つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

無くならない

2009-06-30 | Weblog
死が生命のなくなることではないことがわかれば、
生きて、何のために努力があるのかも見えてくる。
何のために悪いことをしてはいけないのかもわかってくる。

世の中は円い。回っている。だから、巡ってくる。
だから、思いも円思考で、つじつまがあっていく。

目を瞑り歩くと、まっすぐに歩くことはできない。
必ず円を描く、その大きさがその人の領域である。

法則が円運動となっているために、なくなることが無いとなっている。
回る変化が「浄化」であるために、0から0にもどる運動となっている。
これがすべてのもと、円だからまわって縁となって連なっていく。
これがすべての創造のもと。
始まりが終わりとなって、終わりが始まりとなっていく。
常に、増えもしないし、減りもしない。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

簡単に思うこと、と・・・

2009-06-29 | Weblog
この世とあの世は、少しも変わることが無い。
人が死んで、この世は即あの世となるが、
それは意識の現象の世界となっていく。
経験の記憶が意識となっているもので、
意識の中に悪魔を抱かなければ、地獄となることは無い。
悪を意識することによって、悪が現象されていき、
悪のある世界となっていく、そのために、
地獄の世界となってしまう。
だから記憶の中に悪をなくしていくことである。
悪を意識しなければ、地獄となることは無い。
これが、心の問題であると心経は説いている。
ただこれだけで、恐怖がとりのぞかれていき、
恐怖が無ければ地獄となることがない。
心の問題であると・・・
死を恐怖としないで、希望の持てるものとしてとらえることであると・・・


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意識の中に現れて語っている

2009-06-28 | Weblog
般若心経は、啓示である。
あの世から語られたもので、
釈迦の訓えのとおりに修行し、
悟りを開き、観音と呼ばれるようになった人達の一人、
観自在菩薩によって語られている。
同じく、釈迦の弟子たちである舎利子と呼ばれる一人に、修行が
縁となって、その身に降臨して、身を借りて舎利子の口から語られている。
観自在菩薩が、舎利子の心の中に現れ、舎利子の口を借り語っているのである。
そのために、心経は、舎利子が大衆に向けて話している形に見える。
菩薩が舎利子に呼びかけているのではない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誤解してしまい・・・

2009-06-27 | Weblog
「摩訶般若波蜜羅多心経」は、
「悩み多き人々の心を摩くうたの経」という。
横文字である梵語を、経て文字である中国語の漢文に訳したものとして経という。
お経は漢文に訳されたものという意味でつけられている。
漢字一文字には、すべて意味があってつけられたもので、
ただ単に、梵語の発音が似ているからという意味合いで
つけられた文字ではない。
梵語の音写として充てられた文字としているために、般若を智慧と
訳してしまい、「偉大なる智慧の完成」などと読んでしまい、
ちんぷんかんぷんなものとなっている。
偉大なる智慧の完成とはなんぞや?
無とは、空とは、なんぞや?と、文字の意味合いにまどわされて、
心経は否定の経典であるとされて、
現実もすべて否定され、もともと無いものであるとなって、
わけがわからなくなって難解なものとなっている。
‘あるのにない’?どういうこと?・・誰も悟れなくなっている。
無になれとは死ねということと同じ、人は生きて、
けっして無になることはできないものだ。
仏様は、そんなわけのわからない難しいことを大衆に説いたのではない。
実に簡単でわかりやすく、人々が救われる方法を説明したもの。
ただ、心経の文字に惑わされないようにと注意までして。
だから、大衆の唯一救われることのできる訓えとなって、
突出して知れ渡った。・・・






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰でも悟れるものであるために最強となっているのに・・

2009-06-26 | Weblog
厳しい修行をしなくても、誰でも悟りを開くことができたために、
なんとすばらしい経典なんだろうと人々は歓喜の声を上げた。
それが、般若心経最後のくだりである「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経」
「なんと美しい偈(うた)なのか、なんとすばらしい言葉なのか、悩める者たちよ、
なんともすばらしいではないか、悩める僧たちよ、なんともすばらしいではないか、 般若心経こそ、我ら娑婆の人々の悟りの訶(うた)である」

このくだりが正しく解されないために仏の真言であるとしているが、
そうではない。
信仰も無く、宗教の知識がなくても
誰でも正しく理解すれば悟れるものとなっているために、
般若心経が説かれた時、悩める人々はあまりのすばらしさに歓喜したときの
言葉として記されたもの。
わけのわからないための真言などではない。
心経は難解なものであってはならない。
大衆に説かれたものであるために、簡単なものでなくてはならなかったから
、要約されて説かれている。
そのために、くれぐれも誤解して解釈せぬようにと注意までしているのであるが、
何百年も経つ内に、人々はその間違いを犯してしまった。
以来、誰も心経で悟りを開くことができなくなった。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんとすばらしい・・・

