つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ほこりほこる人

2012-03-30 | Weblog
起きて半畳寝て一畳、何人も同じく身の程必要空間。
裕福になって広大な土地を持ち、広々とした屋敷に住む。
使われることのない空間がそこらじゅうにある。
使われることのない物がそこらじゅうにある。
これもあれも私のものと誇らしげに語る成功者と呼ばれる人。
百円あったなら救える命が沢山あると報道される事実。
そんなことを知ってか知らずか、乗りもしない高級車が眠るガレージを
見せびらかし、誇らしげに所有者たる顔が語る。
‘ほしいものは何でも手に入るよ、金があるからね、もう欲しい物は今のところ思い当たらないほどだよ。’
何かの運があったのか、身の程知らずにその才能?ゆえの顔は、ただ馬鹿な顔に見えた。情けなく見える。
哀れな人というのは貧富に関わらずいて、この世の束の間を無駄に過ごして、欲好くとして
貪欲を語るのである。
この世は、時に、あの時はこの時はとした場を与えて様子を明らめる。
心根のほどを知りたくて。
今、どこまで自分を磨かれましたか?まだほこりも払われない旅の途中の途中?
未だ埃誇る人?あぁ~。

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今を謙虚に生きて

2012-03-28 | Weblog
今生、何不自由ない環境であれば、来世は
不自由となる。
禍福はあざなえる縄の如しといわれるように、
苦あれば楽あり、楽あれば苦ありである。それによって、
楽を知り苦を知り、その学びを知り、そして、如何に生きたか。
現環境に何も感じることもなく、
ただ甘んじて一生を終えれば、苦の人生はまた苦、楽の人生は苦となる。
なぜとして、過去に馳せて今を思い、良きにつけ省みて、悪しきにつけ尚省みて
謙虚に倹しく暮らせば、ただ未来世は明るい。幸福は幸福に、不幸は幸福にと定まる。
真に、今生は欺くことを覚えても、その果は正しく相応に現れる。後後後と三世も続く。
すべて後に現れる。
だから、今(時間)に胡坐をかくな。幸として驕るな、不として腐るな。なぜとして無知を打ち破れ。
それには、損得をはずして損を選び、他に尽くすのみである。
吾は貧しくて、他を喜ばせて喜びと知るなら、あの世も未来世も、ただただ明るくなってくる。
幸福を捨てれば不幸も捨て去られるものである。
善悪がなければ善となるようなことである。
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何気ない風景も

2012-03-26 | Weblog
一度読んでみて
気に入った本であるなら、何度も読んでみる。
時を置いて、また読み返してみる。
そして、また
時を置いて読んでみる。
すると、気づかなかったこと、とても大切なことがあることに気づかされる。
意味の180度違って解釈していたことがわかる。
はじめの一手が実に単純に見えても、幾通りもの手先のあることを見抜いている
奥深い一手と知る。
現れるものは、単純にして複雑が隠れている。複雑にして
単純に導かれ、答えが現れる。
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心の自由

2012-03-25 | Weblog
あの世というところには、善いところとそうでないところとの二つに分かれてある。
善いところには悪いことがない。そうでないところには善いことがない。
相対するものがひとつの中にあるという形ではなく、別々に相対して存在となっている。
地獄に仏はなく、天国に悪魔はいない。曖昧というのはない。
天の国として赴くのも、地の獄に引き落とされるのも、
心の質、自由である。悪人であればあるほど、虫のいいことを思うが、
悪人であるがゆえに、それは当然適うものではない。
虫がいいというのは、あの世にはない。
この世では、相対することが入り乱れて見分けられ、ごまかしもできる。
見分けられるために、はっきりと自由が分けられる。作られた
軌跡というのは消えることはない。相殺することはできる。
諸行無常を理解することなく一生を終えれば、
三途の川を渡るとき、手にする切符はいわずと知れたものである。
おぉ、神様!と叫んだところで後の祭りである。
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備えてあっても・・・

2012-03-24 | Weblog
備えあれば憂いなしという。確かにそうである。
が、‘自分だけは’とする心の人には、備えも役たたずに終わる。

何か大事が起こったときに、備えてあるとするためには、
大事が起こることを図らずも思ってしまう。
備えれば備えによって、その大事を誘導して、備えが正しく使われることがない。
備えは、わずかなわずかな時間しか持たないもので、すぐに力尽き絶えてしまい、まったくの無防備となってしまう。
自然という力は、人知の及びもつかないほど桁違いなものである。
物によって備えていても、わずかな延命でしかない。死ぬものはどんなことをしても死ぬ運命にある。

頼るものがなくなったら何に縋るか、自分しかいない。
結局、自分しか頼るものはない。その自分が頼りにならないとして生きていれば、
どんないい策を講じ、施しても役に立つことはない。自分を信じられずに
どうして救われることが起こるでしょう。
疑いを持つものには、疑いの事柄しか起こってはこないのである。
自分というものがいるのに、自分を否定して他に肯定を求めることは、
矛盾であるために、どんなことをしても、善い解決とならない。
死ぬものというのは、そんな生き方をしている人である。無知で生きている人である。
道理の無知からくるものである。
体が弱く、自分には力はないと思っていても、
人の世話にならなくては生きられない人でも、
生きている今という一瞬を確かに信じていれば、
実体の肯定となって、救われていく身となっている。
「喜んで」ということを知る。どんな際においても。

