つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

比比

2014-05-29 | Weblog
世の中の諸々は繋がりあって成っている。
単独でその能力に様々があるにしても、単独でそれが有益に働くということは無い。
また、無益にしてあるものでもない。正と負は持ちつ持たれつで、その有益無益に善悪はない。
相互依存、相互扶助的作用にしてある。
その比率が2:1、或は3:1、或は10:1にしても、1の力は対するものに同等であり、
また、以上にして成っている。ほんのわずかな心見(心見る意)で繋がっている。
だからと言って、1の力が偉大なのではない。
1の力は無益にしても、相合に有益で相互に害で無益に流れている。
打ち消し合いながら、肯定と否定が日和見にしている。
善い絆というのは大事である。
善い人に出逢うというのは大事である。
それぞれ、どこかで繋がっているものであるから。
単独とはいかなるものか。そう思うだけである。
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易くして難儀も心一つに

2014-05-26 | Weblog
大いに要となるものも、普段、普通にしてそこいらにただ紛れているもので、
あまり誰も気が付かない。
それは、ダイヤにも似て、或は、ゴールドにして希少なものであり、益あるものとなるのだが、
変哲もなく転がっていて、誰も誰も見いだせない路傍の石のようなものとなっている。
変わり種をした気を持っている、そもそも憂いてなければならないものにして見出す優劣のものである。
見出すものと見出されるものとは、どちらも曖昧であり、とてもハングリーである。
その周波が同調するのである。似て非なるものとしてある世間に、以てして持つものの縁である。
稀と為すのも己の中の憂いである。路傍の石のように散らばってはいるものの、だから、
易くして、宇宙における芥子粒のように、なかなか難儀である。
己の思い一つに収まっているという難儀である。
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2014-05-24 | Weblog
世の中は優劣なるものが存在するが、
何かの目的対象の過程、目標について起伏するが、
それが必ず善悪としてあるものではない。
良し悪しというものは一定にしてあるものではない。
その時の条件によるものである。
そう捉えて、何かに優れたものでも何かに合っていなければそうはならない。
或は、万能にして優れているものが、全てであれば、すべて優れるかといえばそうはならない。
寧ろ、何ら効果なく或は、何ら逆な果を示したりする。

拮抗してあるもので上手く計られているために、優劣として挙げられるものが、それ自体存在して成っているわけではない。

個性というものは、大事である。
皆が一斉同じくあるというのはまた不自然である。そういうふうに見えていて、そういうふうにあるものではない。
自然は乱雑であり、また、整然としてあるものであるから、それに習うが肝要である。
優劣などどこにもなく、すべて同等にして、また、相反入れ替わったりしてあるものである。
それは、時にはかられ、条件にして因にある。縁に付き、何よりも自由による。

いっ時を超えて常時としてはならない。それは、整然にして乱雑へ整然して、秩序となっている。
一時と常時もまた一つのものである。

いっ時として世はあるもので、常時として作るのが一時の世の役割。
いっ時の世に常時は作ってはならないし、作られないものなのである。
常時はこの世ではなくあの世であるためである。それが理解されなければ、
矛盾となって矛盾が何もかも間違いの基となっていく。
万有引力が世で成り立っても、宇宙では合わなくなるようなものである。

法は宇宙を作り生命を作っている。それを「是諸法」といい、故に、
ミクロもマクロも法で統一されたものである。
統一されたものである為に、法を知ることによってあらゆることが知れてくる。
時も、無もこの法というエネルギーによっての存在の有無である。
その法が「是」、日々私たちが見ているし、感じているものである。
円運動、それが自由である。エネルギーの由。
故に、法を超越して物事は存在しない。それが無である。

何事も度を超えてはならないのである。
過ぎたるは云々、過ぎるという字は過つとも読む。
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般若心経の訳

