つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心に翼

2019-03-31 | Weblog
ほぼ完ぺきに洗脳されていて、
隷属にあることに疑問を持たない。
飼い主に従うことを喜びとする犬のように、繋がれた鎖を自由と思う。
毎日毎日、従順に働き、家に帰ってテレビを見て眠る。

耳で聞かせ眼で見せて、情報操作は巧みに洗脳していく。
教育という名目を付けて自由を奪う。
操られて孤独を恐れる。
もともと一人で生まれ、独りで死んでいくことの当たり前を忘れて、
縋ることの安心を植え付けられ、周りに振り回されることで孤独を克服する。

そんな私達には、心の翼が生えない。
善悪転倒の世の中だから、戦争は無くならない。
もし、
無くならないものは無いものとしての都合をつけられるなら、
翼は心に生える。あなただけの翼である。
自由気ままに虚空を飛び回れるれ。
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無の知から

2019-03-30 | Weblog
昼夜の違いが男女の違い。
陰陽は相対で一つ。
平等、同一、表裏は一体にして存在である。
どちらかだけというのは道理ではない。

こう言えばあー言う、あー言えばこう言う。
何かを言えば賛成と反対があって当たり前である。
全く反論がなく、全員賛成というのはむしろ道理にしておかしいもので、
全くなく通っていくことは、後々修正に辿る。

時が経てば、白黒はなく無色が現れるが、初めから無色にあるも、
白黒無くして無色には辿り着けないのが存在である。
頭脳に左右があり、右は左側を司り左は右側を司る。
どちらにも等しい能力があれども、それぞれに長短があり、長短はそれぞれにまた長短を補なう。
そして、等しく同一となっている。優劣などない。優劣を持つのは無知からである。
無知を破るに時がかかわるが、拘り(こだわる)を持たずに、想像を司る右脳を駆使するなら、
時を経ずに繋がる。
左はこの世のエネルギーの流れである。右はあの世のエネルギーの流れである。
この世にある今だから、右の流れのエネルギーとするなら、神通力となっていく。つまり、
観音経で説かれる観音力となっていく。「彼の観音となることのできた心念の力」である。
なるべく想像で読み解く(受ける)ことで理解は得られていくために、想像力を高めることである。
この世は受の世界、受想行識の世界であるから。

左で考えていては常識に囚われて、膨大な時間を要してしまう。それこそ、
どれだけ輪廻して悟れるかということになる。
量子は、曖昧ですべてを持っている。
確定と不確定は自分に委ねられてある。
瞬時を得るのも自分次第の非常識となっている。
汝よく心得よと自然は刺激している。
・・・そして、
智者に性別は無くなる。・・・想像で受せ!
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浄化の意味すること

2019-03-29 | Weblog
人は矛盾の中に生きている。
自然環境を壊しながら、環境保護を唱え、訴える。
動物愛護を唱え、訴えながら、動物の肉を食べて生きる。
動物たちの縄張りに土足で踏み込んで、自分たちの縄張りとしていき、
歯向かうものは害獣として駆除する。
人間が悪いのに、彼らを悪者にする。
空気を汚し水を汚しながら、浄化を唱え訴える。
人の行為は何とも矛盾ばかりである。
エネルギーの法則に矛盾しているために、
唱えること、訴えることが矛盾となってしまう。
エネルギーの法則は浄化である。この法則に矛盾しているために、
人の行為は決して浄化となることが無い。これが、法則によって滅亡していく所以である。
人の行為は悪の進化となり、この進化が滅亡へと繋がっている進化である。
法則は、浄化である。
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死後の安泰は

2019-03-28 | Weblog
平成の時代が終わろうとしている。
平になるどころか凹凸がはげしくなるばかりの時代となった。
格差は人の醜さの現れである。
誰でもお山の大将になりたがる。その大衆迎合は、
社会の崩壊を招き、すでに様々が
乱れて異常現象が次々と起こっている。
どこもかしこも耳を疑うことばかりで、それに慣れてきているのが恐ろしい。
権力にあるものは傲慢に人の道を外す。
もはや正せる術は残ってはいない。

自然の力は強大である。
絶対善の運動であるために、すべてをきれいにする。
人類の負のエネルギーは、それ故に、必然一掃される運命である。
すでに、いつ起こってもおかしくない状態となっている。
願わくば、安寧秩序である故、紊乱は安寧天皇の再来に委ねる。

救いは、個々の死後の世界である。
心、浄くあらんことを・・・。
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寄る辺

2019-03-27 | Weblog
人の一生は死後の世界の為の一生である。
死後の世界が生命エネルギーの本当の世界である。
生命エネルギーは、肉体を持って生命活動をし、その記憶が死後の世界の現象を作る。
死後の世界は、この世の記憶の現象の世界であり、
そのために、新たな記憶を作ることはできない。
なぜなら、肉体はこの世の記憶の現象肉体であり、
この世の肉体はすでに亡くなっているから、死後の世界を記憶することはできなくなっている。
だから、死後の世界の記憶はない。
生まれ変わっても、死後の世界の記憶というのは無いのである。
前世、或いは、過去の連綿とした人生は思い出せても、死後の世界のことは
思い出とならないのである。
死後の肉体が記憶の肉体であることを知ることがこの世の目的と言えよう。
人生の最重要課題である。
この目的が理解できるなら、この世で何を為すかは自動的に知れてくる。
師というものを持つことも無い。誰にも頼らず、ただ己の心とエネルギーの法則を
寄る辺とするのである。
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自の分心

