つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

善い心で

2011-12-31 | Weblog
千年に一度とも言われるこのたびの地震において、
死んでいった人達は、それこそただならない周りの景色を見て、この世の終わりが来たのだと思ったことだろう。
うろたえている間に死んでしまったのではないだろうか。
災害に遭わなかった人達は、それでも普通に明日は訪れてきて、夢物語にもこの世の終わりがあるとは想像もしない。
世界のあちこちで起きている異常な光景を報道で知っていても、自分の周りにはそれこそまさか・・と思って生きている。
災害で死んでいった人達は、まさかはあると知ったところでどうにもならない。

とある映画に、太陽フレアーに焼かれ、一瞬にして地上の景色が消え去る一場面があったが、
あまりにリアルな未来像であった。
漫画で描かれた世界は現実的になっていくと言われるように、映画でも同じである。

20××年12月××日、巨大な熱が覆い、水が沸騰して溢れかえる。
地上の景色は、あらゆるものが一瞬にして消滅してしまう。生きとし生けるものは、
善いも悪いも無く、運命共同体として滅んでしまう。
一瞬がせめてもの幸いである。苦しいと思う間がなくであるために。
20××というのはこの世紀に於いてであるために、2100年ということはない。
××日というのは北半球の昼と夜が、南半球では、夜と昼の長短の日、打ち消しあってゼロとなる日である。
浄化となる日である。
関わる数字は1と2と3と9である。重なり合って組み合わさって0となる日である。
人の悪となったエネルギーが人災である。それを浄化するエネルギーが天災である。

20××年、とある日、天空より、空を覆いつくす巨大な船が静かに現れて、助けるものを助ける。我先とする者を退けて。

兆候というのは示される。
過去に於いて歴史は語る。

宇宙、地球的時間に於いて、
人の一日など無いにも等しい。
私達の目で見ることのできないものが生きているように、それらにも時間はある。
見えないから無いとしてしまいがちだが、確かにいて、在る時間である。そして、影響を及ぼすものでもある。
地球という生命体から見ての時間、先人の神々、釈迦もキリストも現代と同じ時間帯といえる。
その彼らが、卓越した能力を持ってみることができた法則は、人類は滅亡していくと予言している。
それは、しごく自然な事柄である。人類の行為が法則の行為、つまり、浄化の行為となっていないためである。
無知が故に、過った浄化の行為となっているからである。
法則は絶対であり誤りの無いものであるために、法則によって滅亡していくのは避けられないものとなっている。
法則には恐怖というのは無い。だから、死を恐怖としないことである。そのために、(絶対死が条件となっているために)
釈迦もキリストも、その行為を説いていったのである。恐怖を持たなければ、死後の世界が
恐怖の無い世界として創られていくためである。
人は、死ぬのが目的である。どのように死んでいくかが要となっている。
荒唐無稽と捉えるのも人の自由である。
地が割れ、炎が上がり、水が襲い掛かり、あたかも重さが無いかのようにものが転がり込んでいく様を見て、
死んでいった人達は、この世の終わりがきたと思ったろう。
兆候というのは示されている。
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智慧の目

2011-12-29 | Weblog
人類はその歴史において、
自分は正義であり、悪いのは相手であるとして、自己中心的思いのもと、
争いを聖戦とし、殺戮をしてきた。
まだ大陸の交流も無い時代に於いても、内紛は常に起きていた。
皆、自己中の一番になりたがるお山の大将を求めて、他の為として欺き、支配欲に犯されてきた。
我こそ他のものより優れ、一目置かれたいというつまらない欲である。我こそ正しいものであると。
我欲、地球は人間のものであるとして、わがままに他の生物を押しのけ、生存競争に打ち勝って、
それぞれの縄張りを侵してきた。生物は競争で存在しているのではなく、共存である。
持ちつ持たれつで共に生きてのあり方である。
なのに、人の行為は、がん細胞のように他の領域に蔓延っていく。‘おまえらどけよというようにして。’

現代に於いても、人の心はなんら変わらない。欲望に犯された進化となっている。
金というものをつくり、それによっての信用となり、人生の通行券のようになっている。
金さえあれば他が従い、欲の開発となって物が作られ、ものによって今ある極楽が得られる為に、
鎬を削って通行券を得ようと貪る。人に見えて人に非ず、心無いものとなって他をくいものにする。
かく、人の歴史は争いである。戦争、紛争、競争とどれも争いのつく文字に安らぎは無い。悲しみばかりである。