2009-06-25 | Weblog
あの世というのは、どんなに知ろうとしても
知ることができない。それは、一切反応しない世界となっているから。
人が死んで、いつの日か誰かの母胎に宿り、
再びこの世に生まれてくるまで、あの世にいることになるが、
あの世がどのような世界になっているのか、人は知ることができないために、
その世界を空白の世界であるとして、空と表している。
空の世界があの世であり、この世の世界を色の世界(物質)として表現している。
「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」
般若心経の一節である。あまりに有名なくだりである。
このくだりが、エネルギーの法則を表していて、
輪廻の法則である。円運動の法則である。
「色の世界と空の世界は同じ世界で、空の世界と色の世界も同じ世界となっている。色の世界は法則によって即空の世界となり、空の世界も法則によって即色の世界となっていく」・・・
「この世はあの世と同じで、あの世もこの世と同じである。法によって、人は死んで即あの世となり、あの世もまた法によって即この世となる」

人は死んで、あの世を介して再び人として生死をくりかえしていくが、
ひとつの人生からひとつの人生に移り行く間の世界をけっして知ることができない。そのために、あの世を生命の空白の世界としている。
一人一人の記憶の現象の世界となっているために、
神や仏といえども、その人の空白の世界を知ることはできないものとなっている。
その人の記憶の絶対世界となっているために、何者にも犯されることの無いものとなっている。
記憶がどのようにされているかで、あの世が天国となるか地獄となるかの違いとなっている。それを般若心経は心の問題であると説いている。
「心無罣礙 無罣礙 故無有恐怖 遠離一切顛倒夢想」と。
厳しい修行をしなくても、誰でも悟れるものであることがわかってくる。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・・・つづき、死んだ先

2009-06-24 | Weblog
生命に死がないために、人は死んでも亦生まれ変わる。
円運動であるために、
あの人生この人生と輪廻する。それは、その時の一つの
人生の業によって、輪廻の行き先が決まる。
ひとつの人生からひとつの人生に輪廻する間の世界が、あの世となっている。
あの世には、時間も空間も無いために、どのくらいの間
そこにいても、退屈となることが無い。
それは、一年ほどであったり、何百年だったり、何千、何万年だったりしても、
飽きることは無い。
時間が無いためであるが、それは、
どのように考えればよいのかといえば、夢の世界を思えばよい。
夢の世界も時間と空間が無い世界である。どんなに見ていても飽きることが無いように。
あの世は、夢の世界と同じ世界となっている。
同じ現象の世界、記憶の現象の世界となっているのである。
夢を見ているとき、これは夢であると思うことなく見ているのと同じように、
これがあの世であると思うことなく、人はあの世で生きている。
生命に死がないためである。
身が滅んでも、生前の記憶の現象の世界として生命は生きていく。
だから、
人は死んでも、まったくこの世と変わることが無い同じ世界となっている。
夢がこの世と同じように、あの世も同じとなっている。
これは、生命そのものに死がないために、
人は死んでも、変わることなくこの世と同じように
あの世で生きている。自分が死んであの世にいるのに、あの世と思うことは無い。
それは、人が生まれてくるときに、この世に生まれたと知ることが無いのと同じである。
生命は輪廻から解脱しない限り、あの世を介して何度も生まれ変わっていく。
それは、
円運動がすべての法則となっているために、
なくなることの無い動きとなっているからである。
因みに、苦しいといって、自ら命を絶った時、
死んだ先もそのまま苦しい状態のまま。
死の思いが幸不幸をわける。死の際、恐怖を思わなければ地獄に落ちることも無いだろうが・・・つづきはまた





コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死というものについて

2009-06-22 | Weblog
死を絶対の条件として命は生まれる。
どの生き物も死を免れることはできない。
そのために、
生命というのは、死ぬために生まれてくるものである。
死ぬために生まれるとはどういうことだ。と、
人の常識は思うが、死が無い人はいないのである。
それゆえに、死ぬためにという。ここに、重大な意味がある。
死というものに大切な意味がある。
なぜ、死ぬのに生まれる意味があるのか。

