つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

人の世

2012-12-31 | Weblog
人の世に記念日がある。
何かの始まりとか、締めくくりとか、
と特別としてその時を忘れぬよう
心を凛とさせ律するのである。
戒めを敬うのである。
その時間は、一日という区切りをもってあたる。
だから、仕事はしない。
仕事をしないというのは、金銭の伴わない事である。
営利的活動の伴わない、すべてが献身によってまかなわれるもので行われるということである。
互いがすべてにおいて献でなければならない。
物品も行動も奉仕である。
裕福なものほどその役割は大きく、だからとて、見返りが大きいということは無い。
当たり前のことであるために皆と同等である。
愛の平等を背負うのである。して、人として君臨する。

その区切りを祝う日に、
何もかも忘れ、なぜあるのかを省みることなく普通に仕事をするなら、
愛の無い時代に生きる人となっていく。
楽しみも喜びも無い、畜生のごとき世界、ただ生きていくためにだけ争う世界に。
区切りの持たない世界に。

優しくなりたい、強くなりたいと叫ぶのであれば、捨て身で生きていかなければならない。
すれば、愛の無い時代に生きたとは思わない。
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終わりなき世のめでたさを・・・

2012-12-30 | Weblog
♪年の初めのためしとて終わりなき世のめでたさを・・・♪このように謳われるように、
確かに世に終わりは無い。
一日が終わりまた一日が始まるように、
昨日が今日につながり今日が明日につながるように、
一つ一つが区切られて新たに繋がっていく。
終わりは始まりでもあり、始まりは常に終わりに繋がっている。
無くなるということが無い。
無くならないという無いである。
これが世の理である。して、人もまた同じである。

昨日が今日になるわけではなく、今日が明日になるわけではない。
昨日は昨日のあり方を示し、今日は今日のあり方を示す。明日は明日のあり方である。
昨日が今日になり、明日になっていくというのではない。
一という数はどこまでも一であり続け、二となり三となっていくのではないように、
それぞれのあり方を妨げるものではない。
一は一であり二は二である。区切られて繋がっているだけである。
新たに新たにと絶えずに。
文字もそうである。互いの文字を妨げることが無いために文章となって意味が伝わる。

互いを妨げることなく繋がっているのである。

私は私として一生涯を終え、新たに繋がって生じてくるのである。
一つの区切りがある程度続き終えるとき、人は厳粛になる。
その区切りが少しでも長ければ長いほど、終焉に近づくほどに厳粛を思い愛しい。
少しの時間よりも一日が、一日よりも一週間が、一週間よりも一月が、一月よりも一年が、一年よりも十年が、
十年よりも一生が・・・と区切りが長くなるほど愛しくなる。
その区切りがあるために感動がある。
古きもの変わり行くものに愛着を示して幸せを思い、新たなるものに希望を抱く。
飽くなきことに喜びを思うのである。本能として。
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もれたタメ息

2012-12-30 | Weblog
日本人の人口は少しずつ減っているようだ。一億三千万弱の単民族。
出歩くのも億劫になる年寄りが多い島国である。
なのに、どこに行っても人混みである。それこそ盆やら年末年始ともなれば、家にいても掃除だの片付けだのと人がいる。店や神社仏閣、故郷、
そこまで行く過程においても大混雑である。都市部も田舎も人、人、人。
それでいて、人口減、若者減、はてな、はて?はて?
景気はずいぶん長い間悪く、みんな低迷低迷と報道される。
いつの世も、このままいけば大変な事になる、日本崩壊、沈没だと言われ続けてきた。
もうすでに大変な事になっているし、これからますます大変になっていくはずである。
それこそ、崩壊は免れないであろう思う。友愛と言う心がしっかり持たないかぎり。
確かに、若者には仕事が無く、いや、若者に限らず年配者にも仕事は無い。全体的に少ない雇用である。
3Kといわれる人の嫌がる仕事はそこそこあるのだろうが、人を道具として見ているために、だから、なかなか難しいのだろう。
また、賃金はその割にはよくなく、働けど働けど楽にならずに、体と心が壊れていくだけとなっている。
生活保護者は過去最高。だけども、見るところ車はよい車が走り、食事処は長蛇の列。
高くても良いものうまいものには金を出す。金が無いのに金を出す。なんだこりゃ?はて?はて?はて?とこの国の不思議を思う。
借金大国である。貯蓄も多いようなのだが、周りを見ても苦しい人ばかりで、「俺は金はある」という人は聞いたことが無い。
ま、あってもあるとは言わないのだろうけれども、どこに誰がそんなに金を持っているのだろうと、そう思う。
嘘つきが多いのか?そうはおもわないがなぁ?不思議な国だ。ほんとに。

