つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

年の瀬

2014-12-30 | Weblog
どれだけの人が年相応に老いているのだろうか。
年を取ればそれなりに世間の付き合いも知れてくる。そして、
敬老に値する道程は、
人としての付き合い方であり、渡世の義理人情にあふれた生き方である。
辛く苦しい思いをしてきた人ほど人情味があり義理堅い者であるのは、
つぶさに、謙虚にしてまっとうであることを知ったからである。
皆同じであるとする自然に対する平等をよく学び得て、客体を敬い、
慎ましくしてよろしく生きられることを知り得た人である。
それは案外難しくあり、敬老に値する生き方をしている人は少ないものである。
辛く苦しい思いを自分だけに止めようとせず、
寧ろ人にもさせようとする。
苦しみから喜びを学ぶことなく、憎しみだけを抱く人。
多くはいまだ浅ましく、年取って尚浅ましく生きているものである。
それは、真に情けなく、惨めに憐れでならない。
その人の格、人格は何として持ち得たのだろうか。
人は皆同じであるからとして、
我が身に置き換えて、喜怒哀楽を考えられなかったのだろうか。
ただただ我が身が愛しいのみと生きてきたのだろうか?
それこそせつないものである。

世の中は苦楽が共にあり、平等にして辻褄が合うものである。
ある時分、その割合多かれ少なかれにても、生涯は辻褄が合うものとなっている。
不仕合せと見るのは自分の至らなさ、そこにのみ起因するのである。

年齢というものをうまく越せない人のなんと多いことか。
見かけは大人でも中身は餓鬼。

年の瀬=(それをうまく越せるかどうかが問題である)清算期としての年末。と辞書にある。
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2014-12-29 | Weblog
煙草は健康を害うものであるから吸わない方が無難だと言われていても、
スッパスッパと吸う人がいる。
分かっちゃいるけどという情けなさにある。
まして、
百害あって一利なしとまで言われていても、せっせせっせと製造し販売している。
それはまた、商売となるために作られるのであるが、自分にも害があり、
他人にも害を与えやすいものであるとしても、止められない人がいるのである。

本当に無知にしてある者達。それは、自由という抽象的な概念の誤りにある。

動物愛護、保護を唱える人がいながら、虐待したり、捕獲して食べたり、
家畜として養う動物は食料とする。食事を与え、丸々と太らせて食べてしまう。
好い思い?をさせておいて餌となるのである。
愛憎という感情にして差別する有情と非情。
矛盾だらけの人の心は、すべて自分は正義で他人は悪とする自己中からくるが、
すべての生命は、自己が一番愛しいものであるための正義からくる無知にある。
自己が一番愛しいのは正義であることへの方法、順序、順番にある。
よく道理を見れば、道理は円であり前後は同じにしてある。
前は後ろでもあり、後ろは前でもあるという順である。
自己が一番愛しいのは正義であるから、故に、どうするかという道理を熟知することである。

身口意に於いて善いことをする者は、自己を一番愛する者である。
なぜなら、「愛する者が愛する者に為す行為を自らに為しているからである」と。
自己優先であるから、先ず他を最優先でとして事物は好く図られるのである。
しかしながら、純真、純粋な心、純心でなくてはならない。下心は利己にして害するだけである。
その心を自分に問へ。
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究竟涅槃

2014-12-28 | Weblog
一度死んでみたいという人がいた。

・・・
・・・・死んだら、今の姿の今の名前の今の思いの自分には二度と帰ってこられない。
やり直しというのは同じ人生にはない。一生は一度切りである。としてそれがつながっていくのである。
同じ人生というのはないのが生命である。同じ人生には戻ることができないのが道理である。
ただ唯一にして突き進んでいくのが道理であるために、忽然として完成されたものが現れ、
そこから分解されていくという逆行的進行はない。
道理が円運動であるために、元に戻る性質ではあるが、進行してある戻りであるために、
同じところに戻っていても、動いている以上変化しているものである。
同じにして同じではないながら同じを表してある。だから、
一度死んだらまったく同じ状態の記憶として現れることはない。
空に雲が漂い、その雲の様が瓜二つとして現れることのない景色であるのと同じである。
元に戻るということは、いったんリセットされて新たにという進行にあるだけである。
そのため、何もかもゼロとなり白紙の状態で再びを繰り返す。だから、浄化といい、きれいになるといいい、一旦という質である。
繰り返す状態は同じであるが、道理の自由をもってしてあるために、どう突き進むかという自由がある。
その自由が己の為す行為、業である。その業は心に従い、心の様で作られる。
その心の様(性質)は、一つの人生の経験の積み重ねによって作られていく。
ある一生を生き終えて、それを繰り返すことによって、あの人生の時の思い、
この人生の時の思いという記憶の積み重ねによって、それが統一され均されて現存在の心の性質となっているのである。
記憶はエネルギーであり無くなることがない。それは、道理がエネルギーであり、無くなることのない性質となっているためである。
道理は法則であり、エネルギーの自由となっている。その自由がエネルギーそのものである。
それに‘なぜ’ということはなく、ただそういうものであったということに基づく。
それは、無とは何かと問い詰めるようなものであり、問い詰めて仕方のないことなのである。
つまり、問い詰めることのできないものなのであり、不可思議なのである。