2014-05-23 | Weblog
如来の法を行じた観自在菩薩が、
五官による記憶のエネルギー(五蘊)がすべて空の世界(死後の世界)になっていくとして、
明らかにした時、悩める多くの人々は、一切の苦厄から解脱することができた。
舎利子は言った。
色の世界(この世)と空の世界(あの世)は少しも異なることが無く、同じ世界である。
五官による記憶の蓄積されたエネルギーが色の世界(この世)であり、人は死んでも色の世界が少しも変わることが無く、
そのまま空の世界となっていく。色不異空 空不異色であり、 色即是空 空即是色と、是(法則)によって輪廻していく。
人の生死が是(法則)によるものであるために、受想行識も亦是によって輪廻していく。
舎利子は更に言った。
是が諸々の法則である為に、死後の世界は不生不滅であり、綺麗とか汚いとか感情の動かされることのない不垢不浄であり、
不増不減となっている。
それ故、空の世界は、色のすべてが無くなることが無く、受想行識も無くなることが無い。
人の五官のエネルギーが無くなることが無い為に、意識も肉体も無くなることが無い。
意識が無くならないために、目で見た色も、耳で聞いた声も、鼻で嗅いだ香りも、舌の味わいも、身体で触った感触も無くなることが無い。
是が無くならないためである。
意識が無くならないために無意識界となり、空(死後)の世界は意識の現象の世界である。
空(死後)の世界は、是(法則)の世界であるために、地獄(無明)が作られると地獄(無明)の無くなることが無く、
無無明尽となって、無明が尽きて無くなることも無い。老死の恐怖が作られると、無老死尽となって、その恐怖が尽きて無くなることも無い。
恐怖の世界がつくられると、その恐怖の世界から解脱できなくなっていく。
この苦しみから解脱できるのは、苦の集滅道も無くなることが無い為に、
智恵で得た行為も無くなることが無く、その蓄積されたエネルギーも無くなることが無いためである。
それが明らかにされたために、智恵が悩める一般大衆の悟りへの道となって開かれた。
智慧が、悟りへの道となっていくのは、心の思いが智慧の思いとなって、心経の文字に礙げられることなく、想念の自由となるためである。
想念の自由が法則の自由である為に、法則の身に付いた智慧によって、心経の‘無’を‘無い’とするのではなく、
‘無くならない’と知れてくる。是(法則)が無くならないからである。
無が‘無くならない’となれば、地獄(恐怖)も無くならないとなってしまい、心経では悟りは開けなくなってしまう。
それ故、無くならないとする思いを一切遠くへ離して、顚倒して思い、
無くならないものは無いものとして、想念の世界、つまり、夢想の世界から恐怖を無くしていくことである。
恐怖が無くならないものであるから、夢想の世界に恐怖を作っていかないことである。
恐怖というものを完全に滅して、恐怖を想わない、判断しなければ、恐怖は一切遠くへ離れなくなっていく。
これが、悩み多き人々の、三世代にもわたる究竟の涅槃である。
故に、その世界こそ、三つの悪魔(三藐)となっている想行識が正されて三菩提となって、
誰でも身に付けていくことのできる悟りの世界である。
故に、法を大神呪とし、大明呪であるとして、この上無い呪であり、他に比べるものが無い呪であり、
一切の苦を除く、真実嘘の無いものであると、心経を呪として悩める人々、大衆に説かれていった。
説かれた時、悩める人々は即感嘆して叫んだ。
なんと美しい偈だろうか、なんと素晴らしい訶(うた)だろうか、
悩み多き人々よ、なんと素晴らしいではないか、悩める僧達よ、なんと素晴らしいではないか、
般若心経こそ娑婆の人々の悟りの訶である。
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縁起

2014-05-19 | Weblog
綺麗なものには綺麗が集まり、汚いものには穢いものが集まる。
善いものには善いが、悪いものには悪がとなるのである。
その過程には、一時一見反対な作用が見えたりするも、善にはことなかれとなり
悪にはおおごととなって、終には善は善、悪は悪となっている。
綺麗も汚いもまた同じである。

綺麗になりたいとして、夜更かしをし、タバコを吸って、妬んだり恨んだり、
いじわるをして、心が反対な事をしていれば、綺麗になりたいとしてますます汚くなっていく。
それをなぜ?どうして?と思うのは、甚だ哀しい。
縁という道理も知らないで、どうして願いが叶いましょう?
先ず、自分を戒めないで他人を矯正することなどありえない。
実に世の中というのはくもっていて、惑わされて迷うものである。
皆無知から来る。
法を知らないという一言に尽きる。
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錯覚・誤解

