つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

狂ったビジョン

2011-05-31 | Weblog
ずいぶんと昔より自然は訓えてきた。
今、自然は何を諭しているのだろうか。
人を自然の中に帰したとき、
損得など必要ではなく、かばいあいながらでなければ
生きていけないことに気がつく。

困っている人に対価を求めてはいけない。
無償の奉仕のみである。
損得がはかられれば命はつながってはいかない。
つながっていかなければ、元も子もなくなってしまう。
人そのものの尊厳にかかわる。

浅ましくあるものは生きていてもしょうがない。
自然はそう見て、狂いだした。
狂ったものには狂って対処する。
80億という魂が消えるときは、そう遠くはない。
地球規模で
異常はあちこちで起こり、地上の生物の崩壊の前触れとなっている。
これは、自然の法則との摩擦によってである。
人の穢れという摩擦によってである。
21世紀中のビジョンである。
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施しながら

2011-05-30 | Weblog
施す。
見返りを求めることなく
ただ分け与える。
君も僕も私もあなたも、少しでも喜んでもらいたくて、
ただ喜んでもらいたくて。
君の笑顔が、あなたの笑顔が、
僕の笑顔に、私の笑顔になりますように。

人の命をかばい死んでいく人に恐怖は無く、
人の命を奪い生きる人に幸福なんて無い。
助けるものと殺すものとの違いは死の中にある。遅かれ早かれ
100%死ぬ定めの命、体が滅びるだけで心は生きていく。
死後の世界を見た心は、
後戻りはできない。
この世の比ではない喜びと苦しみとに分かれている世界を、
どれほどの思いで知るのだろう。そんなことはないと浅はかに思い、
おそらく、そのときはそのときと高を括って生きているのだろう。
いつかもしれない死との出遭いは、ジリジリと迫りくるだけである。
怖いか怖くないかの心の思いは、助けるものと奪うものとの生き方にある。
優しい者とそうではない者との別がなぜあって、天国と地獄の別がなぜあるのか、
生きて、道理を見れば知るものである。
努力と怠慢、時間差を持ちながら分かれていき、
紛らわしくも、惑わされながらも、その差はくっきりと分かれていく。時の流れは
進化しながら戻るが、可逆するわけではない。
後戻りはできない為に、改め正して戻していくだけである。プラスマイナスゼロになるように。
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どこまでも

2011-05-29 | Weblog
紛らわしいものがたくさんある。
紛らわしいというのだから、よろしくないものである。
素直な目をごまかして利己的思いに傾く心、人の不利益になるものを
そうでもないそぶりをしてつくろう穢い心。
みな、己の慾に絡みつき、清浄な気持ちを被いかぶせてしまい、真の姿を見えなくさせてしまう
始末の悪いつる草のように、共存共栄のようにして巣食い、乗っ取ってしまう紛れるもの。
偽というものが正しいものに紛れて、少しの損得の隙に入りこみ誑かす。

人は皆、そもそも性善である。それは、「是諸法」であり、是が浄化の法であるためである。その是によって
すべてが創造されているための存在であるから。
是が巡るもの、円の運動であるために、
日々、繰り返しながら生きていくものとなっている。繰り返すということは、
浄化しながらということである。それは、もとにもどるために、ゼロになるためである。
自然が美しいのは、日々浄化されていく為である。その変化が進化である。変わらないものである。
善悪がないものであるために、絶対善となっているためである。

悲しいときには泣けばよい。
楽しいときには喜んで。
素直を大切にするべきである。紛らわす必要など無いものである。
子供のように、
何事にも経験が浅く知識を持たない為に、心の貧しいものとして、言われたことを素直に受け入れていくために、
‘貧しき者よ、汝等は幸いである。天国は汝等のものである’と説いているのである。
だから、
最初に出会うもの、触れるものが「よい」ものでありますように

疑いの目で生きず、素直な心で生きて、紛れるものも見えていく。
たとえ、信じて裏切られても、信じるものは善である為に、後に不安の無いものである。
この‘後に’を理解する者こそ素直なものであり賢者である。

この世では、善人でも悪いことに遭う。悪人でも好い目に遇う。
それでも後には善い人は良いところに、悪い人は悪いところに赴くのである。道理である。
これには、改めなければという慈悲がついている。
地獄に仏である。
法の慈悲である。
改める気持ちさえあれば、どこまでも救いの手は伸べられているものである。
人知及ばぬ広大無辺の愛である。
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智慧の目

2011-05-28 | Weblog
痛くもかゆくも無いもだから油断をしてしまう。
小さいものだからと見下してしまう。
見るからに毒々しさを感じさせない為に無防備に対比し、すきだらけ。

体は名を表し、名は体を表すがカモフラージュがある。
生きていく智慧で成している。
生きていくものが種の別に出会えば、存命の危機になる。
すれ違うだけのことは無く、命のやり取りとなる為に、常に警戒し威嚇した様相をとるが、
何の変哲も無くつくろい、危機を感じさせずに命を奪うものもいる。
最も恐ろしいものである。
そのようなものに出会うものは、それなりの隙を作るために出くわす。
高を括る為である。
ありえないことはそうはないものだと、いま一つの手間を省いていく為に、
ありえないことをつくる破目となる。
安心安全平和ボケは危機感の無さを生み、危機をつくる。
便利を追求しすぎれば、不便が増大していき、生き苦しくなっていくように、
互いを排除しあっては、滅びるだけである。
触ってはならないものには触らずに、そのままにして、近づかないことである。
智慧を具え、
不安を持って俗世はうまく生きられる。
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耐用年数

2011-05-27 | Weblog
寿命がある。
これが体によいといえばすぐに試して、
悪いといえば手のひらを返したように寄り付かない。
あれこれ情報に振り回されて、つまりは長続きせず
元の木阿弥。
無知。
なぜ?という根本を知らずに、知ろうとすることすら思うこと無い生き方のために、
ただうわべだけをなでたどるだけ。
骨折り損のくたびれもうけだけで生き終える。
元気だったのに
ある日突然に倒れて他界ということはよく聞く。
憎まれっ子世にはばかるといわれるように、どんなに長く生きていても、
その価値を見出せない意地の穢い人が数多い。また、善人早死にと言われたりもするが、
一理はあれど、ほとんどは意に反し理不尽に死んでいる。それは、
きわめて無知な為である。
どんなことをしても死ぬ人は死に、死ねない人は死ねない。
たとえば、ヘビースモーカーなのに、どこも患うことなく長く生きる人もいるように。
体に気を遣い遣い生きて短命だったり・・・と。

出会いが無く、出会いを求めてわざと出かけても、
運命の人に出あうことは無い。その気が無くても、なぜか出かけたときに出会う。
気にしないときに良縁は起こる。
それは、気がすむまでということには無いもので、気をセーブしていて起こる。

もって生まれた寿命を知らないが、一所一所を懸命に生きた人は長生きしたとして、
だから、
悔いはない。
運がいいとか悪いとかを人は生きるが、本来、自分が作っている寿命である。
目の前の、試した、試さないの右往左往ではない本来である。
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あきらめる

2011-05-26 | Weblog
明らかにすることである。
無知であったことがらを明らめ知ることができた為に、
言葉という文字に最高である意味の文字(帝)をつけて、諦とし、あきらめるとする。

諦=真実を曇りの無い眼で見る。真理とある辞書にある。

何も途中で投げ出してしまうという意味での言葉ではない為に、最高の言葉であるとして
つけられた文字である。

羯諦(ぎゃてい)羯諦と連呼して、さらに波羅羯諦、波羅僧羯諦と綴られた心経の一節。
この意味が理解できなくて、仏の真言であるとしている。そして、
いこう、いこうなどと訳してしまっている。

羯=美しいという文字に偈(詩)という文字を組み合わせて、人々の声を表している。そのために、
喜びのあまりに叫んだ声の音を示している文字である。下界で皆が歓喜して叫んだ声が、
遠くにぎゃぁ~ぎゃぁ~と聞こえる為とした意味の文字である。
波羅羯諦、波羅僧羯諦=悩める人々の声であり、悩める修行僧の声である。
つまりは、悩み苦しみ迷える大衆の歓喜の声である。
世界というのはこのようになっているのだと諭され、無知であった事柄が知れ渡って、
人々が悟りを開くことができた為の喜びの場面として表された文字である。
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2011-05-25 | Weblog
般若心経を知っている人は多い。
しかし、どれほどの人が心経の言わんとする旨を理解しているのだろう?
智慧の話として理解していても、その智慧すらわからないのではないのだろうか。
智慧とはなんぞや?
そもそも、智慧云々と理解しているために、わかったようでわからない。
わからないのは常人ではない人の思いであるために、
凡人である人には理解しにくいものなのだと思って、
無理に理解する。
そのために、無がそのまま否定の為の文字として読まれてしまう。
現実というのがありながら、幻であるとしてしまう為に、
無我であり非我であるとなって自分という実態すら否定してしまう。
無という文字が否定ではなく肯定の為に用いられている文字であるとしていけば、
つじつまが合っていく。死が、そしてあの世が、今あるこの世が矛盾無いものとなっていく。
仏様は難しく語ってはいない。ただ、まぎらわしいものであるために、迷わされないでほしいことを
心配しながら伝えたものである。
知識で理解しようとすれば理解しがたいものである。
なぜなら、人の知識となることの無い世界からの語らいである為だから。
どうぞ、人が必ず死ぬという道理を見ていけば、善とか悪とかのあり方を知り、
この世の法則を知ることができていく。
心経に教わりながら、何度も何度も読み返そう。その文字は正しく意味を伝えている。
音写の文字あてではないものである。
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直ぐという間

2011-05-24 | Weblog
人間は皆同じである。
なのに、
できる人とできない人がいて、
これには才能があるのだけれど、あれにはとんと無能力
と、一長一短をもつものである。だから、どんな人でも侮ることはできない。
それにしても、世の中にはどうして?と理解し難い優れた能力を備えた人がいるものだ。
さて、
どんなに良いものでも高価すぎると無用の長物である。
広く使われて重宝がられ、実に慕われるものである。
あることに才能があったから
人より長けて価値ある人となり、高額な金銭を受け取るが、あまりに桁違いの人もいる。
一人の同じ人間で物欲、性欲、食欲などそれほど変わるものではない。
偉い分、普通よりも少し高めの収入で、なるほどまともであるとなるのだが、
払うほうもよくも払えるものだと驚く。
つまりは、物の価値が高すぎる、事の価値が高すぎるということだろう。
そのように‘すぎる’世界がそこここにあり、まともではなくなっていて、
変調をきたし、狂った世界となってきた。狂い始めたものは崩壊するものである。
同化してしまうと狂いすら気づかなくなってしまうものだ。

衣食住が生きていく為のまともさを欠いてくれば
世も末となってくる。
金のある者はばら撒き、力のあるものはその力を駆使して、まんべんなく世の中を平らにしなければならない。
金を扱うところほど、ため込めば救いようが無いものとなるために、心して扱わなければならない。でなければ、
201212222103という数字が崩壊を示した数字として刻まれてくる。
未来が不定であることだけが救いである。この数字が通り過ぎるだけでありますように!
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なくなっていく

2011-05-23 | Weblog
若いときは怖いもの知らずである。
今有る時が永遠に続いていると思われて、
時が流れていながらも過ぎ去ることに未練が無い。
二度と来ない青春を思いやることも無く
ただ甘んじて生きていく。

やがてという時の隔たりに、
遅いとか早いとかを思いながらも人は老いる。
力のみなぎりは失せて容貌は色あせて、
こんなにも変貌をきたすものかと愕然としながら
老いていく。
生きてきた軌跡が何だったのだろう?過ぎて何も残らず、
その軌跡さへ消えうせる。

汚し汚れて生きた人、
汚し洗われ生きた人、
美しかった人と穢かった人が確かにいたように、
どちらに傾き生きたのかも知れずに
何をして生きていたのだろう。
わからない。
生きても死んでも「わからない人」に人はなる。
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活きている

2011-05-21 | Weblog
偉大な力を知る。しかし、良くも悪くも偉大な力を操ることはできない。
けっして触れて動かすことをしてはいけないものがある。
戦いに明け暮れて、そのすさまじく荒れ果てる世界を見て、人災の悲しみを知るも、
哀れにも忘れかけてしまう。時として、自然災害は狂い掛けた気持ちを戒める。
悲惨という世界を人的に創り出さないようにと、狂いかけを懲らしめる。
悲惨なその惨状を作り出して見せつけ、操ってはいけない事と物を知らしめるが、
支配者であるが如くに振舞う者に気づきは無く、ただひたすら滅亡の進化を突っ走る。
原子の力が悪に使われた惨状をしりながら、善に使うことの無理に気づかない。
自然は戒める。
取り返しのつかなくなる時の進化を、過去にも今にも見せつけながら、犠牲という厳しさで。
ひとたび暴れては、長い永い時を要し、長らく煩わせることを見せつけてきたはずだ。

犠牲のもとに築かれている正義は、悪を絶対化して
正義のためにと闘う為の正義を悪としてしまう。

千年も進化した時を有した知的生命体でも、
いまだ物理を知り得ずして、戦いに挑まれる。常に元に戻ってくるために。
どの道を通れども。
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