宇宙の起源はと問い詰めたところで、答えは見いだせないである。
一つの点の膨張(爆発)があり、そこから無数が広がったとしても、一つの点の周りは何だったのかという疑問は尽きなくなる。
そこにある答えは、尽きないものというエネルギーがあったに起源するだけである。
そのことに気が付いて、宇宙は尽きないものであり、その道理によって存在をなしているものである。
そのために、生滅を繰り返して、新たなるものを引き継いで繋がっているものである。
すれば、今ある人生がいかに大事でかけがえのないものであることが知れてくる。
無知にして無駄に生きてはならない。すべてが自由にして自分というエネルギーにかかってくるものであるために、
自分というエネルギーを、苦しみのないエネルギーとして存在させるために、日々自由を持って生きているのである。
そして、エネルギーの性質の根本(自由)を知(理解)ったとき、自由にして性質の根本に取り込まれ、
生滅という繰り返しから離れて、ただ、永遠に存在するという自由に馴染む。変化というものがない。
それを安穏と言い、生命エネルギーの極楽浄土に赴いたということになる。
すべての生命エネルギーの求める究極の一点である。それを究竟涅槃という。
生命の究意の涅槃である。
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同化

2014-12-27 | Weblog
是について理解するなら、未知との遭遇も畏怖するものではない。
様々な事柄に日々遭遇するものであるが、何ら善きに計らわれていくものである。

車で高速道路を100キロの速さで進んでいると、隣を走る車も100キロで走っていた。
同じ速さであれば隣の車とは止まっている状態にあり、
止まっている時と同じ行為ができる。
車内も同じである。
なんら100キロの速さに影響を受けるものではない。
しかしながら、周りの景色は目まぐるしく移り行くものである。
また、歩いている人から見れば激しく移り行くものであり、瞬く間に通り過ぎて見えなくなってしまう。

一緒になってしている行為は気が付かないというか、不可思議となるのである。

是は人知の及ばないほどめまぐるしく回転して進んでいる。
それは、人の遺伝子構造のように螺旋を描いている。
軌跡同化にある。
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知恵の経典

2014-12-26 | Weblog
般若心経は確かに知恵の経典である。
しかしながら、
般若は知恵と訳されるべき言葉ではない。
知恵と訳されてしまうとちんぷんかんぷん、
何を教えているのか意味不明となってしまう。
音写としてあてられた文字としてしまうために、
経典全体の意味が理解できなくなってしまう。
理解できないのは、仏の言葉であるために、
凡人である我々衆生には、理解できなくて当然としてしまう。
優れた者だけが、その言葉の意味するところを理解できるのであるとするのである。
この理解が経典を何の役にも立たないものとしてしまっている。
故に、経典を何度読誦したところで御利益は無い。
実際のところ現状は変わらない。
本来、‘おしえる’というのは、難しくあってはならないのであるから。

ただ仏様の説かれたものであるから有難いとするだけでは、
意味を解せないで読誦していても、効力は伝わらないのである。

般若心経は観自在菩薩が語っているもので、
舎利子の口をもって説明されているのである。
仏陀が語っているのでもなく、舎利子の魂が語っているのでもない。
また、舎利子に語りかけているのでもない。

心経の言うように是を訓えられ、素直(正しく)に理解することによって、
知恵が備わり正しく解せるようになっていく。
それゆえ、知恵の経典と言えるのである。
般若の文字は意味あって正しくあてられているも文字で、
梵語の意味の知恵として音写されてつけられた文字ではないのである。
不思議にも、その知恵をもって般若が正しく理解されていく。
知恵が正しく備わることによって、無知が克服されていくのである。
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智者来訪前夜