人は、死がよくわからない。
それは、死が人の経験とならないためである。
経験とならないものは、どんなに考えても理解することができない。
こうだろう、あーだろうと想像の域を出ない。
どんなに考えてもわからない為に、どう対処してよいものかわからない。
わからないものは恐怖となる。
そのために、死が絶対恐怖となっている。
人の恐怖はこの死を根源としてある。
すべての恐怖はこの死がもととなっている。
そのために、死が正しく理解されたなら、
それに正しく対処することができ、恐怖となることがなくなるはずである。

人を創ったのは神でもなく仏でもない。
法である。
満々とあるこのエネルギーの法則によってすべてが創られている。
生命も宇宙もこのエネルギーの法則によって創られたもので、
この法則を知ることによって、
死がどういうことなのか知ることができる。
法則にはそもそも恐怖は存在しない。善悪も無い。
ゆえに、絶対善の動きとなって、浄化の法則となっている。
すべてが、0から0にもどるものとなっていて、ただ繰り返す。
死が恐怖となるものでもなく、法則によっているだけである。

エネルギーが性質上、円運動となっているために、
この円運動が法則である。回ることによって起こる変化が
さまざまなエネルギーを生み、それぞれに対処したものとして創られていった。
人の死も法則にしたがっているだけで、身はなくなっても
生命はエネルギーであるために、死がなく再び生まれ変わる。
0から0にもどり繰り返すのである。・・・このつづきはまた・・・












コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自死

2009-06-21 | Weblog
今の世の中、お金があれば善で、
無ければ悪。
お金に殺されていく人たちがどれほど多いことか。
お金に縛られて、お金に使われて、
正しい心まで歪んで、お金に命を売る。
お金さえあれば助かる命も、無いばかりに助けられず、
命はこの地球よりも重いのだよと教えられても、
貧乏人の命はゴミのごとくに捨てられる現状に矛盾を感じる。
愛に満ちた言葉をかけられても、
言葉と裏腹、お金が壁を作り道をふさぐ。
人は、助け合うようにして生きているだけで、実際なんでも競って生きている。

生きることは一切苦しみであると説かれている。
だから生まれるな、転生するなと仏は訓える。

苦あれば楽ありと、ならば、苦しみの世の生まれを糧として、
苦しみから生死を悟り、一刻も早く安住の地に赴くために、
無知に依って生まれる、無知を無くせ。
この世に生まれた限り、苦しみから逃れられないことを知り、
ただ生きるな。
苦しみから逃れられるただひとつの稀なる場として、愛をもって
善行に励め。悲しみを持って労われ。貪るな。
いらない欲は捨てろ。執着するな。
地位も名声もこだわるな。お金のある人は、弱者を助けろ。
善いことをする人には善い人が集まってくる。
善いことをして、何にも益して自分が喜ぶ。
行く末に憂いが消える。
苦しみは、未来の希望のため、苦は楽を生むとして対処せよ。

あの世にお金はいらない世とし、ただ、
善行悪行の結果の、自分の思いの現象の世界となっている。
そのようにして、自死とする。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

我が身が大切ならば

2009-06-20 | Weblog
たとえどんなに窮地に立たされているとしても、
人を騙して、自分の利益としてはいけない。

騙される人の多くは、そのおかれた立場に追い詰められ、
もがき苦しんでおぼれかけている状態にある。
早く苦しみの思いより逃れたいと必死である。
溺れる者わらをもつかむというほど、正しい思考ができずにいる。その
救いを求める哀れな身を、憐れむことも無く、これ幸い、
格好の餌と騙して生きている輩がいる。
まるでくもの糸のように張り巡らした騙しのテクニックは、
迷える身に、
泣きっ面に蜂、踏んだり蹴ったり、という事態を引き起こす。

まんまと騙し得て、けだものは、してやったりとほくそ笑むが、
その後、とんでもない不幸が訪れることを、
真実知らない。

この世では、誰一人
死の無い人はいない。
日々、その事実に、刻一刻と近づいていくが、
それでも尚、人は知らない。

悪いことをする人の、この世の最後は、
あまりにも悲惨であると道理は示すが、
自ら省みることのないものは、救える手立てが、
ただひとつも無い。
本来、どうしようもなく馬鹿で、愚かで、厄介者である悪人こそ、
助けるべき対象にあるのだろうが、
馬鹿そのものであるために、訓えても自ら気づくことが無いため、
悪の報いをそのまま受ける。
その報いは、この世の苦しみの比にあらずといわれる。
しかたのないことである。
悪を縁としていく者の行き着くところであると、
誰一人否定したものは過去いない。これからもいない。

人を欺き、害するな。
わが身におきかえて、
単純に考えよ。
されて嫌なことはしてはならない。
嫌なことを受けて、学んび、
他に引き継がない人は、それこそ人である。
憂いの無い人となる。









コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする