つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

嫌いながら敬い生きて

2009-09-30 | Weblog
振り返れば、
あっというまの時の流れ。
取り戻すことのできない過去は、
苦しみも悲しみも、笑い話に変えて口を告ぐ。
人生とは、かくも哀しいものと
一口に表す。
かくも切ないものと
うつろに遠くをみる。
ただ過ぎてしまえば、
美しいものだと、そう思う。
大事に生きて、忌み嫌うこの世の敬いとする。
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円い

2009-09-28 | Weblog
明日もまた同じ事を繰り返す。
同じ時間がやってきて、同じように過ぎていく。
人は無意識に「行って来ます」という。
かえってくることをあらかじめ知っているから
そう言う。
円いかたちで生きている。
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終末の兆し

2009-09-27 | Weblog
地球人口80億を満たす頃、人類の歴史は閉じられる。
それは、2050年を待たない。
これまでに培われた高度の科学技術も、
自然のエネルギーの前に、なんの役に立たず没してしまう。
信じられないことであるが、あと40年も無い。
宇宙的時間からみれば、それは瞬時に迫る。
地球上の生物は、人類の悪のエネルギーによって、共に葬られてしまう。
殺戮と紛争の歴史を刻んだ人類は、その過ちのエネルギーによって、
地球から淘汰されてしまう。
南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏と連呼しても、今生の身の救いとなることは無い。
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無刹不現身

2009-09-26 | Weblog
昨日まで生きていたが、今朝死んでもうこの世の人ではない。
何の為に生きるか、生きたのか、知ることかなわず、ただ生きる為に生きた。
くる日もくる日も同じ事を繰り返して、止むことの無い時の巡りにただ流されて、
善なることの苦に耐えかねて、欲をかき、財を貪り、愛を淫らに、醜い心で生きる。偽りで得た楽の享受は、あの世の扉を開けて、一瞬気がつく。これが世の真実と、・・思う間に奈落の底に・・・。
この世の財も、地位も名誉も何の足しともならず、ただ汚れくたびれた身一つで
死んでいく。
君は何の為に生まれたか、あなたはなぜ生きるのか、無知によって死が恐怖となり、忌み嫌う。老若男女かまわず、死は訪れるのに。
縁をつくるもの、それに繋がる。
わが身の刹をして、仏現る。
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簡素に

2009-09-25 | Weblog
時間はただ過ぎ去るのみ。
人間以外の動物は本能でいきている。その身一つで、
飾ることも無く、何一つ荷を持たない。
あるがままを生きるだけである。
わざわざ苦を持つことが無い。
法(道理)に従い生きるものである為に、善悪がなく
涙が無い。苦になる思い(情)をいっときに置き去りにして、めぐり来る出会いに
備える、哀しい性で生きる。が、そのために、彼らに地獄は無い。
人も動物である。
能あるものであるために、知を蓄え、自ら変化を好む。
身一つに適うものであるのに、過剰な荷を背負い、それに苦しみ
地獄を作る。
能、省みるものであれば、よく磨き道理に沿って、倹しく慎ましく、
荷を持つことも背負うこともなくして、本能で生きる。
素晴らしい性がある。
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経なるもの・・・

2009-09-24 | Weblog
観世音菩薩は法華経を説き、観自在菩薩は般若心経を説いた。
共に、釈迦の説いた訓えを修行し、悟りを開き、観世音、観自在と呼ばれるようになった人の死後の世界から語られている。
釈迦の弟子たちに、修行が縁となって啓示として語られたもので、
観世音菩薩は持地菩薩の意識の中に現れ、持地菩薩の口を借りて、観自在菩薩は舎利子の意識の中に現れ、舎利子の口を借りて語られている。
法華経の中の一つ、観音経は、修行を積んで悟りを開き、観音と呼ばれた人の死後の世界は、どのような世界であるかを説いていて、祈る為の経というのではない。
観自在菩薩の般若心経は、すべての存在となっている法を説き、故に、死後の救いを心の持ち方によるものであることを説いていて、難しい修行をしなくても、
信心のあるなしにかかわらず、誰でも悟りが開けることを説いている。
そのために、衆生の最強最速の救いの経であるとして、くまなく巷に広まっていったのである。
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2009-09-23 | Weblog
人としての行為を滅して、人との縁がなくなり、
人として生じることが無くなる。
その人としての行為とは、性行為に他なら無い。
性行為を滅して、人とのつながりが無くなり、
色身を受けることが無くなる。記憶という夢想の世界で
自由気ままに生きていく。そのために、悪となる恐怖を記憶の中にとどめないことである。
死に行く身であるならば、生命の不死を信じて、想念に恐怖を抱かず、
楽しかったこと、会いたいと思う人、一緒にいたいと思う人、美しいと思ったところのみ記憶にとどめ、あの世に
希望を持つとよい。願いはかなう。くれぐれも、悪なるものを抱かないで。
今が楽しければ、行く先も楽しいものとなる。
今が苦しければ、行く先も苦しみとなる。
縁がゆえに・・・。

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智慧の判断

2009-09-22 | Weblog
「無上甚深微妙法、百千万劫難遭遇」
これが私たちを作っている法則。エネルギーの法則。自然の法則。円運動の法則
絶対唯一の存在で、この法則以外存在しない。
そのために、この法則以外には永久にめぐり合うことは無い。
この上も無い為に、法則を超える(超)と言う事柄は存在しない。
ゆえに、超上現象なる事柄は存在しない。
起こりうる不思議とされる事柄は、すべて道理のうちのことである。
神も仏ももとは人間であり、道理を見極めて悟りを得、神、仏となったものである。それは、自然から学び得た自身の経験を智慧として識となり、
その智慧の身についた判断は即断となり、不思議な力となって、
神に通ずる力といわれる。智慧の身についた判断、神通力が備わる。
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虚無

2009-09-21 | Weblog
時間は
ただただ過ぎ去るだけである。
与えることと奪い去ることを絡めながら、
何の軌跡も残さないで。
大事なことも、そうでないことも
過ぎ去って何もなし。
今生きていたと言うことも、
あせてしまう。
何の痕跡も無く、無かったこととなって、
この世と言う儚さになじむ。
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自らをもって自ずと

2009-09-19 | Weblog
この世とあの世をつなぐ言葉のように、
読経が夜のしじまに浪々と漏れ流れる。
一つの美しい音色のように、また、独特の節をもって、低くくっきりと響き渡る声に、
邪なものは憂い慄き、正きものは安堵する。
静寂の中に、様々なものがもつれ渦巻き、うごめく。
その下々のあり方を、正しく振り分けるかのように、
偈文は清浄を奏でる。
聴く耳を持つものは、救いの芽を出し、浄土の道を歩みだす。
聴く耳を持った時から、救われる身となる。
神であれ仏であれ、その気を持たないものを救うことはできず、
自らを持って為すというは、その為である。
周りはただ、気づきを与えられるだけである。と。
耳を塞ぐ者は、それに苦しむ事を知る。
苦しみのもとを断て、耳を塞ぐな。耳を塞がず・。
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