コンクリートジャングルというように、いたるところ大地は固められ、アスファルトは動脈硬化のように塗られている。
その上を、車は悪臭を放ちながら細菌のように蔓延りまわる。水は大量排泄で汚れ、風は化学エネルギーで汚れた。
生物の一種の異常増殖は自然の摂理に反する為に淘汰されてしまう。
地球も生命体である。悪いものが現れれば排除する。自然治癒力をもち対処する。
天災地変は人が悪となっているための現象である。悪が増殖されてくれば当然の如く裁かれるのである。
人類が滅亡していくと法を見た人達が予めたのは、しごく当たりまえなことだった。

今度は一部地域というのではなく、地球的規模である。
巨大な熱と水によって、地球上の生物は運命共同体として滅んでしまう。
でも、変わらず地球に明日はやってくる。
その間、どれだけの長い間か、人は死後の世界で生きていく。
地球が安定して、再び地上の人となるまで。
ちなみに、死後の世界は時間の無い世界である。ゼロの世界となっているために、時間を感じることは無い。
変わらない世界となっている。
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宝のもちぐされ

2011-12-28 | Weblog
不安=恐怖=死。
死がどんなものなのか、死んだらどうなるのかがわかるなら、
恐怖が無くなり、不安も無くなる。すれば、希望が見えてくる。
死んだらどのようになるのか?誰もわからなかったが、
般若心経が説かれてから、凡人でもわかるようになった。
だけども、その文字の意味を正しく解せないと、なんとも理解しがたいものとなって、
超人的、優れた人の世界のこととして、ただおこぼれ(ご利益)に預かりたいとなってしまう。
大衆のために説かれたものであるために、凡人に理解されなければその趣旨を失い、力のないものとなってしまう。
何のための、誰の為の訓えなのか意味不明となってしまう。
経典は、大衆のために説かれたものであるために般若としているもので、難しいものであってはならない。
間違って解釈するのも、正しく理解するのも聴く人の自由である。また、説かれたものを正しく伝えるのも、
誤解して語るも人の自由である。
どうぞ、くれぐれも心経の文字に礙げられませんように(誤解されませんように)と願って前書きまでしている。
それが、仏の心配である。その心配が、般若心経にのみつけられている開経偈である。
心経は、大乗経典のすべてを代表する経典である為である。簡潔に要点だけを述べているものである。
そのために、心経の文字に迷わされてしまえば(正しい解釈がなされなければ)、すべてが荒唐無稽となってしまい、
神仏の世界のこととなって、分けのわからないものとなってしまう。すべての経典が意味不明となってしまい、
凡人の縁の無いものとなってしまう。わからないけれども神仏は超であるために、読誦していれば縁となって、
助けてくれるに違いないと勝手に思う。それこそ人の都合である。

人が死んでどうなるのか、それを訓えているのが般若心経である。
啓示で語られたものである為に、真実嘘のないものである。
まず、
心経の文字は、
発音が似ているからという意味であてられている文字ではないことを知ることである。
是はこれと訳される文字でもない、無は否定の文字で使われているのでもない、真言とされる言葉も一切書かれてはいない。
人が理解できない為に意味不明として、仏だけに通じる言葉であるとし、真言として都合よく解釈しているだけである。
かくして、心経は、現仏教において、力のないものとなっている。
あまねく衆生を救いとることのできる、唯一優れた訓えであるものなのに。

人類が滅亡へとひた走る世の中、頻繁に起きる天災は、人の罪によるものである。
地球という生命体の悪の浄化である。人は地球の悪となっているためである。
今それが満たされつつある。釈迦もキリストも人類が滅亡していくことを予めている。
この滅亡から逃れる手立てはもはやなくなっている。道理の自由となってしまったためである。
そのために、釈迦もキリストも救いを説いたのは、すべて生命の救い、死後の世界の為の救いである。生命に死が無いためである。
キリストは山上の垂訓を、仏は菩薩を通じて心経を訓えた。共に神仏の愛ではなく、衆生自らの行為、愛という方便である。
唯一の方便である為に。
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なぜ生きるのか?

