つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ほんものを知る

2016-01-31 | Weblog
貧しいからこそ分かち合うもので、
施しはそういう心の気高さである。
金持ちで富めるところにある心ではない。

往々に慢心にある者、吝嗇にして浅ましくある。

絶望という縁を垣間見てかいくぐるも、気高さゆえの心持ちとあれば揺るぎなくあるもので、
正しき自尊心である。
そういう者に、そこそこに危機は立ち去るもので、何ら案ずることを与えないものである。

貧しさは悪であるが、そこから本物の善が見られるものである。
抑え込むものにして際立ち顕れてくる。

助け合うこと、分かち合うこと、貴い者である。
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思い込み

2016-01-30 | Weblog
洗脳というのは、恐ろしいことだ。
宗教によく見られることで、
あるいは、悪事においてなされる手法である。
悪いことでもよい事であると自分で思い込んでしまう。
自分で思い込むよう仕向ける企み。
洗脳されてしまうと、それを解くのは難易である。

一日が一旦ゼロになり、新たに始まることを見て真理と為し、
その時点に心を注ぎ込んで、気を付けることである。
夜と朝の狭間に要がある。
一瞬という間ではあれども、狭間にして虚空蔵でもある。
それを理解して、洗いざらいを浄化とする。

貧しき心を少年の心とし、素直と置き換えて幸いと為し、
悲しき心を故に、愛の行為に換えて幸いと為し、妙所である。

経験も知識も持たない人こそ正しく受け入れていくものである。
地獄の世界となっている人ほど愛を思うものである。

真理は善悪は無く、そのために絶対善となっていることを覚り、
幸福というのは、与えられるものではないと知ること。
金品によるものというのでもなく、神から仏から或は人から与えられるというのでもない。
幸福である世界というのは、愛の行為の世界。‘自らの’という行為による世界。
愛の浄化の行為である。神の愛というのではない。
神というのは、人の自由による主観の存在である。肯定否定も自由である。
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人生とは・・・如何に

2016-01-28 | Weblog
年老いてくれば物欲も薄れてきて、
あれが欲しいこれが欲しいということはなくなっていくものだ。
ただ、美味しいものは食べたい。食べに行きたいと思うもので、
所詮、人間というものは食べて生きているものだから、
食べることにはすこぶる気が魅かれる。
いろいろな美味しいものを食べ歩いて倖せと、日々を過ごす。
たおやかに過ぎゆく意味の無い幸せに満足して、ただ終えるものか?
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すなおを知る

2016-01-25 | Weblog
人の心の善し悪しを見るのは、咄嗟時にあるが、
ただ普通に、いつもながらの間に観ることができるのは、
幸不幸の時。それは、富裕と貧困時に見られる。

心の貧しさというのは、教育がされていなく、また、
自ずと気配りのできない性格にある。
ここで言う気配りは、ちと違う色合いである。
思いをやる、あるいは、思い馳せることのできないという無知から来る心である。
それは、兎にも角にも経験の浅さから来る無智に由るものである。
子供というのは、素直なものである。
人生経験が浅いために、物事の善し悪しということをあまり知らない。だから、
疑うということを知らず、言われた事、教えられたことを素直に受け入れていく。
親のいう事、先生のいうことは正しいとして従っていくのである。
そんな素直な心の持ち主である為に、悪人が偽善をもって言ったことでも素直に受け入れていく。
この意味で、はじめて会う人の良し悪しで性格が形つくられていくものでもある。
赤ん坊は、初めて会う人が母親であり、母親の行いを正しいとして学んでいく。
つまり、親の性格で善悪が判断されていく。そのために、親が間違った行為をしていれば、
間違った習慣を正しいとしていくために、幼い時期というのは、人間形成にとても大事な時期という事になる。
特に特に、道徳に関しては人格を左右していく。
そこで、子供のような心、何も知らないという心、無垢な心というのを、ある意味、貧しい心というのである。
好く理解すれば、素直で素朴ということである。疑うことを知らない心である。
「淳・素・朴・質」=すなおである。

淳=品性が純粋で、人情があつい。
素=生地のままで、手を加えていない状態。
朴=切り出したままの材木のように、飾ったところが無い。
質=そのもの本来の性質がそのまま示されていて、人為・飾りが加えられていない。と、辞書にある。

「貧しき者よ、汝等は幸いである。天国は汝等のものである・・」とキリストが説いたのは、
知識が無くこれといった信仰も無いために、キリストの訓えたことが素直に受け入れられていくためである。
信じるものは救われるということである。ただし、最初の人が善人である事がある意味要となってくる。
悪人が悪意をもって間違ったことを正しいと教えたら、善悪が顚倒してしまい、悪だらけとなって、それを正しいとして疑うことが無くなる。
だから、注意しなければならない。何が正しくて何が悪いのかということを智慧を持ってみることである。
智恵というのは自分の経験から来る知識である。
自らをして苦しいと思うことは他も苦しいと知り、嫌なことであると知れてくる。
苦しみは悲しみであり悪であると知ることである。その悪を他にしないことである。
嫌なことをされて嫌だと知ることを連鎖させないことである。

エネルギーの法則は、回る法則である。それは、浄化でもある。
回る為に元に戻ってくるということを理解して、
自分の為したことは自分に何れ返ってくるという事が知れてくるものである。
縁起の法という事でもあると知れてくる。

さて、いろいろと道理は示してくれるが、
そのありのままをよく観て、覚ることである。

貧しいから施しができないという人がいるが、金品だけが施しではない。
貧しい中からも分かち合うことができる心の人は、愛ある人であると知れてくる。
貧しいからこそ貧しさの苦しみを知るためである。他人の苦しみもはかれるためである。
たとえば、
富める人は、裕福である為に施すことは、貧しい人よりとても簡単である。
事情にして簡単であるか否かではないのだが、単純に貧富の差から
簡単ではある為に、本来施して当たり前となる。施していても当たり前のことをしているのだから、特段御利益に与ることはない。
これが道理である。でも、
富めるものであるのに施すことを知らず、更に更にと貯めこんで離さない人がいる。
俗世、人の世というのはそういう人が多いのである。富める人ほど吝嗇なるものである。
でも、一つ考えて、その立場にいるものの行為が、人格をあからさまに示すことになる。
人の良し悪しが見えてくるのである。
普通にして富める時、人は優しいものであるが、貧しくなると如何やである。
うまくいっている時は優しかったのに、そうでなくなってくると優しさまで無くなってしまった
というのが世の常で、よく聞く話である。そうしてそれは、金の切れ目が縁の切れ目などともたとえられる。
損得だけに関わって愛情が偽られるのである。損得に関わる人はどっちもどっちなのである。
そんな苦い経験をして、改められればいいのだが・・・。
貧しくなってもどん底になっても、優しさを持っている人は、最上の人と知れてくるのである。
人格の優れた人と知れるのである。

裕福であるのに、貧困ということを上辺だけで語り、
お金があるのに無いといって、分け与えない人がいて、突出した格差が生まれる。
人間一人、食べる量も着るものも住むところも、それほど違いが無いものであるのに、
一人にして、あまり多くの広さに住み、贅沢なものを食べ、贅沢な衣服を着る。
多くの人にして、狭いところに住み、粗末なものを食べ、粗末な衣服を着る。
それを見て、自業自得と片付ければ、‘繋がっているもの’‘繋がってあるもの’という道理に背く。
格差は広がるばかりである。
共存共栄、生きとし生けるものの在り方である。
それを知ることのないものは、苦渋にあり浮かばれない生命となるばかりである。

さてさて、行為は業、縁になる。
よいことは好いところに、わるいことは悪いところに確定して生まれるのであり、
この世は、曖昧にあり選択できるところにある。
糾える縄の如しにあり、その時々の心の在り方の行為が、確たるところを決める。
心のゆるぎなさを定める。
個々、肉体は必ず滅びるものである。しかし、心という生命は連綿であることをしっかりと理解することである。
すれば、今の人生から未来世が知れてくるものである。偽善で生きていませんか?と自分に問い、
あの世に招かれる絶対を、戦きますか?安心ですか?生きている今はまだ間に合うものと知る。慈悲。

