つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心念不空過 能滅諸有苦

2016-11-30 | Weblog
どんなに悟りを開いたとしても、
この世の中、同じ穴の狢。
五十歩百歩のようなこと。
しかしながら、
五十歩という違いは確かにある。
この世に於いては同様であるものの、
あの世に於いては、倍の違いも格段の差となる。
同じ穴の狢にしても、死後には決して無駄となることはない。
あの世の為に、今を生きているのだから。
格段の違いが歴然となるのである。
幸せとは、あの世の「為合せ」、仕合せである。

生は死の為にある。
悟ることである、この一生にて!


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善悪が無いということは?

2016-11-29 | Weblog
善いも悪いも現れていることが正義である。
苦しみも喜びも正義。
世は、現れていることを正しいとしてしまう。
だから、正義を正しく理解していなければならない。
善悪というものが法則にはないのだから。
自由ということの意味を、正しく理解しなければならない。
自分の思いと物事が裏腹にあるのは、思い違いにあるためである。
法則は、善悪は無いのである。
善悪は人の思いにある。
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善悪なし

2016-11-28 | Weblog
宇宙は、環状体状エネルギーである。
有限でありながら無限となっている。
あらゆるものが直線的ではなく曲線である。
そのために、矛盾はない。
直線的思考をするために矛盾が生じる。
宇宙は円である。
このことを理解すれば、
してよい事と、してはいけない事が明らかに知れてくる。

現象は、すべて正義としてあるものである。



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損得のない世界

2016-11-27 | Weblog
過去にも未来にも明日が来ないということはない。
この宇宙というエネルギーは永遠であるから。
無くなることのない動きとなっているためである。
それがエネルギーの円運動の法則の自由というものである。
無くなることのないエネルギーなのである。
だから、本来私たちが使っているエネルギーも無尽蔵なものである。
もちろん、ほんの百年ほど前には、人間も無尽蔵に作り出せるエネルギーシステムを開発していたものであるが、
損得に塗れた輩によって潰されてしまった。
宇宙のエネルギーは環状体状エネルギーである。
自由エネルギーである。
このエネルギーを取り出すことによって貧困は無くなる。
格差ということが認められなくなり、個々に於いての性格によって、
生活が営まれていくものとなる。
知的者の内の達っした種族は、格差の違いは持ち得ない。
そのために、互いに争うということはない。
格段に於いて、それぞれの使命によって営まれている。
優劣ということもない。
個々の性格、個性という質であてがわれてあるものである。
浅ましき者、格差を好む。煩悩具足にして修羅にある。
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間違いだらけの・・・

2016-11-26 | Weblog
凡そ、人間というのは、間違いだらけの習慣をもって生きているものだ。
今までやっていたことが常識としてみなし、その慣習に浸り暮していても、
どことなくとりえもないものとしてあり、時の流れに流されては、それなりに老いていくものである。
あそこが痛くなった、ここが悪くなったと一年と経つうちに、
思いと裏腹が顕著になり、仕方なさに明け暮れるのみである。そしては、直に
病に完全に倒れて、朽ち果てていくものである。肉体は悪化の一途をたどるだけである。
が、精神は同調するものではなく、老いにはのみ込まれないものとしてあるもので、
同調していくと思えば、ただ一途に老け込むものとなる。
多くは精神が肉体に支配されて、同一化していくために、何もかもが空しいものとなっていく。
健康な肉体に宿る健康な精神がそもそもではあるが、精神は肉体と離れて生きているものである。
だから、肉体の強弱にとらわれることなく、精神は発達進化できるものである。
人の思い、常識としている間違った想いが、肉体の強弱に左右されてしまっているのである。
肉体はただの肉の塊である。精神向上のための媒体に過ぎないもので、
それ故、大切なものではあるが、肉体が支配するものではなく、つまり、生命そのものではない。
それゆえに、 精神が生命であり、心が生命である。精神を鍛えて心の在り方を正しくもっていけば、
死というのが恐怖となることはなく、むしろ、生命世界確立の希望となっていくものである。
そのために、生命は死を絶対条件として誕生するものである。つまり、もともと人は、
死ぬために生まれることこそが真実で、あの世こそ生命の幸不幸の真実である。
この世は、死ぬための目的で生きていく世界となっている。
どう生き死ぬかが生命エネルギーの目的である。ちなみに、
苦しくて死んでいくものは、ただ苦を流転する。あの世もそのまま苦となっている。
無知にして、あの世が逝ってみなければわからないと、不安、恐怖を思えば、
心のままとなる。
ライオンがトラが、自分よりも弱いものを襲い食料としても、
それは、彼らの正しい行為であり、何一つその行為に悪意はなく罪はない。
以って、彼等には死後、地獄という世界は無い。
ただ弱肉強食の世界の流転にあるのみである。
同じ世界を行き来するのみである。
さて、
このことを理解して、人は、精神向上に努め励み、
死後の世界の幸福のために生きることである。
すれば、どのように生きていけばよいか、正しい判断ができてくるものである。
悪いことなど進んでしようなどと微塵も思わないものである。

多くは死後の世界の不幸を味わうもので、苦るしみの流転にある者として生きてしまう。
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祈らず動く

2016-11-25 | Weblog
一見よい事のように思うが、祈るということはいけない行為である。
祈って願いが叶うなら、努力なんて必要ないもので、
努力しないで得られるものというのは、ふしだらなものである。
だから、陸なことにならない。
なぜ努力というのがあるのか、世間を見ればわかることである。
努力したからといって、何のためしになるのかという人がいるが、
人生経験が浅い人ほどいうものである。
懸命に生きている人は、若くしても浅はかさは無い為に、
余計生き苦しいものであるが、決して努力の無駄となることはない。
努力の無いものは、求めない苦に陥るものである。
なぜ、祈る行為がいけない行為なのか?それは、「停止」の姿となるためである。

エネルギーの法則は、‘片時も止まることのない’という事である。

このことをよく理解していなければ、誤った行為となってしまう。
法則が示す道理、‘示し申す’事が自然である。
自然が神である。その神の正体が自由である。
各、各々に宿してあるもので、だから、山の高きに神を見出し、
海の青さに神を見るのである。虚空に計り知れなさを思い、
自らには感受するのである。
然るに、無知であれば、ただ先を行くものを神と決めつけるものである。
安易に!

