。由って、諸々の法則であるとして、
すべてがこの法則の下の存在となっている。つまり、宇宙全体がこの法則によってつくられているものであるとして、「是諸法」と説き訓えているのが般若心経である。
是がすべての法則となっていることで、絶対法則となって、決して変わることのないものとなっている。
この自由が宇宙となって、増えもしないし減りもしない世界としている。

エネルギーは円運動の自由である。そのために、私達から見て、太陽の回る動きが絶対であり正しいとして是として、
是が宇宙の法則となっているとしている。その太陽の回る動きという一事が、宇宙の万事となっていると示しているのである。
この是がエネルギーの法則であるとして、このエネルギーの法則によって諸々が作られているために、すべてがこの法則の下の存在となっているとしている。
円運動である為に無くなることのないものとなって、永遠となって繋がっていくとしている。その円運動による廻るための変化
によって様々が生じては滅しているのである。
円運動は、始まりから始まりへ戻るものである為に、生じては滅してという無常を繰り返していく。
故に、エネルギーの回る変化によって、対応したエネルギーが生じては滅していくという無常となっている。
このことが常住となっている。つまり、変化の無いものという不増不減となっているものである。

生命もエネルギーである。回る変化にそれぞれが対応したエネルギーの姿形である。
ゆえに、姿形は無常であるが、生命エネルギーそのものは無くなることのないものとなって、
永遠に繋がっていくものとなっている。円運動であるためである。
それがエネルギーの自由という性質である。
エネルギーが宇宙の存在の法則となっていて、唯一の法則となっているとしているのは、
全ての事柄が法則の下の存在となっているためで、この法則を外れては、つまり、超えてしまうという事が無い為である。
たとえて、
法則から外れてしまう、つまり、超えてしまうという事があれば、存在とならないためである。
法則の世界は絶対である。すべて絶対世界となっている。だから、法則を超えてしまうということはあり得ないのだが、
分かりやすく訓えるために、たとえて、超えてしまったらとして訓えられているものである。
だから、この世の中にも、超とする物事は無く、私たちが超としていることは、自然の中では本来あるべき物事なのである。
ただ、稀なることとしてめったに合わないための珍事だからである。ただ、科学が発達して、過去にできなかったことが
今はできるという事のように、珍事を珍事でなくしていくことができるのである。昔、超としていた現象がそうではなくなる
普通のこととしてあるのは、ただ、私たちが自然というものを知らないでいるためである。
自然は、全てがあり、全てがないという現象を持っているもので、
それは、エネルギーの自由だからである。
このエネルギーの世界の外側は、無であり、それは、エネルギーにして考えることのできない事なのである。

考えることのできないことは、考えても仕方がないことである。
不可思議なのである。
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狡猾な・・

2015-11-19 | Weblog
食べてはならないもの。
加工油脂(マーガリン、ショートニング、ファットスプレット等)、これらは安価で、口当たりがよい為に、
加工食品にはとても重宝となる。安価でおいしい食品ができるために、商売になるもので、商売の為の操作である。
それから、
遺伝子組み換え食品、これは一代交配種などもそうである。
種のできない植物をつくり、常に種を作る会社の商売となるように企画されたもので、これもまた、
商売の為の操作である。農薬や化学肥料、雑草除去剤など、皆そうである。

人間の利己的のみ‘便利’に作られしものというのには、弊害が付きまとうのである。

狡猾にして、
健康にどのような弊害があるものなのか知り得ていながら、ぎりぎり発症しない時間での
実験データーを公表する。あるいは、一つ一つの食品に対しての危険度は基準値内としても、
様々な食品を摂取するものであるために、基準値を上回って体内に取り込むこととなる。
人工的なものは自然的というものでは無い為に、自然によってつくられている人体には、
なかなか素早く処理することができない。で、体内残留が多くなる。
なかなか処理できないものが蓄積していくこととなる。
そのために、細胞の過剰刺激となって異常な事態となってくる。細胞の
突然変異が起こるのである。
硬化現象が起こる。それは、柔軟性に欠けて、当然ながら弾力性も失われていく。
細胞の癌化、梗塞が起こるのである。体内のあらゆる個所に繋げることのできる血管に
異常をもたらすのである。そうして、近年多くみられる三大疾病が発症してくる。
もちろん、心の病から、痴呆症まで関わる。

これはまた、ある一部の意図されたもの、世界人口過剰における統率できる範囲の企みとも見える。
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ある決められた中での自由の不自由の自由、誘導

2015-11-18 | Weblog
選択して生きているものである。
前後、上下、左右とどちらを選ぶかは自由である。
そして、その自由において選択は自己責任と認められる。

自然は自由であるものの、常に進化という一方のみである。
確かに、自由にしての一方である方向性であるために、退化はない。
そこに選択としての計らいは無い。

自由は不自由にして自由であると知るものである。

ある決められた中での、自由の不自由の自由な選択は、
自己責任という強制にとどめられる。


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精げて生きる

2015-11-16 | Weblog
二人に一人が癌になる時代という。そして、
三人に一人は癌でなくなるといわれている時代である。
案の定、私も癌に侵された。すぐ死ぬ人と、とりあえず助かり生きる人といるのだが、
とりあえず助かる方に傾いて、今まだ生きている。
流行り病のように、時に流されて流行りを追い生きるのも、
追っていいものといけないものがあるが、追いたくなくても追う流れに流される。
人というもの無知にして、事由に不自由とし時勇に自由にされる。
時代に意図された病である。そのとき、
智慧を持って不事由として、自由に不自由を打ち砕け。
一念岩をも通すであるが、
意図して、意図されたものとし、とりあえずを精一杯に生きる。
知るべきとしての想像のかけらを拾って・・・。
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