今生の不幸が前世の業より与ったものであるなら、前世の生き様が悪かったことになる。
そうすると、今生幸せである人を見て、前世の生き様がよかったからと見てしまい、当然、その人は、
善い生き方のできた人、善い人に違いないと解釈してしまう。
だとして、自分は不幸を地で行っていると思うなら、前世、善からぬことを生きてきた罪人と解釈し、
今生の不幸を釈然としない気持ちで生きなければならなく、更に悩み落ち込んでしまう。
前世、どんな罪を為したのだろうと、哀しくなってしまう。
今生の幸不幸が、前世の業によって、
おぎゃと生まれた罪のない体に背負わされるのは、縁起の法則と言えども、間違った解釈である。
エネルギーの法則は、永遠と繋がっていくものとなっているが、一旦と区切りをもって繋いでいる。
昨日と今日が同じ一日であるが、全く新しい一日となって繋がっていくように。
浄化されて繋がっているのである。所謂、白紙態となって回りゆくのである。
それが、様々に長短をもって繋がるものである。
たとえば、時間に一秒、一分、、一時間、一日、一週間、一ヶ月、一年、或いは時間のゼロ等々等、
あるなしは自分の思いの自由である。
連綿が、全く同じを引きずるとするもしないも心の捉え方に過ぎない。
心はエネルギー、始終は存在せず自由なのである。
宿命と運命も、縁起の法則の捉え方の自由。
宿した命は、人生として命を運んで行くことによって変わってい事ができる。
どう命を運んでいくかによって、つまり、人生をどのように生きていくかによって、
幸不幸の思いは変わっていく。自由である。
エネルギーの法則は、浄化である。
一旦がゼロと言い、浄化となり、繋がっているから永遠となる。
ゼロは曖昧であり、以って、中が膨らんで空ろであることを意味する。これを自由、
空中、空間と言い充てる。
だから、「空」は「空しい」とも読み、」「から」とも読み「うつろ」と読み「そら」(宇宙)として、
「あの世」、「天」国と「地」獄を指す。曖昧として自由からきている言葉。
だから、自在菩薩の説いた般若心経の「空」は「あの世」という意味なのである。
空しいとした幻の意味で充てられている文字ではない。
死して「この世は即あの世となり、あの世もまた即この世となる」「色即是空 空即是色」であると、
輪廻の法則であることを説いている。
つまり、エネルギーの法則が回るが故の永遠の法則となっていることを説いているのである。
死んで、浄化となってあの世とこの世を繰り返す。間違った浄化とならぬよう、
エネルギーの法則をよく理解すれば、道理を知り、知れば間違いを起こすこともなくなり、
その道の徳となるために、道徳と言い、道徳を学ぶことこそ人生の最も大事な教育となる。
道徳を理解する人こそ頭の良い人である。
頭の良し悪しは、勉強のできの良し悪しではない。道徳を知らないために、
頭がよくても悪いことをする。昨今のニュースはよくそれを示しているはずである。
あの世に行って、今生の罪を償い、無垢になってこの世に還る。
そして亦・・・
だから、天国と地獄がある。
業の報い、この報いが報われるとなるのか報いとなって現れるのか、自分の自由からくる。
今生の立場は、前世の報いというのではない、
魂の根性、意地の浄化に為される試しである。
立派な立場にある人は、それだけ重い罪障、罪状を受ける試しにある。
ある意味、とっても恐ろしい人生を与っている。
心の真実が、あまりに曖昧にあるためである。が、その人生善く貢献すれば、
三世、天国を享受する。