2014-12-24 | Weblog
聖夜、
降誕祭前日、遥かという虚空を越えて智者が向かう先、地球。
真理より来たれし者、如来。
多くの知恵を分け与えて、人間の現文明ができあがる。
訓え導くものなくして繁栄はなく、その恩恵に無知にして、
間違いだらけを生きている。
人間が神としているのは、高度な知恵を持つ異星人。
彼らにも、悪神と善神がいて、それぞれに訪れた。
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精が宿る

2014-12-23 | Weblog
人に心があるように、
あらゆるものには気というものが宿る。
そのために、
粗末に扱う事をせず、大事に大切に扱ってこそ
そのものの恩恵を受ける。
それは、暗黙にしてあるが、必ず報うものである。
それが報いとして凶となるのか、
報われるとして吉となるのか、同じ言葉にして正反対を得る。
いずれにせよ、どのようにそのものに対処したかの仕種に依るものであるために、
自業自得という果にてある。誰の所為でもない、自分の為したことなのである。
それが悪意がある無いにしろ、無邪気にしても無知であるならばの損を被ることになる。
自分の愚かさにして散々を知り、横着と地道を学ぶが、心得なければ害される。
報いとして祟られるのである。

無邪気にしても無知ならば、甚だ危ういという征伐にある。
愚かというのは恐ろしい!
そこに慈悲というはからいは、あるともないとも。
それは、心あるもの(性善の者)にはよろしくはかられてある。
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フリー・エネルギー

2014-12-23 | Weblog
自由というエネルギーの性質。
この自由なエネルギーによって、束縛の無い力を得ることができる。
回るという周期を持っているために永遠に動くことができる。
循環しているために枯渇するという事が無い。そしてまた、
何ものにも妨げられないものである為に、その中にいるものは害されるという事が無い。
妨げが無い為に、エネルギーの速度に於いて円滑にして繋がっていく。それは、
遙か彼方も瞬く間という感覚を持っている。

もし、知的感覚は智慧を持って成され、このエネルギーの本質を知り操ることができる。
エネルギーは常に進化という構造にあるためである。
宇宙を司るエネルギーである。
智者はそれを尊重し、強制ということを為せないものである。
そのために、ただ、気づくことへの導きを示すのみである。
本質に沿は無い歩みをするもしないも、そのものの自由である為に。
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日を記す

2014-12-21 | Weblog
記を見て解する者がいる。
記を見て解せない者がいる。
記を見て解そうとする者がいる。
100人見て一人解そうとする人がいる。
1000人見て一人解する人がいる。
10000人見て解せなくとも、
100000人見て解そうとする人が何人かいて、
1000000人見て1人解した人がいる。
10000000人の内2人現れて、
100000000に3人現れて問答となる。
1000000000に4人になって3:1或は2:2に分かれて問答となる。
10000000000になって5人になって、3っつの割合となり問答となる。
それは、それぞれ3っつに集約された理となって答えとなっている。
解そうとする者と解せる者とは、記す者がいる限りいるもので、
それ故に、記すことに無駄というものとことはない。
3っつに集約された理が1つとなって廻っていて、唯一となっている。
2たつにある理は3つ巴で、うち1つは同じ方向性ではあるが、時より内に廻って見えるのである。

多くをもって回る流れは、俄かに外れた様を見せて稀少となりその理を保つ。
必ず現れる様であり、なくてはならないという絶対性にある。
存在というものの理であるために。それは、自由という性質、本質であるためである。
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知恵にして時期尚早を砕く

2014-12-20 | Weblog
時に、私たちは知らないでいるという間にあるだけで、
齷齪として突き詰める時をもって明らめられるもので、
時期尚早は知恵にして近道となり、不思議を得るものである。
人の常識たる域を超えて度外視にあらねばならない。
それは、自然が人知を超えて計り知れないように、だから、
自然に没頭しなければならない。
阿闍梨というに、見つけられるものである。
それは何も苦痛と苦難が伴うものではなく、一心にしてときめくものであるならば容易いことでもある。
ただ、容易なものではないとすれば容易ではなくなるために、思わないことである。
‘好きこそものの上手なれ’とするなら苦も苦とは思わない。
批判、誹謗中傷、相まみえないものである。
なぜなら、自然(客観)にして没頭にあるためである。
それはどんな計らいにも触れられないものであるために、最速にして速攻を得られるものである。
自然にして無敵という。
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