つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

ポールシフト

2022-04-30 | Weblog
人の逆転現象は5月中ほどより6月いっぱいまでに諦かな兆しとなり、
11月より12月いっぱいに諦かとなる。全く経験のないポールシフトである。
これより、諦かなる分断であり、地に這いずり回る者と、宙に舞う者と分かれる。
意識は秩序にあり、気でありエネルギーである。本物の自由にある。
永遠の中にあり、そのためにあらゆる経験をもって学び磨かれる。
エネルギーの円運動の自由にある摩訶の物語、ドキュメントである。
理解すること僅かにあり、ゆえに本物、優れた者である。
秩序正しく整う。
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網羅する

2022-04-29 | Weblog
いよいよ表立っても嘘はつけなくなってきている。
大きな情報機関も、訂正し始めている。
今は、転んでも痛くならないような、日和見にいるようだ。
しかしながら、嘘はいけないことだから、嘘は暴かれていく。
その時、言い訳はもう通らない。事実は明らかに記録されているからである。
記録は改竄されたりもするが、あなた方の記憶は、甦ってくるからである。
あの時、「こうであったと」諦かに思い出す。
「天網恢恢疎にして漏らさず」は不思議な法則にある。
それは、あれこれと思い迷うことのいらない意識の議論にある。


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気違いによる運命共同体の顛末は

2022-04-22 | Weblog
中枢がバカであるために、その国の民は、
運命共同体として苦しむことばかり。
だから、選挙は、確かな人を選ばなければならない。
現在の指導者は、私利私欲、保身に終始し、大衆のことなどほとんど考えていない。
未知たる疫病に悩まされ、民は疲弊しきっているにもかかわらず、分断という壁を作り、
蔑むものをあぶりだし、救済などとした姑息な方法で、偽善を装う。
明らかに自分たちのための選挙対策にしか見えない。国民全員が疲弊しているのである。
なぜ格差を作りたがるのだろうか?表向きは格差をなくそうとして、格差是正を謳いながら、一向に無くならない。
全て検討ばかりで時が過ぎていく。結局答えを出さないまま、うみゃむやにしていく。
なんと、人の噂も七十五日と言わんばかり、そのうち言わなくなるとして、次から次へと
様々な問題に気を向けさせて、いかにも問題を解決したかのように仕向ける。
姑息なやり方は、後大きなしっぺ返しが付く。これは、世の道理が秩序的であるために、
必然起こってくる。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、後の祭りでは、あまりにも過去に学ばない愚か者の
顛末となる。
指導者選びに眼を持たない大衆の自業自得であるために、個々己を責めろ。
世の中には騙すものがいる。だから騙されないように、エネルギーの道理に沿うことである。
どうしてそんな非情な者がいるのだろうかと思うが、存在は一枚の紙のように、
裏と表とで成り立っているからである。だから、
表立って生きろ、時に裏を覗いて!
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直感、悪事は暴露される、露呈する

2022-04-21 | Weblog
やられている方は偽善的である。
制圧されるのを巧みに利用して、憐れみを乞う。
争いの真実は、裏切り行為にある。約束は破られた。
これには多くの犠牲が払われるが、まだ時間は残されている。
すでにぺデリギウスは影も形もないが、あなた方は遥かな過去にいるために、
実在の影を見ているが、その影響は全く受けることは無い。
現実は、今を隠して見えているだけである。
エネルギーの法則の真実(道理)を理解できるなら、あなたの持つ本能によって、
偽善は破られる。仰天することだろう。「事実は小説より奇なり」と言われるほど、
現実に呆れてしまう。
エネルギーの法則は、善悪のないための絶対善の動きで存在となっている。
そのために。この道理は、転倒した人の心の善悪を正す。
道理は絶対であるために、やがて偽善は暴かれる。
悪い物事は、必然露呈する。暴露される。
善の正義は、まだ残されている。
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命を運ぶ、として運命。どう運ぶかはその生命の自由

