つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

老いるということ

2013-04-30 | Weblog
老いるということは、
人生経験豊かということでもある。
その場の雰囲気を察して身の振り方を覚えてきた。
様々な時の流れに出会い、場の相応を覚えた。
それなのに、気が付くこともなく年だけをくい、
頭髪が白くなってもその場の空気も読めずに、心配りのできない人がいるとすれば、
それは、ただの老いぼれといわれる。
ただボーっと生きてきただけで、まことに蔑まれる人である。
していただいてばかりで生きてきた人で、してあげることのなかった人である。
人生、老いていくならば、少なくとも
年相応にあらねばと
つくづく思うものである。

ケチな人というのは、すべからくに浅ましい、
行いも品がない。もちろん、それなりを報うだけで、
報われるということはないものである。
恥ずかしく老いるな!
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どうかしませんように

2013-04-28 | Weblog
死ぬということがどういうことなのかわからないために、
生きている間にとして好き勝手をして生きる。わからないということは、怖いもの知らずということでもある。

この世限りであるとみるありのままは、ありのままに見ているというのではないために、
誤った思いで生きて、好き勝手をして生き、死ぬ頃になって悔やんでしまう。
あの時あーして生きればよかったなぁとか、こうすればよかったなぁとか後悔してしまう。
まじめに生きたとか不真面目であったとかということは、死後には関与しない。
無知であったか否かである。
ただ歩いていたらたどり着いたというのは、着いたということではない。
知らないでやっていたことが実はよかったことであった。そのために、好ましいことに出会ったが、
知らないでやっていたことであるためのたまたまであるために、いつでもひっくり返る。ただ、
実はよかったことであったということに気が付いたことが要である。
‘気が付く’ということで無知が克服されていくことになるためである。

よく道理を見て生きる。

私たちは日々道理を見て生きている。自然が道理であるために、自然がどのような振る舞いをしているのか
見ているのだが、常であるためにそういうことにあまり気が付かなくなる。
春夏秋冬、あるいは常夏、あるいは常冬と常を見ているが、常であるために常に同化して気が付かなくなってしまう。
すべてに変化はしていて、常では無いことが常である。
常夏にも巡りはあり、常冬にも巡りはある。春夏秋冬という常である。
それを見て、ありのままに春夏秋冬を観じ、常夏を観じ、常冬を観じ感じてしまう。
窓ガラスに結露して、外がまともに見えないように、
常に何かしら動きがあってのまともを見る。

瞑想という静が絶え間なく働いて動を見る。まともが見れてくる。
何もかもが常に変化していて、それが、なくなるわけではなく増えもしないし減りもしない。
死ぬということも同じである。
気が付くと、昨日の私は今日の私であるも、確かに昨日の私ではない。進化した私である。
昨日までできなかったことが今日からはできる人になっている。
動くということは進化である。動かないということは退化である。
動くという静と動かないという動とには、
自発的と強制的とが現れる。
選択は自由であるが、無知からは常に強制的が現れる。
それは耐え難い苦しみとなるが、気が付く人には共生の中にあるものとなり、
耐え難いということは無くなる。苦を消し去る苦となるために。
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変わりはない

2013-04-27 | Weblog
智慧というのは道理から学ぶもので、
他人から受けるものではない。
他人から受けるのは知識であり、そうなんだと思うだけのもので、
身に付いたものではない。そのために、いつしか忘れてしまう。
そうなんだと知って予めてあるだけで、実際に経験して初めて分析
分別がつく。それは、人それぞれ異なるコツというその人特有の感覚にあり、
そのため、覚すにとどまる。
智慧となっていくのはその過程にある。
一度智慧となれば応用過程が利き予められてくる。
不思議となるのである。
全事柄に正しく対応となっていくために、迷う無駄がなくなる。
直観という感覚が備わるのである。
智慧の身に付いた人というのは優れた人である。
その知恵をもって訓えているのが般若心経である。

知恵はこのように使えと、(心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顚倒夢想・・)訓えている。

思いは自由であり、心経の文字にさまたげられるものではない。心経の文字を解するのも思いの自由である。 知恵が身に付けば、道理が無くならないから、心経の文字の無も無くならないとしての無であるとわかってくる。
ゆえに、恐怖も無くならないとなり、悟りが開けなくなるが、道理をよく見て死が正しく解されれば、善悪の顚倒した夢の世界が正されて、恐怖は一切
遠くに離れていき恐怖が無くなっていく。
恐怖からの解脱が悟りであり、生命の目的である。

知恵をもって判断していけば誤りのない判断となっていくために、
よく道理を心得て、道理に学んでいくことである。
ありのままにみて、繰り返している。それは、今日は昨日ではなく明日でもないが、
同じ一日である。
全く変わりはないと見る一日。
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誤解

2013-04-25 | Weblog
「はじめに言葉あり」と聖書は作られていった。
この言葉が神のお告げであるとして、神の国が作られ神の愛が語られていった。

キリストが聞いた言葉は神の言葉ではなく観音による啓示である。
もとは人であり、修行によって観世音と呼ばれるようになった人のあの世からの言葉である。
キリストの修行によって縁となり啓示となって語られたのである。
真実は一つであり、いくつもの教えがあるわけではない。
幾つもの宗教があるのは祖師によるもので、場が違えば育ちも違い、風習も違って、
同じことを聞いたとしても、それぞれに解釈の仕方が違ってくるためである。
思いの違いによって幾つもに分かれてしまう。
真実は一つである。一つのところから一つのものが語られたものなのである。

法則を超えるものはなく、神も仏も法則の下の存在である。
もとは人であり、愛も人の愛であり神仏の愛ではない。
釈迦もキリストも神仏の愛など語っているのではなく、人の愛を語っているものである。