2011-12-27 | Weblog
人の一生は、
死ぬ為にある。
死後の世界が生命の真実の世界であるために、
肉体は生命世界を作り上げる為のものであり、
そのための大切である。
生命というのは、エネルギーであり心である。
心の現象の世界が生命の世界となっている。
そのために、心が正しくつくられていなければ、
生命の世界は地獄の世界となっていく。
心は、人生経験の記憶でつくられていく。
その記憶が正しい記憶でなければ、100%地獄である。
これは、生命に死が無く、永遠の命となっているために、
一つの肉体で作られていく人生が終わり、転生して
亦、ある肉体の人生となる繰り返しによって、その幾度も繰り返された人生経験の記憶が統一されていき、
その時々の心となって現れている。心が正しく進化していれば、
生命というものが滅びることの無いことを悟り、滅びることが無い為に、肉体を失った後の世界の為に生まれ、
生きていることを知る。死後の世界の為のとある人生と知る。すれば、人間自ずと、
何を為し、何をなしてはいけないことかを知り、誰に正されなくとも、悪心は抱かない。
人皆自分が愛しい者である為に。
一度きりの人生というのは、その時のヤドカリとしての肉体であるだけで、入っている心は、
ずっと繋がっている一つの心である。生命であり魂という。繋がっている為に、為した果が現れて来る。
まかぬ種は生えない・・道理である。いつかの人生に必ず現れる。

ある人生ごとに魂が成長していくのであるが、それが経験という記憶によっての成長である。
記憶が積み重なるごとに、心の質が変化していく。総合されて今の心が作られる。その判断で人は動く。
生まれたときは子供の動きである為に、何もわからないが、性格というものが成長と共に現れて来る。
それが、どうしてそのような性格となっているかというのは、幾度も生きてきた心の積み重なりがまとまっての結果である。
粗雑に生きてきて、過去を知ることの無い人生には、幾度生まれ変わっても理解が無い。そのために、自分を害って生きてしまう。
幾度も幾度も苦しみの転生をするだけである。
人は死ぬ為に生まれてくるのである。生きていくのである。死後の世界を正しい世界とするためが、人生となっている。
死が絶対となっているのはそのためである。死は、単に肉体の生滅に他ならない。
生命、つまり心、つまり魂は死がないのである。
それは、法が是であり、絶対なくならないためである。その法によって創られている生命であるからである。

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九つの平行宇宙

2011-12-26 | Weblog
ぐちゃぐちゃで、どうすることもできない絶望感に満たされている世界。
ぐちゃぐちゃで、どうすることもできないように見えている世界。
ぐちゃぐちゃでも、なんとかなる世界。
ぐちゃぐちゃだけど、何とかなってきた世界。
ぐちゃぐちゃだけど、そうでもない世界。
ぐちゃぐちゃではないけど、きちんとでもない世界。
きちんとだが、ゆらぎのある世界。
きちんとしている世界。
きちんとしていて、ゆるぎない世界。

混沌から端整までの九つの次元が因縁で創られた。
共に絶対世界であるために変わらない世界である。
その内の8っの世界まで行き来するが、一つの世界は行くことができるだけである。
縁の無くなる世界、絶対ゼロの世界となるために。

あなたが、どうしてそういう性格だったのかと問われて、
そういう性格だったからそういう性格なのですとしか答えられない。

衆縁和合の形をエネルギーという一つにあてはめて、
「あった」からという成り立ちである。
どうしてそういう質なのか?と問われているのと同じである。
「あった」から生まれたのである。
九つの世界は、一つの宇宙に収まっている。
有限であり閉じられている世界である。
円くて超巨大であるが、針の穴にも収まるものである。
写真に巨大な太陽が納まるように。
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しったかぶった

2011-12-25 | Weblog
クリスチャンでもないのに、クリスマスを祝う。
無宗教であるといいながら、神社仏閣に詣でる。
神や仏を否定しながら、困ったときの神頼みとして肯定する。
ご都合主義で物事がはかられるのは、達観した者と自然だけである。
通常には有り得ない。
日本人に他国語で話されても理解が難しいように、
豚に真珠というように、そのもの(価値、意味)を知ることの無いものには、
よい果は現れない。

信じる念いが力となって現象がされてきても、その現象に振り回されてしまうことは無いが、
信じることも無く、あるいは、曖昧のまま念じていれば、曖昧が現象となって、その現象に振り回されてしまう。
いるともいないとも知れないものを念い、その都合によって現象がされて、神が仏が現れて来たとなる。そして、
架空なものに惑わされて、逸脱した行為となってしまう。

私は絶対催眠術にはかからないという人ほど催眠にかかる。
知的判断をしているものほど顕著となってしまう。
実際には玉葱であるはずが、林檎であるといわれれば林檎に見えて、触れても
林檎と感じ、食しても林檎の味となってしまう。
目で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、口に食して、肌で触れ尚、玉葱を林檎としてしまう。
心が騙されてしまう(念い込む)為の現象である。その人には、催眠が解かれない限り気がつかない。

知識というのは他人の経験を正しいものとして受け入れ、学んでいるものである。
自分の経験ではない為に、もし誤っていても正すことができない。
知識社会である為に、知識が無ければ受け入れられず、そのために知識をを学んでこの社会に適応していく。
知識が誤った知識であるなら、正せなくなってしまう。最初が誤れば後も誤っていくものとなってしまう。
最初が肝心となっている。

人は、人を殺してはいけないと教えられる。それが善の判断である。人の主観の判断である。
神も仏もそう教える。そう教えられ育った人々が集い、社会をつくり国家をつくる。
育つところが違えば環境も違い、思いも違ったものとなる。我が神が一番正しいとなる。
それぞれがそう思う。そして、我が神こそとして、他を批判する。
それぞれが、我が神を冒涜するものは悪であり、悪は成敗しなければならないとなっていく。
戦いが我が神を守るものであるとし、聖戦となって争いが肯定されていく。
一人でも多くを殺したものが崇められ、祭られ、英雄視されていく。
一人でも殺してはいけないことが善であるのに、多くを殺すことが善とされることに疑問を抱くことも無く、
民族社会の為、国家の為として悪をなす。
誤りを誤りと気がつくことが無いための悲劇である。
まるで催眠にかかってしまったように、絶対大丈夫という人の主観というものは、頼りなく曖昧である。
善いものが悪い、悪いものが善いとなってしまい、善悪顛倒したものとなって、崩壊の道をひた走る。
人の誤った時の流れ、進化である。

自然に善悪は無い。だから、
自然に正しく対応して生きている動物達には善悪が無い。
そのために、生まれたところが環境適応となって生きていられる。
食うも食われるも本能の行為、自然である為に憎しみなど無く、生存の競争ということもない。
ゆえに、彼らに地獄がつくられたりはしない。自然には恐怖が無い為である。
互いが共に生きているものであるために、共存となっていて、死んでいくものは亦すぐに生まれ変わってくる。
輪廻が世界となっているのである。

人は考えて生きている。考えなくては行動できないようになってしまった。
それは、知識を持った為である。その考える時間がロスタイムとなって、瞬時自然に正しく対応できずに
逃げ遅れてしまう。

瞬時対応不可が知識である。
瞬時対応可能が智慧である。
人は智慧の世界をもっている。これが、他の動物との違いである。
その世界が、九つの次元と表される。

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腰を軽く!

2011-12-23 | Weblog
仏様というのは、
もと人であったという先人達のことである。
その中でも、卓越した能力と努力をもって
神の如くと言われ、亦そのようになった人達である。凡人が死して成仏という意味の仏ではない。
生死を悟り、法を知ることができた偉人達である。
ただ、聖者といわれた人の中にも、聖者といわれているだけで、法を知らずに他界した人達もいる。
俗世の識によって、そう呼ばれただけである。