人生は、易しいものではない。難しいものである。と、
どこかで気づくものは希望がある。

法則との摩擦とならないように、くれぐれも‘停止’してはならない。
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改心・戒慎・改進

2016-11-23 | Weblog
ポルトガルのファテイマの奇跡という事実がある。
遠い昔の出来事であるが、天空より飛来した知的生命体による仕業。
当時の新聞にも大々的に報道されて、未知なる生命体、宇宙からの来訪者の仕業を
目の当たりに見て、恐怖を覚えるとともに、
宇宙は他の生命体、それも
科学技術が高度に進歩した生命体のいることを確認できたものである。
その出来事一つとっても、地球人は宇宙空間の孤独な存在ではないことを知るも、
現代科学に於いてなお、宇宙には生命体がいるのだろうかと疑問視する人も多い。

第二次世界大戦で、日本国に原子爆弾が使用されて以来、特に
宇宙からの来訪者が頻繁に現れるようになったといわれる。それは、
愚かな者のあるうちに、安易に使ったことへの危惧の念いである。
確かに現代において、未確認飛行物体が現れたという報告は頻繁である。
それでも、宇宙には宇宙人なるものが本当に存在するのだろうかと、
生命探査に躍起になるも、確たる存在の証明に至っていない。
人間というのは、本当に愚かな反面を持つ。
日常という常識にとらわれていて、不可思議なことを理解する能力に欠ける。
そのような愚かな部分をついて、知的生命体はあざとく利用する。
さながら、宇宙は・世界は相対にあり、反するものの存在で理解する。
一つの中に対するものがあるものと、一つずつにして対してあるものとがある。
この世の中は、一つの中に対してあり、あの世は、天国と地獄の一つずつの対し方である。
この世の中の出来事に於いて、正しく理解しなければ、曖昧な中に生き、結局のところ地獄の沙汰である。
正しく理解するというのは、愚かであることの過ちを改心することである。
この世の中は、
生命世界の天国と地獄の別れ際である。
知らずして、曖昧な中に彷徨っては、地獄に仏を待つだけである。
有難い(あることが難しい)事となる。
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良く生きる

2016-11-22 | Weblog
謙虚であらねばならない。
常に謙虚であらねばならない。
けっして傲慢になってはならない。
高飛車になってはならない。
腰は低く頭は垂れて物事に当たることである。
心は素直であらねばならない。
下心はすべてを台無しとするものである。
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マインドコントロール

2016-11-21 | Weblog
随分と昔から、地球は他の惑星から飛来する生命体の支配下にある。
それは、
神と呼ばれ仏と呼ばれ崇められている。
今もって彼らの支配下にあるが、
多くは、そんなことは知らない。
巧みに操られて、彼らの意のままにされてきたが、
その呪縛も解かれようとしている。

エネルギーの法則は、円運動の自由から成っている。
そのために、どんな力もこの自由を侵すことはできない。
束縛するものは、やがて淘汰されていくのである。
その道理を知って、知的生命体は強制的手段はとらない。
マインドコントロールという方便でもって、自主的とする。





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不可思議なものである

2016-11-20 | Weblog
あまりにも日常とかけ離れている出来事は、
これは幻想なんだと言い聞かせる。幻像なんだと否定する。
不可思議なことは、なかなか人目につかないところで起こる。
だから、たまたま遭遇したとしても、遭遇したことを話しても信じてもらえず、
話した人が批判されるものである。おかしなことを言い始めた、気でも違ったのか、
などと変人扱いされてしまう。そのため、
人は、不可思議なことに対して遭遇しても、あまりしゃべったりせず
無口になるものである。
そのような意識があるために、
その意識をうまく利用して、不可思議なことは意図されて、ごく限られたものに現れる。
だから、ただ巷でうさん臭く広まるだけで、笑止に留まることが多い。

人は、不思議なことに興味を抱き、解決しようとするものであるが、
未知なるものには恐怖を覚えるために、ごく狭い範囲で解決を図ろうとする。
それがよいのか悪いのかは、人の歩んできた歴史を見ればわかってくるのだが、
日常というのはそれをあやむやにしてしまう。 

ある動物には、ある一定の数を超えると、一匹が覚えたことがその種のすべてに記憶されて、
覚えてしまう質を持つ。

人間は、宇宙広しといえども稀に優れた才能を有した存在である。
素早く神に達するほどの能力を持つ生命体であるために、それに危惧した
煩悩具足にある生命体が意図して、まだ赤子の内に少しばかり遺伝子操作を行った。
が、生命エネルギーは不思議なものである。自然に回復を見るのである。
ある出来事により、俄かに復元される時期が来ているようだ。
地上のいたるところに広まる不可思議なことに眼をもてば、
然ることが知れてくるものである。
気づくものだけが翼を持つと覚られる。
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