一部のずる賢い人達は金儲けに長けていて、富裕族として、低迷にあえぎながら懸命に働く人達を見下げて、
悔しかったら偉くなれとほざく。はて?偉くなれということはどういうことだろう。
偉くなるということはどういうことだろう。人を見下げられることが偉くなることか?
でも、現実はそんな人が多い。政治家にしろ経済界実業家にしろ、自分の懐は満タンにしておいて更に欲しがり、
第一に自身の安泰を確保しておき、安全な立場からあーでもない、こーでもないとずる賢くほざく、世のため人の為と。

人の為とする人は、する人ほど身は質素でその義をあらわすものだ。だから、
他が敬って見るに見かねて支え、同等以上の姿となるも、同等に混じる。
友愛を人一倍重んじるために、同等に混じっていてもひときわ輝いていて、瞬時見分けられるものである。
それが、あえて飾りで区別しなくても、自然と識別されるほど優れるということである。競い優れるというものではない。
人の格である。優れるという素質である。

人の為人の為とほざいて、その身ばかりが肥えていく人ばかりだから、偽りという。
それが俗世の人の為としての‘ずる’がつく賢い方便。そんなものだから、
人の為と書いて偽りと読むではないか。
だから、嘘も方便としている人ほど懐が醜く肥えていく。
いつか死んで必然、その代償を払わねばならないものを、
この世限りという間違った見解を持っているために、なせるわざだろう。
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あきらめが肝心

2012-12-29 | Weblog
煩悩多き者故に、生涯短く思う。
あれもこれもと覚えることままならずに、日常の繰り返しをただ無駄に先ずこなす。
そうして生きているという自覚だけで過ぎていく。
‘過ぎたるは及ばざるが如し’と省みる。ただ、‘及ばざるは過ぎたるより勝れり’と言われることに気が付いて
一生涯を終えるも分相応と諦めた。
この明らめられた事が、我が生涯の掛け替えの無い利である。
そのために、いずれまた人として生まれるであろう事を認めて、哀しくもあり嬉しくもありと
彼の世に望み臨む。
それは、生じることは一切皆苦であるために、
その苦を受けてのみ安楽が得られるためである。それが、人の使命である。
一生涯、
その使命に卓越して法則を覚り終えるなら、最後の身となることを知るものである。
飲食のいらない身となり、生じることの無い身となって、絶対と言う永遠に変わらない幸せを得られる。
人としての縁が完全に絶たれた生命である。
如来と言う生命である。全知全能、法則そのものと言う生命である。

諦めという言葉を智慧の目で見れば、言葉という言の字に、帝王という最高最上を意味する帝の字をつけて、
言葉の最高であることを意味する文字であることを知る。明らめる、明らかに見るということである。
途中で投げ出してしまう言葉として使われてしまっているが、そうではない。明らめろ、知りなさいということを示しているのである。
智慧の目で物事を見れば知れてくるものである。正しいという義、言葉の意味が正しく見えてくる。
その目で、仏の説いた訓えを読めば、無がないではないことがわかってくる。否定の言葉ではなく肯定の言葉であることを知る。
この世に「是が非でも」ということは有り得ないことが分かる。
人の一生、あきらめて生きる。諦めが肝心。
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がまんする

2012-12-28 | Weblog
裕福なものほどケチが多い。
損得勘定に過敏で、儲けることにはよく策略立てる。
損をして得を取れなどと、一見身を挺しているように見せて、
下心ありありで、損をすることには手を出さない。