さて、神の如くとなった仏様が言うことには、
「怠ることなく精進努力しなさい」という。「時は片時もとまることが無いのだから」と。
まさに、目で見、耳で聞き、鼻で口で肌で触れて、心で受けた世の有様をそのまま語っている。
単純に、‘止まっているものは何も無く、いつも同じ繰り返しをしている変化’これが道理であり、
そのために、怠ることなく動いてこそ理に適うものなのだ。
事実、人の意思に関係なく、絶え間なく心臓は動き内臓は動く。心臓が疲れることが無いように、
真実、人の身体に疲れというものは無い。疲れと表しているのは、エネルギー不足となるための表現に過ぎず、
本当に疲れてしまえば、取り替えてしまわない限り直らない。
肉体の疲れは、食事で持ってのエネルギー変換となって取り除かれ、エネルギー補給となり、心の疲れは考えないこと、つまり眠って取り除かれ、エネルギー充足となっている。
だから、エネルギー不足になることで、疲れたと言い換えているだけで、食して眠るという動作で、再び活力となっている。
すべてが熱エネルギーの浄化されること(行動、行為)によっての進化、向上となっているもので、浄化されていかなければ
腐敗となっていく。つまり、動かなければ転換となっていかず、浄化されなくなってしまい、道理に適わないものとなるため死となる。
食って寝てばかりで、よいことが起こるだろうか?普通に考えても知れるはずである。それは、すべてが動いているという道理に沿っての存在であるためである。
そのなかで、正しい浄化となっていなければ不都合ばかりが起きてくる。不都合のままに死んでしまっては、逝く先は必ず地獄である。
正しい浄化というのは、正しく動いているかである。だらだらと動いてよい結果となったことがあるだろうか?
不平不満でよいことが待っていただろうか?誰しも知っていることであるはず。
にもかかわらず、欲というものが邪魔をして、口先甘いことばかりに向かってしまう。甘い言葉と暗い道とは、人生すべてにかかわっている道理の言葉である。
そこのところをよく心得て、何事も精進怠ることなくと戒める。良薬口に苦しと確かに心得ても、人工的に和らぐ智慧を知るも、過ぎたるは損ねるばかりである。
悪知恵という智慧は無く、過ってしまう知識である。

人はどんなに客観にものを見ようとしても見ることはできない。
観ようとすることが主観であるからで、、観たものが主観の判断となってしまうのである。
自分のあらゆる知識を滅して、ただ自然にある事柄に、
触れた刺激をそのまま感じ取った識でもって、判断としていくことである。
繰り返し繰り返すことが善となるために、正しいことを繰り返すことが要となる。
自然という道理を観ていれば、正しいことが知れてくるものとなる。ただ自然が教えてくれる経験こそ、広く大きな智慧となって、
知らないものにも正しく対処となっていく。そのような力が得られていく。それを神にも通じる力として、神通力として、ことごとくに、
悪を善に変換していくことになる。

自然の慈悲である。
法の慈の世界というものである。
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心念の力

2011-12-22 | Weblog
人が病にかかるのも、生き方の誤りからくる。
災いに遭うのも同じである。
人の常識ではわからないだろうけど。

病が治るように念じれば、念じるほどに意識され、
病が絶対存在となってしまう。そのために、
病が治ることが無くなる。不治の病となってしまう。
病気とは、病んだ気である。
気が病んでしまう為に、治らなくなる。
だから、病の気配を消してしまうことで改善していく。
一念巌も通すである。
病んだ気の根源は欲である。
あれも欲しいこれも欲しいと取り込むところに
不必要が取り込まれ、浄化の行為がされていかないために
犯されてしまう。

自然というのは浄化である。
人も浄化である。
浄化の行為が正しい行為、本能行為であるために、
この行為によって病は浄化され、災いの浄化となっていく。
正しい生き方である。
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優れた矢理

2011-12-21 | Weblog
優しくなりたいのなら、
憂えることです。
それは、心配することです。
思いやりです。
その思いのは必ず心に届きます。そして、
そのは優れた効果をあらわします。
人が憂えるということは、やさしいことなのです。やさしいことだから、
繰り返し繰り返し行ってください。
心を配ること。そうすれば、永く久しく
愛する人となります。
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尊いこと

2011-12-20 | Weblog
自分の為に
人のため世のためである。
人は誰でも自分が一番愛しい。
だから、
自分の為として生きている。
自分の為だから、
先ず
第一に人のためとしていくことで自分の為となっている。
この順番を間違ってしまい、自分のためとして、先ず自分が一番とすれば、
自分の為とはならずに、人のためともならない。

「二兎追うものは一兎をも得ず」と同じこととなる。
欲が先んじてしまう為の果(過ち)である。
欲というのは斯も自分を害う。

自然の恩恵を日々受けて生きている。
だからとて、自然は何も求めない。
無償である。
ゆえに、
人もまた、無償にして生きられるものである。
献身というもので尊ばれ、
これが愛である。
「愛する人」という。
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