2022-04-21 | Weblog
存在のエネルギーは善である。
そのエネルギーは、意識的にして秩序正しくある。
秩序がこの世界をつくている。それは環状帯状である。トーラスといい、ドーナツのような、あるいは
林檎のような姿形をしていて、中心から双方に分かれ、中心に返ってくるエネルギー運動(円運動)となっている。
だから、広がりながら縮み、縮みながら広がっていくことを繰り返す。止まることのない永遠の動きとなっている。この動きが
存在というエネルギーの自由である。このエネルギーの自由で生命は作られている。
全ては自給自足的エネルギーである。自由エネルギー、これをフリーエネルギーという。
巡ることによる変化の刺激を受けて、反応したそれぞれのエネルギー姿形(容姿)となっている。
生命エネルギーは、精であるために、あらゆる存在の容姿に宿っている。無機、有機に関わらず持っている。
動きのないものは、エネルギーの完成系となっているために動く必要はない。
動きのあるものは、動くことによってエネルギーの完成系を目的としてある。つまり、動きというのは、
エネルギーの完成系となっていないために動く必要がある。完成系となれば、動きのない静となる。
それは、安寧という。生命エネルギーは、常にここに向かって活動しているものである。
その精・意識は、物体から受ける感覚を識し、智恵とすることによって、経験(体感)の有無にかかわらず、
物事を正しく判断することができる力を持つ。
そのために、智恵は、知識とは全く違い、あらゆる物事を瞬時に正しく判断することができる。
だから、正しく知恵をつけて、世の中を見つめれば、人の心の中にある善悪を見抜くことができていく。
エネルギーの法則には、善悪は無い。
人の心にある善悪は、人の意識が勝手に決めたことである。
そのために、「善悪」など無いと正しく知恵をもって意識すれば、
エネルギーの法則によって、意識が秩序的であり、絶対善の動きであることを理解する。
エネルギーの法則に沿わないものは、一時的であり、必然崩壊していく運命を持つ。

現在の世の中の進化は、人の悪のエネルギー進化となっているために、そのエネルギーの進化によって、
滅んでいく運命となっている。それは、人類が火を与えられた知恵を悪知恵に変えて進化し、
争いの武器としてしまい、その技術によって自らを滅ぼす運命にしてしまったことである。
数々の輝かしい科学技術も、悪に応用、すべてを台無しにして滅んでいく運命となってしまった。
私達が存続できる時間は、宇宙時間にしてわずか一秒、地球的時間にして、約10年である。と、
宇宙意識を受す。
この地上の生命エネルギーは、宿命ではない。間違って運ぶ(運命)にある。
自由にある。











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精白する

2022-04-16 | Weblog
私達は無知の中から甦って来る。
そして、また一つ一つ思い出して、無知を克服していく。
エネルギーの本質は自由であるために、そして、善悪はない。
ただ巡るだけであるために、すべてが元に戻る。
つまり、ゼロから始まりゼロに戻る。
これが自由であり、性質である。だから、きれいさっぱりと言い、
何もないことを綺麗という。結果、増えもしないし減りもしないという永遠となっている。
このエネルギーの性質を、正しく理解できれば、正義が正しく分かる。
自然はエネルギーの性質上綺麗なものとなっている。
自然の作るものは、皆美しい、綺麗である。
その自然から生まれているのが私達である。だから、私達も本来美しいものである。
意識(心と言い、魂と言い精神という、まとめて霊魂とする)も当然綺麗な意識、美しい意識が本能となっている。
ダイヤのように、あるいは金のように、あるいはとてつもなく希少で、力を有するものであるが、
垢が付いて汚れているために、見分けがつかなかったりしてあるために、磨けばその素晴らしさが現れてくる。
それと同じように、人という生命の意識エネルギーも磨かれなければ、素晴らしさが現れてこない。
そのために生命エネルギーは、物体(物質)というものに宿り意識を磨いていく。それが人生である。
物質というものに宿らなければ、意識そのもののエネルギーは磨くことができないものであるために、
肉体というものに宿り生まれてくる。精神、心、魂を磨き、綺麗に垢を落とすことが人生の目的である。
意識(精神、心、魂)が完全に磨かれれば(精げるという)、ゼロの世界、動きのいらない世界、つまり、綺麗な世界に永住することができる。
これを覚りという。人生、生きて自然から分かれて、自分を知ることができたことを「知見」という。
つまり、悟りというのは「知見」のことを示す。ただ見て知ったという事ではない。

自分の心が、エネルギーの法則にしたがい、善悪のない絶対善としてあるなら、
人生は辛いことであるが、終わり良ければ総て良しとなる。これは必然となっている。
諦かに!