2014-05-18 | Weblog
私は、ほんの数週間前、この世とあの世の縁?をさまよっていたものである。
縁あってまだこの世の未練となっているが、昔なら100%あの世に逝ったであろうものである。
医療技術の進んだ時代に生まれていて助かっているため感謝である。有難いことである。

時代が進むにつれ、病も様々なになってきている。多種多様に人を悩ませるが、
それはなるべきしてなっていくような感がある。
嗜好のみを重点に置いてとか、便利のみに傾き、
不自然極まりない方面に傾いて行っているのではないか。
好い心地という一見の感覚にとらわれて進化して、甚深の思慮にまで配慮なされていかない。
あなたと私は同じ人間である。であるが全く別人である。
あなたと私をみる客体は、一見全く同じと見る。それは、
確かに同じように思い、同じように亦行動するものであるためにそう映るのである。
然し、
微細にして違い、得体の知れないものなのであるが、一種とまとめられる。
それは正しいようであり、一概ではない。
その様である為に誤解が生じて、最初は違和感が無いのだが合わなくなっていく。
最初も違和であるのだが気が付かないのである。そこまでの甚深が無いのである。
そうして間違っていることに気づくことなく、正しいものとして省みることが無い為に、
真実なることが理解されないで行く。そして、その中にたっぷりとつかり同化するのである。
私達の住んでいる地球が、恐ろしいほど高速で回転して動いていることに気づかないのと同じである。
寧ろ静まり返っていて、静止してるように感じるからである。この事実を疑うことなく、
また現実にそう捉えられるために、そうでないとすることに、相手にしない。

催眠術というのがある。それにかかる人は知識の多い人ほどかかりやすいといわれる。
それを確かめると確かにそうであると明らめられる。
催眠にかかった人は、ジャガイモをリンゴであるとして掛けられれば、
それは確かにリンゴとなり、リンゴに見え、リンゴの感触であり、味までリンゴの味になる。
周囲の人から見ればジャガイモはジャガイモであるのに、本人はリンゴであると信じて疑わない。
錯覚しているのにそうは思わないのである。
であるために、催眠をかけられた人は、催眠をかけた人の自由に動かされていく。
自分の意思などあっても無いのである。「あっても無い」のである。・・・・
…さて話はそれるが、このことを利用して、病の克服というものにも応用は効いてはいくが、臨機応変にある。
一概ではない。

‘想い’という事に馳せれば、「念」も‘おもい’である。
念うこと、つまり、考えること、念じること、心の中で思う(その実現を)は、唱えることである。
念じるという事は、願い祈り唱えるとなる。
「信じる」ということは、疑わずに、真実と思い込むである。

仏も神もこう言う。疑わずに「信じる者は幸い」であると。

一心に願い祈り唱えていけば判断は停止されていく。何も考えず一心念じていくために、
恐怖が判断されなくなっていくのである。そのために、恐怖から離れられたとなって救われたとなっていく。
想いもエネルギーである。そのエネルギーが判断の停止となっていけば、正しく行為の転換とならず行き場が無くなっていき、
念じた現象の自由となっていく。現象の自由に振り回されていくのである。そのために、神仏が現れたとなって驚き、
その現象に右往左往となるのである。それは現実ではない。催眠のような錯覚なのであるが、気づかなくなってしまうのである。
そして、祈り念じることが正しいとなって、一生唱えなければならなくなっていく。
祈り終えれば元の木阿弥となってしまう。何ら変わらない現実が待つ。そのために、また念じ祈るのである。
それは恐怖からの解脱ではない。真実の解脱ではないのである。
まして、現実が恐怖となって地獄の世界となっていることに気が付かないのである。

信じることは念じることとは大いに違う。
信じているために、現象に振り回されることが無い。お分かりだろうか?
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この世のあり方を見て

2014-05-17 | Weblog
一つ、ほどほどという事を思う。
ほどほどにが程度良好なのである。
何かに突出してよい作用をするというものが、それ自身だけで為せるということは無く、
拮抗するものがあって為されていくものである。そのため、度が過ぎて、
例えば、あまりにも頻度が高く全体を占めてしまえば、逆の作用が働いて、
顚倒したものとなってしまう。
あえていえば、使い方の度合いである。適量、適切、適格、的確になければ転じて逆を与えてしまう。
日和見という言葉があるが、比率が度を過ぎれば、どちらともつかないものが、
過ぎたもの、つまり、多勢になったものにか加勢するのである。そのためより比率が崩れ、
全体が滅んでいく傾向になる。良い加減というのは要である。

良いも悪いも傾いてしまってはならない。この世に於いては、同等存在であるためである。
あの世に於いては、どちらか一方しかない。だが、それも釣り合っていて別々にという有り方にしてあるのである。
そのことを理解できるのが、混在してあるこの世のあり方である。
利点であり欠点であり、難点の振り子である。その果は、
あの世にて止まる。すでにこの世にて予められるが、それを知って振り子を動かせる人は少ない。
良いものが希少であるのと同じように。

稀なる優れた者になれるだろうか?それに答えているのが般若心経である。
凡人の為の、故に優れた訓えである。突出した忍耐もいらない。信仰もいらない。
神仏を必要とせず修行もいらない。そこいら中にいる自らを卑下するものであればこその訓えである。
子供のような純粋な心のあり方で見られるだけでよいという。
それを、「気の持ちよう」と言って聞かせて、理解できる人は一人で歩けるものである。
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補う不思議

2014-05-16 | Weblog
サヴァン症候群という知的感覚に障害がある人がいる。
障害があるのだが、そのある反面、特殊な能力を有している人がいる。
その能力は神にも通ずるもので、神格的能力である。
劣なるものの優なるもの、
優るものの劣るもの、その最中、天才は馬鹿にして多くを瞬時学び得るのである。
馬鹿である為にである。それは、生きるための死にあり、それは、
死ぬための生きるためである。
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経世済民であるはずが・・・

2014-05-15 | Weblog
年寄が多くなって若者が少なくなってきている国である。
死んでいくものと生まれてくるものの数が逆転して、人口がどんどん少なくなっている。
経済社会は、生まれるにも金がかかり、生きていくのにはもっとかかり、死んでいくのは生まれた時よりかかる。
普通にして、経済優先社会での一生というのは、金は命であり、命は金にかえられている。
金の無い奴はゴミのように扱われ、ただ蔑まれる。して、人知れず死んでいくのである。現実である。
金のあるなしで、命の長短も程度計られる。哀しいものである。
そのために、金をめぐって諍いが絶えず命まで突然落とす。
馬鹿と阿呆が絡み合い、嘘偽りでもって金の奪い合いをする。
浅ましく醜いものである。金というものは、人の心まで変えてしまうが、
別に金が悪いわけではない。
金というものを作った人間が悪いのである。だから、悪い者を作ったためにその悪によって害されてしまうのである。

こんな話を何かで読んだことがある。新聞だったのか、雑誌だったのか忘れてしまったが、
こんなことが書かれていて、なるほど納得したものである。
引用すると、
「経済は、経世済民を意味するように、経営というものは人を救うことなのだ。
つまり、
社会貢献やフィランソロフィー(慈善、博愛等々)は、そもそも企業経営のあるべき姿なのである。
現在では、そのような考えが廃れてしまっている。
宗教は死者を弔うのが生業となっている。
死者をいくら弔うからと言って、世の中がよくなるわけではない。
生きている者達を守ってこその宗教なのである。

企業は人なりというように、国もまた人の礎なのである。それが、
これといって企業経営理念も無く、ただ、経営者の私利私欲、利益のためにのみ
企業設立が多く、働く者たちの生活を考えない、省みない。
年間四万人に迫る自殺者の多くは、経済から来る健康害と生活難、苦によるものである。
自ら命を絶つ国は、それこそ国益に反するものである。」と。
まったくもってその通りである。