2019-03-26 | Weblog
地面に唾を吐いても自然は黙したまま。
天に唾を吐いて即自分に返る。
意味することは同じである。
自ら然りだとして自分があるのだから、反する事の同一性を見極めて、
感受を素直とすることである。
現象は自分の気持ちである。こんなはずでは・・・と思うのなら、
自ら分かつ己を責めて、改めねばならない。
自然は黙して現象を表す。時に喜怒哀楽を与えながら。

自ら(を)助けるものを助ける。自然である。
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はたのらく、奴隷社会

2019-03-25 | Weblog
一人一人は優しくて小心者である。
誰かと繋がっていなければ不安にあり、群がっての生活を好む。
そのため、
周りに振り回され,自己を見失い大衆に流される。
皆同じに安心を覚えながら、立ち位置をはかりながら、
階級を好み格差に喜怒哀楽する。その様は、甚だ矛盾にして答えを出せない。
同化という催眠に心は操られ、その身はただロボット。
もう覚醒は望めない。
バイオロボット、ただ従順に‘はたのらく’のために尽くすことを
プログラムされて、56億7千万年後の世まで彷徨い続ける。
あなたの知能は、時のイメージをできない。

想像は時間空間を超えてあるものの、常識に囚われて
超えることができないでいる。
苦しみにあるのは、本来の姿ではないためである。
思考することに、想像の勘にして未来は拓く。

心は自分にあり、自分の為に人生はある。
先ず世のため人の為では自分は生きていけなくなる。
自分のための世のため人の為という順番を間違えないことである。
自分の為に、先ず人の為が理に適うのである。

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ほこり(誇・埃)ない者

2019-03-24 | Weblog
私は何も知らない。
馬鹿な者であると自身を思うなら、
先行きは明るいものである。
謙虚は優れた心持である。
横柄になるな、驕り高ぶるな、と
先人達は言い、自身にして、歳を取るにつれ
それとなく気づく。
「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」と先人は訓えたが、まことにまことにそうであると心得る。
いみじくも人生の苦しみは、吾が心の制御に掛かり、実に難しいことである。
ただ「及ばざるは過ぎたるより勝れり」の訓示を糧とする。
時は足早に過ぎ去る。
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彼の人

2019-03-23 | Weblog
観音経で説かれる「念彼観音力」とは、
「観音と呼ばれるようになった彼らの心の念いの力」である。
この心念の力が神にも通じる力であるために、神通力となり、人から見れば現象は奇跡となって現れる。
無理なることとしてあることを起こすことができるために、奇跡を起こせる人となり神と言われる。が、
奇跡はなにも「超」としてあるのではなく、エネルギーの法則には普通にあることである。
ただ神通力を得るための方便を知らないだけであり、方便は又、得難いものとして心得るためである。
法則の根本は自由に由ってある。そのために、自由を用いて都合として行かなければならない。
非常に簡単に言えば、ポジティブな思い、つまり、前向きな念いに由るものである。
先人が言った言葉に「為せば成るなさねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」と、この真実を
どう受け止めるかは自由。この自由の解釈が
階級社会の現れである。生き辛い世の中は、善悪転倒の正義となって回っている。
これが必然、人類滅亡へと導いている。もう修正はきかないために、
救いは、個人の魂のエネルギーの法則への正しい理解だけである。
気が付いた、それによってどう行動できたか、気が付けば動作の仕方は自ずと知れてくるから、
救われていく。

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神通力、心念不空過

2019-03-21 | Weblog
量子にして距離は無い。
この無という概念を臨機にして意思とすること。
自由とは、かくも自身に委ねられてある。
このことを忘れてはならない。
‘為せば成る’は真実であるが、人の常識は、
それを深遠として非常識とする。
そして、理論にとどめる。
無知とは、ただエネルギーの法則にある。
是を見て一に触れ十を感覚する者がいる。
本来は、すべてがその質にあるのだが、
原石にして光を放たないように、動作によって隔たりを持っている。
それは、距離でもある。経験という時の流れ、経過という変化にある。
時が経てばという動きに惑わされるが、無の概念の臨機応変は、
都合として隔たりは持たない。
それが自身の為の自由なる都合、好都合である。
自由とは、かくも自身に委ねられてある。
不自由は無知の自得である。
‘成らぬは人の為さぬなりけり’・・真実である。
普通にして深遠であるが、単純に普通にあることでもある。

量子は私達を形作っている。瞬時という奇跡は、
離散的と連続的を意志と意思の疎通を持って現れる。

心念不空過、念彼観音力は、神にも通じる力である。


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