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現在という幻の事実

2022-04-14 | Weblog
現在のマスメディアの報道は、
人々の脳裏に確実に刻まれている。
嘘と本当は事実として記録される。
まるでビデオに撮られているように、隠し事はできなくなる。
現実は、記録として後映し出される。
過ぎたるは、如何なることも覆いかぶせることはできない。
本当として現れてくる。
善悪転倒は必然正されていく。
それが、善悪を持たないエネルギーの法則だからである。
人工的に、悪事に覆いを被せても、自然に暴かれていくものである。
人工的という事物、物事には永遠は無いからである。
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当事者と傍観者、対岸の火事では済まなくなる

2022-04-12 | Weblog
日本国、マスメディアと言われる報道こそ、
ある面を
「統一的」を容易にすることができる。
白を黒と日常的に流せば、それが常識となる落とし穴を作ることができる。
善悪が転倒してしまえば、すべてが悪の世界となってしまう。
何か「変」と思うことが変となって、疎外感を受ける。
我が国は、特に「みんなと一緒」でなければ嫌だという民族意識がある。
大勢と違う感覚を持つと、嫌われる、仲間外れというネガティブ(負、-的)感覚を持っている。
哀しい、無知的思考回路が蔓延っていると思うのだが。
往々にして、気違いと天才は紙一重と言われるほど惑わされる部分が多い。
人は、個々違っていて当たり前。皆同一こそおかしな事と思う事こそ自然。道理にかなうことである。
何か決める時に、全員一致で賛成というのは、逆に不自然であり、後、後悔に繋がる。
民主主義というのは、そもそも多数決であるが、多数が誤っていれば、誤った世界、現象が繰り広げられていく。
そして、その誤りに気付くことが難しくなる。そうすると、どんどん苦しい現象となってしまう。
戦争、紛争がいけないことだと知ってはいても、近代社会においてもそれを誰一人止めることができない。
ましてや、戦争には参加しないと言いながら、後ろから武器を与えるのは、戦争を煽っていることではないか。
武器がなければ争いは終わるものである。そこを見失うと、正義が分からなくなる。
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一方的の怖さ

2022-04-07 | Weblog
ただ一方的に偏った報道をしていれば、偏った見解が生まれる。
洗脳教育というのは恐ろしいことである。常となれば常識として、
その中に考える余地を見出せなくなる。不思議な現象が起こる。
だから、テレビ、ラジオ、新聞というのは、洗脳教育には多大な影響を及ぼす。
偏ることなく報道すれば、考えられる余地ができるが、日々一方的な報道いうのは考える余地を失わせる。
報道されることが正しいとなってしまい、誤りに気付かなくなっていく。とても偏った恐ろしい状況が生じてしまう。
大なるものが正しいとは限らない。得てして、小なるものに本物が隠れているものである。
世の中を見て、
貴重なもの、あるいは、価値のある物事や、事物は少なくあり、多くあるのはどうでもよいものである。
本物を見極められるものは少ないものだ。だから、
見極められる眼(まなこ)を持ちたいものだ。そうすれば、隠れたものが見えてくる。
見えないものが見えてくるものだ。
便利は不便になり得る。自らの目で耳で足を駆使して、めんどくさくても(不便)を克服していかなければ、
楽は苦の種となる。 
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自由を思う

2022-04-07 | Weblog
生きていれば問題が起こる。だから、生きていることが問題である。
肉体があるから苦しみがある。肉体がなければ苦しみもない。
肉体が亡くなっても魂は存在していく。魂自体が生命エネルギーそのものだからである。
生命エネルギーは、無くならない自由を持っている。だから、生命エネルギーに死というものは無い。
その生命エネルギー(魂)は、肉体に宿ってこそこの世の存在となる。肉体に宿らなければ、気体(エネルギー)として
漫然と中空に漂っている。エネルギーの自由によって巡る運動となって漂っている。肉体に宿るのは、意識(魂)として自由(めぐる運動の変化の刺激を受けて)
の縁を受して宿る。
どんなエネルギーの刺激を受けて宿るのかは、その魂(意識)の自由にある。
その自由はまた縁という事にある。魂(生命)というエネルギーが
人間としての行為の自由をしなければ、人間として生まれることはない。
人間としての行為をしたから人間として宿る。
この縁をもって人間は人間に転生し続ける。もし、どこかの転生時に人でなし(人間にあるまじき行為)の人生となれば、
その行為の縁によって、他の生命エネルギーに生まれ変わってくる。基本的に、人間は人間としての行為をするために、
人間と縁をもって人間に生まれ変わり続ける。だから。、私は「貝になりたい」と思っても貝と縁を持つことがないために、
貝になることはない。人間は人間としてのみ生まれ変わる。人でなしと言われる行為を生きているときにしていれば、
その行為の縁によって、はじめて六道輪廻の中に行き来する。だから、
人間として生まれる刺激に反応、その自由を(受して)世に出てきたことに、有難き事として感謝して生きていかなければならない。
今、人として存在していることは、稀なる事なのだと理解することである。感謝して生きるべき事なのである。
悪事をしていれば、悪いところに意識が生じていく。つまり意識は地獄になる。
全てが生命エネルギー(意識)の自由によることである。自由とは、自らに由ると書いているではないか。
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