人が幸せになる方法は一つ、友愛である。
献身と言う心でかなうのだが、単純にしてあまりに難しい。
我の慢というものがいつも支配してくるためである。
敵は我にありとして、
我が心をよく制御し調えるその苦痛から幸せの目はではじめてくる。
我慢という献身的看護によって心は養われる。
幸せが育つ。
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転換期

2012-12-27 | Weblog
加速して過ぎ去るような気がする今日この頃の時の流れ。
めまぐるしく変わる様々な事柄。
転換の中にある時、混沌として崩壊に向かう。
あったものがあるものに変わっていく時期には、どんなことをしても
存続していかない。
昨日が今日に入れ替わるように、知らず知らずに入れ替わる。
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菩提娑婆訶

2012-12-25 | Weblog
娑婆の人というのは、俗世間の人。悟りの開けない人のことである。
潤いの少ない人で、常に波のように揺れ動いて渇望している人である。
水が少ない人と書いていて、波のように揺れ動いている人と書いている。

「菩提娑婆訶 般若心経。」
般若心経は、娑婆の人の悟りとなるうたである。
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友愛

2012-12-24 | Weblog
喜んでもらいたい。
喜ぶ顔がみたい。
君のあなたの笑顔が見たい。
それだけの思いの行動。
何の策略も無い。
下心というものを思いつくことが無い。
その心に出会ったとき、
素直になる。
従うということに束縛を見出すことが無い。
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聖夜

2012-12-23 | Weblog
聖夜、クリスチャンでもないのだけれど敬虔な気持ちになるものだ。
ピシッと冷え切った夜のしじまに、
ハッピークリスマスの曲が流れて、戦争で傷つく人々の映像が流れる。
身内を亡くし、親しい人を亡くし、涙を流して途方にくれる人々が映る。
果敢に銃を撃つ兵士の姿、崩れ落ちる建物と人、人、人・・・。
地にひれ伏して天を仰ぎ涙する。
ただ呆然自失。
同じ人でありながら悲しみの涙を流しあう。私たちは何をしてきたのだろう?
望みさえすれば戦争は終わるのにと、哀しく曲が心にしみわたる。

宗教というのに境はない。
悲惨さを直視して、だから、君もあなたも喜ぶことに祝おう。
敬虔さを忘れずに、
友愛に思いを馳せて、君のあなたの喜ぶ姿を喜ぶために聖夜を祝う。
省みる夜である。
心のざわめきを吸い込むように、白く涙が降り注ぐ。
ただ深深と静まり返る夜が更ける。
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我の慢

2012-12-23 | Weblog
人による。
うまくいくことも、
まずいことになるも、
人による。人によるのである。
金を取る人と施す人と。
許す人と許さない人と。
悲しみと憎しみとと恨みつらみが生じる事柄、
喜びと感謝とと恩返しを思いつくことと、
大事に至ることも大事に至らず、些細な事も大事に至る。
人の善し悪しによる。心の配りどころの知らない人の罷り通る生き辛い世の中。
人格という差は、姿かたちとは似つかない。
譲り合ってうまくいくものを、我を通すためにうまく運ばず
まずいことになる。
それも根性の汚いものが多いために、くだらない理屈をこね、
威張り腐って変な自尊心で生きる。
ある職について、役職をもち偉い者なんだと自負する奴。
芥子粒にも満たない小さな小さなことにこだわる馬鹿と言う奴。

どんなに説いて聞かせても理解できない人、しない人がいる。
悪は自分を害うよ、何一つ得になることはないよと訓えられても分からない人。
そんな人がいるために、
個々自分の身は自分で守る。として、矛から守るために盾を持つ。
正当な理由であるが、矛に盾で矛盾が生じる。
この矛盾の世の中で答えは出ない。
悪から守るための正義は、悪で対抗する。目には目をと理屈を立てる。
そこには飽くなき悪しかない。正義など微塵も無い。
憎しみには憎しみを持って報いて飽くまでも続く。

家畜を食して動物愛護を唱える。そして、それは自分は悪くは無く他人が悪いとして、
自分の行為の矛盾に気が付かない。

我慢、我の慢が鍵である。
正義という鍵穴にその鍵が合う。
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