愛するものが愛するものに為す行為を語り、その「愛するものとは」を教えているのである。

人の無知による誤解で、幾つも教えが作られた。
それは、死というものの無知から起こり、生命にたどり着き、法則にたどり着く。
法則にたどり着けば、無知は無くなっていく。
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異変に思う

2013-04-22 | Weblog
風薫る五月、一つの危機的事柄、異変は起こるが、
様々なる智者が、その力をもってして阻止するために、とりあえずは大事に至らずに、
日常的に事柄は過ぎていく。何かの瀬戸際は智者が抑えているお陰様である。
まったく、ある一部の優れた者のお陰で、均等は保たれているのである。
途上にあるものは、それを知る者と知らずにいる者とに分かれる。
その本性がどこから来るものなのか、否定と肯定の瀬戸際は自由によるものである。
自らに由るものである。
異変は、今一度を問う。
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柔軟

2013-04-21 | Weblog
この世の中は凸凹があり、合わさって平坦丸くなる。
男と女を見てもそうである。単独で完成されて存在していても
かたよったものとしてあるために、それだけでは長く存在とならない。やがて消えていくものとなっている。
単独で完成されているように見えているだけで、ありのままに見るというのはそういうことではない。
単独であるものが、それを取り巻いているものとどう係わってあるかという取り巻きを見て、ありのままに見るという。
ありのままに見て、確かに完成されたものとしてあるように見えるが、
よく見ればそうではないことに気が付く。
一つの部分としての存在であると気づく。
つよくかたいものが案外もろく破れてしまうのは、ありのままに見て大丈夫と思っても、
柔軟を持たないという欠を見逃していることにある。それは、
相対をもっていなければならないことを知らないためにある。剛柔あわせもっていなければならないのであるが、
かたくて強ければ大丈夫とみてしまう、ありのままに見ていてありのままに見ていないことにある。
自然は、道理は、相対である。併せ持って平坦となり円満となっている。

ある部分のある一部分と気づき、ある部分を見つければ
礙(さまたげる)もののないものとなって、自由気ままとなる。
円満な容、道理の容となって存在する。

水はその都度入れられた物の容になるが、ありのままにみれば道理の容、円満である。
心模様もそうである。さまたげられるもののない空中に漂えば、自由の容、円満である。

こうであるという型にはまるな、柔軟になれ。自由の容が手に入る。

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偶の然り

2013-04-20 | Weblog
偶然に遇うもまた然り。

真四角は自然にはできないものである。
全く皆無というわけではないが皆無に等しい。
直角が一つできたとしても、四角ができるという偶然は無いものである。
全く無いというわけではないが、それはあまりに稀有なことであるから、
無いに等しい。それが自然というものである。それゆえ、
人工的なものというのは不自然なことであり、意図されたものである。
有難いこと有難いものなのである。

自然は道理であり、よく道理を心得扱えば不自然ではなくなる。
人もまた自然の産物であるからである。だから、
自然の産物の中にはすべての可能性がある。
しかし、よく道理を知らないで企てられ作られたもの、
つまり、一つのもののための有利を重んじ、他を損ねるものであるなら
不自然となり、淘汰されていく。
人工的というのは有難いものなのであるから、唯一人有利として作られてしまえば、
害をもたらすものとなってしまう。
人工的創造物というのは、諸刃の剣となるのである。
自己中心的に扱えば刃を向くのである。
偶は必をもって然り。
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選択

2013-04-18 | Weblog
昨日ご飯を食べたから今日は食べなくてよいということはない。
昨日したことを今日も繰り返して生きている。 そうして、
何度も何度も同じことを繰り返して、
「生きている」という。
生きるということはそういうことである。

毎日毎日同じことを同じように繰り返す。
廻るということを知る。
このことをよく理解して、あらゆることに置き換えて思う。
善悪の分別がついてくる。
善悪も繰り返しによって分かれてくる。
もともとは善悪がないということが理解できてくる。
繰り返しが絶対となるために、間違ったことを繰り返してはならない。

法の慈悲の慈と悲は、知者には慈となり、愚者には悲となる。
慈悲の慈は愛となり、悲は苦となる。これも
自業自得の果でもあるから、探し求めて知者となれ。
「求めよ、さらば与えられん」である。
そう思わないのは、中途半端なためである。

ただ単に人は生まれてくるわけではない。
理由あって生まれているものである。
ありのままにみて、明らかに導きの手引きはそこらじゅうにある。
目で見て、耳で聞いて、手に触れて、思う。
どう判断したのかは本人の自由。それが、自業の自得。
誰のせいでもない。自分の選択である。
前後も上下も左右も逐一選択して生きている。
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ごまかし

2013-04-17 | Weblog
欲望をそそるものはやがてはゴミとなる。
それによって飾られたものは捨てられるのである。
だから、欲望を満たすな、かなえるな。欲望を買ってはならない。
買ってかなえば必ず捨てる、捨てられる羽目となるから。
欲があれば誤魔化される。
欲は出すな!

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自由という性

2013-04-16 | Weblog
若葉が香る頃、何事もなければよいのだがと思うばかりである。
しかしながら、人の無知なる罪は裁かれるのだが、
智者はあれこれと手を尽くし、その甲斐あって事無きを得るも、
何度も何度も裁きは繰り返される。智者はどこまで凌ぎ手を打てるのか?
何千年何万年と経た経験にその道理がどこまで合わさるのか、
不測の事態は智者も知らない。自然にはありとあらゆる可能性があるために、
対立しては敵わない、同化してはわからない。
客体というのも主体によるものである。
自分が自分を知らないように、自由というのは不思議なものである。
法の自由。
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