よいことも起こらず、かといって悪いことも起こらず、
何もないことがよいことなのだと知れば、
退屈も退屈ではないものである。有り難い事であると知る。
思いもよらず、大金を得たときがあったら、迷わず貯めずに分け与え、
使い切ること。それも、人にである。
幸あって、災いも等しくあるものであるために、日々の暮らしに進んで
努力(度慮苦)して生き、すれば、受ける災いも小さくなって済んでいく。
備えというのは、心に良心ということである。
最高の備えであり、備えて色あせることもなく、いつでも絶大な効力を示すものである。
特に、命の色あせる頃には。
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確定

2012-03-22 | Weblog
智慧をつけても悪智恵であっては
身の破滅へとつながる。
自然にはないものを作り出してしまえば
とりかえしができなくなってしまう。
理に適うことではないために、甚大な害となる。
どうか、驕りで
神の領域に踏み入れてはならない。
自然が
どうしてそのようなものとしてあるのかを知ることである。
素朴で飾らないものであるのに、美しく輝く。
あるものだけが突出して存在する姿を、
いまだ長く確認したためしがない。
一対一がすべてである。
度を越すものは必然滅する。
未来は、その様確定である。
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得する生き方

2012-03-21 | Weblog
徳を積みながら生きる。
誰彼をずるいとかきたないとか思うことなく、
ただ自分の行いに対して徳を積む生き方をしていればよい。
そうすれば、他の機嫌に振り回されてしまうこともない。
自分が一番可愛い、そう思うなら徳に生きなさい。
決して損になることはない。
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世迷ごと

2012-03-17 | Weblog
心の内を試されて、して偽善と暴かれる。
ゆえに、今後、地は揺れ天は乱れて、邪悪なものが近づいてくる。
是は、間をおかず正義を放つ。いましばらく
入り乱れて、非日常が繰広がる。

宇宙の法則は、ゼロに帰す浄化の法則となっている。
あらゆるものが高速で廻り動いて変化している。
生じては滅して、滅しては生じてと永遠に終わることのない繰り返しとなっている。
その高速の変化に気がつかないのは、同化しているためである。
一緒にめぐりながらの日常の変化の動きをしている。だから、
あなたも私も、かたちは変わりながら、エネルギーという根本に、
時間による経験を積み重ねて、新たとなって形作られ、生滅を繰り返している。
子供が大人になるように、同じ人物でありながら、少し面影を残して変化をきたし、
以前とは違う人となる。以前と同じ人でありながら。それは、
減りもしないし増えもしないということの形である。そして、やがて滅んで(変化して)、同じ人の中で、
まったく別人となってまた現れてくる。不生不滅という形である。
生前の経験によって、エネルギーは変化して、再び現れてくる。
空白の時の間を経てくるために、とりあえずの記憶が白紙となるが、心という性質に変化は生じ、
子供の根本の性格となって現れてくる。
どれほど経験がその人に影響しているかがしめされて、また、人生歩んで、その質の変化をきたす。
宿命にあり、運命にあり、変化をきたしていくものである。
運命は宿命によって歩んでいくものであるが、宿命はその運命によって変化していくものでもある。
どう生きたか、どのような経験も心の糧としてなされたならば、宿命も運命も
善いものとなって変化。ゼロという浄化の法に適い、害されるということから離れられていく。
それが、永遠に変わらないというゼロの世界である。楽という世界、天の国という世界、何者にも犯されることのない世界である。
宇宙の特異な点である。その点は二つ、黒い点と白い点である。世の中が相対しているのと同じように、
相対してある。
黒いゼロの点は闇であり、反の点であり、エネルギーの歪み、悲鳴の点である。一方、
白いゼロの点は光であり、正の点である。エネルギーの円満、寂静の点である。
この世と違うのは、正の中に反がないこと。
相反していても、正と反がそれぞれ別々に対してあるということ。それは、是であるために絶対である。

正義をして滅するものは、嫌なことにはよくあたるという
世俗の迷いごとがなくなる。
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哀れな人

2012-03-14 | Weblog
自分さえ良ければあとはどうでもよいとして生きている人がいる。
悪気もなく無造作に道端にごみを捨てていく人。どのような感覚で生きているのかと
恐ろしくなってしまう。この社会で生きている限り、少なくとも教育は受けてきているはず。
何を学んで何を学習してきたのだろうか。はなはだ疑問に思う。どこでどう間違えたのだろう、その人の心。
そんな人でも、いや、そんな人ほど幸せになりたいとして生きているのだろうが、自分さえよければとして生きている人は、
どんな細工をしても幸せになることはない。
幼いころに聞いた「くもの糸」の話、忘れているのだろうか?
自分だけ助かりたいとする身勝手は道理にはない。
他人を困らせて生きて、幸せになりたいなんて、馬鹿につける薬はないとはよく言ったものだ。
あまりにも悲しいかわいそうな人である。なぜそう言うのか、それは、業の報いは、必ずや受けるものであるからである。
受けるまでそれはついてくるのだから。良いことも悪いことも受けるまで無くならない
業の作り人が死んでいなくなったとしても、あの世で、あるいは、未来世で、受けるまで無くならない。
だから、罪はつくるな、
善いことはしなさい!
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助かる人

2012-03-13 | Weblog
良いことは分かち合い、倍になってさらにうれしい。
悪いことも分かち合い、半減してこれまたうれしい。
共にあるということは、喜びも苦しみもである。
良いときだけの共にと言うのは成り立たない。
自分だけは助かりたいという人ほど、災いから逃れられない。
そういうものである。
天は、助けるものを助けるのである。
これは、生命に終わりがないと知る人だけがわかることである。
是を知っている人である。
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