世の中は、何かをしてもらいながら生きている。だから、何かをしてあげて生きているという事でもある。
それは、させていただく、させてもらうという謙虚にあり、すべからく辻褄が合う様になって生きているのである。
年老いていく中で、様々な場面に遭遇して生きてきているのだから、
老いていくほど、物事の道理が知れてきて、或は、知らなくてはならない。
そのために、老いを敬って、敬老とするのである。年相応で知る者は道理に適うのである。
老いて敬われるのである。そうでなければ嫌われる。往々にして、憎まれっ子世に憚ると疎まれるものである。

道理は‘すなお’である。
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菩提心、一切衆生 悉有仏性

2016-01-24 | Weblog
私達が今神と呼んでいるものは、
外宇宙から来た異星人と思われる。
そのために、
天空より舞い降りし者と記されている。
ただ、人類よりはるかに進んでいた生物である。


その天空より舞い降りし者達によって、人類は創造されたとするのが
見識といえる。地上にある原始的な生物を改善(遺伝子操作)して、
操作した者達の情報と他の情報を掛け合わせて、人という生物を作り上げた。
それは、まるで今の人が、ロボットを作り上げるよな様である。
「神(自分達、天空より舞い降りし者)に似せて作った」と記されている。
そのために、人類は智慧を持つようになり、発達していった。
人類が地球という星に存在するように、他の星にもその星に合った生物がいるもので、
著しく発達するものと、緩慢に発達するものとがいて、高等、下等も、
それぞれの性質から成っている。
敏感で機敏に反応しうるもの、鈍感なものといるのである。それもこれも、相対で成り立っている。
宇宙のエネルギーである為で、事細かに、曖昧と明確、明瞭が具わっているのである。
一つにして二つであり、二つにして三つという巴となっている。

運動する能力というもの、自由エネルギーである。環状体状となっているために循環となり、無尽蔵となっている。
虚空であり虚空蔵である。秩序あるものとなっている。

下等にして緩慢な、そして、鈍感であるものには、
高等にしてあるものの存在をつかみにくく、捉えどころのないものとしてただ恐れをなす。
そのものの意にして、自在にされるものの内にあるために、神と崇める。
今ある命の自由が、自在に操られる手の内にあるためで、何とも従うしかない。
その者達が、エネルギーの自由をどれほどまでに理解しているかが、
鍵である。高等にしても、数値の配列に長け、掛け合わせに優れていても、
曖昧というエネルギーの一面を捉えていなければ、
自由の束縛となって葛藤の狭間にいるものである。おそらく、
来訪者達も未だその狭間にしてあるものと思われる。
単に、この星の者達よりも著しく優れているに他ならないというものである。
しかしながら、著しく優れているということは、人類には脅威であるもの。
人間がジャングルに行って、珍しい様々な動物たちを捕まえて、
動物園で飼うようなものと似る。人は、この星に飼われてある研究動物なのかもしれない。
従順なる労働力と家畜の様な、ということも当てはまる。

人が少しづつ智慧を得て、人工知能というものを開発し始めたように、
そして、高等に組み込まれた知能は、やがて、それ自体が意思を持つようになり、
それなりの判断をするようになる。そうして、作られし従順というものに疑問を抱けば・・・。

あらゆる想定というのはされてはいるが、常に未来は不確定にある為に、定かには計りかねないものである。
未来が既に定まってあるものであれば、誰も現在と過去をいじったりはしないだろう?
そう計り知れてくる。

自由エネルギーが本体である。この自由をどう理解しているかで、
善悪という無記にしてあるものの姿が現れてくる。

さて、
宇宙にして、一つの銀河はちっぽけなものである。その銀河の中の太陽系はもっとちっぽけ、人知を超えてある存在の宇宙は、
ただ謎に包まれている。太陽系の惑星は12あり、ヒトの遺伝子も12螺旋が本来である。
それは、自分達に似せて作ったとされる神でさえ脅威を感じたもので、何れ、
自分達を超えた存在となることを予めている。そのために、遺伝子を2螺旋として指揮下に置いてコントロールしている。

意思は自由である。その意思が、エネルギーの本来の浄化に適えば自然と復元されていく。
何ものにも侵されることのない自由自在な安住の世界が開かれる。
人皆仏性である。それは、エネルギーが善悪の無いものであり、故に、絶対善と為っているためである。
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律動的