企業が、働く者達をただ単に道具として扱えば、やがてあちこちに歪が出てきて、
立ち行かなくなる。
何にしても、役人やら経営者という上に立つ者?が私利を追い求め嘘八百、あの手この手と欺いていくことは、結局のところ痛い目に遭うのである。
それが今の経済社会国家である。
ある団体が生き延びるために(いい思いを独り占めしたいために)本音と建前をうまく(ズルく)使い分けて
欺いて生きている。近年ブラック企業などという言葉が使われるのも、人を道具として扱う私利私欲の企業が数多く増えているためである。
結果的にそれが全体を滅ぼしていくとことを少しも理解しない。
世は廃れていくのである。それはどういうことか、他の生物ですら本能で皆知っている事柄である。
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不自然・悪の進化

2014-05-14 | Weblog
病気にならないために極力食べてはならないもの。
人工的に操作されたものである。
化学的に作られ、本来自然界には存在しないものである。
例えば、
ショートニングオイルとかファットスプレッドとか加工油脂、マーガリンの類いである。
これらは人工化学的に作られた脂肪酸である。それをトランス型脂肪酸という。
これらの油は植物性であってもほぼ体には毒物である。
ほとんどの菓子類、揚げ物に使われているのが現状である。それは、口当たりをよくする
カラッとしたサクサク感を与え、ただ美味しいという印象の為だけで使われている。
美味しいと思えば売れるからである。
家庭で作られたものより、お店などで作られた揚げ物や菓子が美味しく感じられるのは、
トランス型脂肪酸が使われているためである。
そのトランス型脂肪酸は、体の中に入れば悪さをする。悪玉コレステロールというものを増やし、
善玉コレステロールを減らし、細胞壁を弾力の無いものに変化させていく。
そのために、心臓疾患に陥っていく。心筋梗塞やら脳梗塞やら血管のつまりがあちこちで起こってくるのである。
近年、そのような病が急増しているのは、不自然なものを体に取り入れてしまうためである。
体内が癌化していくのである。

ただ美味しさを追求するあまりに、化学的に操作を加えられていく。
微細に体の中でどのように変化していくのかもあまり考えられずに、ただ不自然な美味しさ、見かけを求めるあまりに、
或は、商売として儲けるためだけに重きを置いていくために、良いとか悪いとかが感触だけにしぼられ計られていくためである。
得てして、年だからということよりも、なるべくして病に侵されていくと言うようになっている。

ショートニングは「shorten」=「縮める」「もろくする」など意味を持つもので、
それこそ、命が縮められていくものである。

近年、作られている野菜、植物についても同様なことが云える。
農薬散布が行われ、肥料を施し、病害虫対策に余念無く、見栄えと大量生産に力を注ぐ。
そのため、遺伝子操作が行われ、自然的でないもの、つまり、不自然なものが出来上がって
ほとんどそういうものが商品として販売されている。そのために、野菜、植物が本来持っている栄養素がかなり減っていて、
微量にも残された薬物が体内に摂取され、あれからも、これらからもと不自然なものが体内に取り込まれて苛める。

F1種という種の繋がっていかない一代限りの植物、品種が現在のほとんどを占めている。
それは、自然から見ればまことに不自然なものなのである。これもまた、儲けという商売優先、或は、手間を省けるという点から来ている仕業である。
簡単に言えば、種無し云々という果物があるのは、食べやすいという事に注意が注がれて作られたものである。本来それは奇形なものである。
自然なサイクルではない。
そういう不自然なものが長年体内に入っていけば、さて、微細にして処理をしていく体内が
どのような反応を示していくだろうか?
不自然なものを自然が正しく処理できていくだろうか?

さて、生きていくために経済を作り、損得で計られて物事が成り立っていけば、
それは不自然である。自然に損得が無いためである。
不自然なものは必ず崩壊していく。それが道理である。
どんなに経済が発展し科学が進歩しても、不自然に進化していくものは絶対という中に滅していく。
その過程は、苦しみながらである。
それが、同化にあるために、何もかも顚倒してしまい、正しいものであるとして疑問にもならなくなっているものである。
必要悪というものは自然には無いものであるから。
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