2016-01-23 | Weblog
「人間万事塞翁が馬」である。
もし、
自分を厳しく律して生きているなら、
相応に万事は計らわれるものであるが、
過去世においての無知にしての報いを受けて
人生はそこはかとなく苦渋を嘗めるものと知る。
何が災いして、何が幸いしてということも、
転じてあるものとすれば、幸不幸も自らの拠り所にあると
自業自得を思う。
一喜一憂が生きる盲目の中にあって、囚われて振り回されるが、
その真髄を知ることが魂の育英である。

なぜ?(場面の遭遇)と問うことが魂への問いであり、自分との葛藤である。

とある場面場面は、すべからく試練である。

その時々は知らずして通り過ぎたとしても、
後に、後々にも思い悔やまれてあれば、
ただ、光明具わっていくものである。
それもこれも、ただただ自分が気づくか否かである。
一瞬一瞬の選択にして、自業自得となし、
転じてある事の希望と絶望は、心の在り方次第。

宇宙はエネルギーであり自由であるために、
何もかもが自らに由るものとしてつくられている。
自由が創造主であり神である。
そのために、何ものも、如何なる力も自由を動かすことはできない。

その自由は自在に秩序を創る。

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一律に

2016-01-21 | Weblog
冬のある日、
真冬のお風呂ほど有難いものだ。
つくづくそう思う。
有難い有難いと、
有難い事に
ただ
感謝する。
ただただ感謝する。
倖せということはそんなことだろう。
たわいも無いこの身に於いても・。
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有難き事の常日頃

2016-01-19 | Weblog
日本という社会、
お店には品物が事欠かないほど豊富である。
お金さえあれば何でもそろえられるというくらいあるものだ。
それは、とても便利であるも有難い事である。
有難い事である為に、とても不自然でもある。
不自然なことは戒められるもので、気を付けていなければならないことである。
これはとても有難い事であると、
常に平身低頭であらねばならない。さもなければ、
不便に与るものである。
それは、
便利を知ってこそ、深まる不便極まりないことである。
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春夏秋冬の好さ

2016-01-18 | Weblog
春には春の雰囲気で思い出がある。
夏には夏の雰囲気の思い出がある。
秋には秋の雰囲気に思い出がある。
冬には冬の雰囲気な思い出がある。
その時々の醸された哀しみと喜びは、
色合いを濃くして、記憶の彼方で漂いながら、
廻りくるものである。
春には春の・・と、
その良さに惹かれながらよみがえる。
切なくも哀れみ愛でる。
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虚空蔵菩薩・真如の月

2016-01-18 | Weblog
宗教、
虚空にある
ある一つの訓え。
‘ある一つの’であるが、
万事に通じて、
自由という真理より成る。
おそらくそれは、
この上も無くというまったりとした薄い衣に覆われているもので、
その膜より、稲妻のように絶えず煌めいて、刺激しているものである。
その膜は、あるでもない、ないでもないという陽炎のような素振りを成し、
漫然としてあり、虚空蔵である。
その刺激の一つが菩薩の様である。稲妻は道である。
あるでもない、ないでもないという陽炎の様な膜は真如である。
刺激の一つの稲妻、菩薩道に於いても真如を計り知れないでいる。
それは、真如が自由であるからである。
そのために、
自由をはき違えて、
無垢にしてある善悪を生み、浄化と為すも顚倒として浄化とし、
正義としてしまうものである。
それは、苦しむことが当たり前として、地獄を正当化するようなものである。
たしかに、真如は自由であり、善悪というものは無い為に、誤った浄化も
正当性を持ってしまう。

真如は自由であり、円運動の性質である。
そのために、あらゆるものが浄化となっている。
これが絶対善の動きである。
善悪が無い為に絶対善となっている。これが真如の月であることを知らねばならない。
宗教、
虚空より舞い降りし者の訓えであるも、
相対するものの選り分けに翻弄されるのは、
時間と空間の中に生きて、未だ途上にある心理である。
天空にあるものという神々に於いても、真如は計り知れずにいるものである。
ただ、自由が、浄く化けるという善にあることを、素直に受け取ることである。

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