つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

’‘今‘’を生きる

2015-01-31 | Weblog
孤独が寂しくて辛いとする心がある。
その心には目的が無く、そのために、目標とすることが見いだせずに、
とりとめも無いことをあれこれとする。そして、むなしさを覚える。
不安が孤独と共にあり、どうしようもない虚無感を味わう。
とらわれる何ものも無いことは、自由であるのに、空虚として、
見せかけの形だけで実質的な価値・内容が無いとしてしまう為に、
生活そのものが厭世観を覚えてしまう。
ある意味、人生は幻の如くであり、陽炎の様にあるでもないないでもないという、
問われて答えのでないものの用に思われるのは、ひとえに、無知蒙昧から来る。
幻の様に陽炎の如くでも、そこには、うたかたにして実質があるための現象である。

私は、無知にあれども無智でなければ識別は正しく行われていくと知る。
道理がそう覚すのである。

道理を見る目は未知を覚り、よく勘が働く。
勘は本能にあり、本能は道理から成る。そのために、戸惑いは瞬時に回避され、
良く察知する。
人生、智恵を身に付けることにより、よく正されていく。
智恵は、日々の繰り返しから得られ、それは、渦であり螺旋であることの円運動を知ることにある。
日常は片時も止まることなく動いている。それは、同化にあるために
静止にして活動できるのである。惑いはそこから来る。片時も止まることなく、そして、螺旋にしての
円運動であることの絶対性を忘れることが無ければ、同化にしての客体となれるのである。戸惑いは消えていく。
唯の一つも孤独ではなく、寧ろ忙しなく、そして、飽きることが無いものである。
活きることに精通していくのである。
幻の如くである人生だから、今の時間が愛しい。
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千歳一遇

2015-01-30 | Weblog
朝と夜が交互に来るように、人生には
浮き沈みがある。
誰にも等しく。
朝には家を出て夜には帰ってくるように、
すべては相対していて、相反してある。
そうして辻褄が合うようになっている。

隣の芝生は青く見えるだけで、それぞれに、
苦楽を味わうものである。

終わり良ければ総て良し、という機会もある。
だから、人生捨てたものじゃない。
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感情

2015-01-29 | Weblog
同じ人間。
「同じ」で生きている。
なのに、
善い人と悪い人といる。
有情と非情とある感情。
無記にして無智による。
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至極にあるエネルギー体

2015-01-27 | Weblog
人知及ばぬほど高度に発達した能力を持つ生命体。
その生活様式に資本主義などない。
かと言って共産主義というのでもない。
ただそこには平和主義があり、運命共同体にしてあるもので、
各生命の質にしての使命にある。損得勘定などどこにもない。
よって、使命達成に至極の喜びで生きている。
それ故に、天体ほどの船ををつくることができ、操るものである。
孤独に陥ることも無く、自己を責め立てることも無い。
優に憂いをも越えていて、常に進化のみに生きている。
時と空間を越えていて、ただまったりとあるゼロ地点に悠悠自適で生きている。
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ひとりぼっち

2015-01-25 | Weblog
生きていくことで最も悩まされるのが人間関係。
それは、孤独ということの克服が大事である。
生まれてくるときも独り、死んでいくときも独り、
だから、生きていくときも独りが道理である。

独りを生きる。一人を楽しむ。

何かを選択、判断するのも結局自分自身。
様々を見て、どう受け止めたのかは自分に依るもの。
様々にして、様々に振り回されて、様々を一つにするのは自分の心。
だから、自分の心をしっかり持つこと。
浮草のように、心ここに非ずでは周りに振り回されて、ただ
周りの所為にしてしまう。
自分はどこにいるのだろう?自分を幻にして生きてはいけない。

独り法師(ひとりぼっち)、人生である。
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永遠というもの

2015-01-23 | Weblog
生きるとは、
如何に死ぬかということ。

生まれるということは死が絶対条件である。
ということは、
死ぬことが生命の目的ということである。
では、なぜ死ぬために生まれるのか?
なぜ死が生命の目的となるのか?
それは、生命の本当に生きていく世界が死後の世界だからである。
そのために、死後の世界が幸せとなるように、肉体をもってこの世を生きるのである。
生物の死というのは、肉体の消滅であり、生命そのものの死(消滅)というのではない。
生命そのものには死というのは無いのである。
それは、
生命を生じさせている法則が無くならないためである。
無くならないという法則だからである。
それがエネルギーの法則であり、諸々を司っている法則となっているのである。
この宇宙がエネルギーの法則で作られている世界であるために、無くなることのない世界となっている。
永遠の存在ということ。それは、円運動という質にあり、そのため、繰り返すという性を持ち、
自由にしてあるエネルギーだからである。
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12の二重螺旋

2015-01-19 | Weblog
キリストは12・3歳頃から29・30歳頃までの17年間ほど、インドのラダックの地に於いて修行僧として仏陀の説いた法を学んだ。
キリストが聞いた「始めに言葉あり」という神の声は、観世音菩薩の啓示であり、
その啓示に誘われて釈迦の説いた法を学だのである。故に仏教とキリスト教は同じ宗教ではある。
キリスト教はまたミトラ教であり、ミトラはメシア、救済者弥勒である。
56億7千万年後に衆生救済として現れるとされているこの数字は、ニネベ定数という計算によって出てくる数字である。
これは1秒という時間が基準である。それは、世界が1秒から始まったためである。

人が性行為なしで生まれることはない。
医療も進歩して体外受精とか試験管ベビーなど、性行為そのものが無くても人工的に授精を行い、
生命誕生はあるが、釈迦やキリストがいた時代にそんな技術は無い。
聖書は聖母マリヤ、処女懐妊として神の子の誕生とし、釈迦は、マーヤー夫人が6本の牙をもつ白い象が体内に入る夢を見て懐妊、
それも、脇腹より生まれたとしている。しかしながら、人間が性行為無くして生まれたためしはない。

釈迦は真理より来たれし者であり智者である。過去、他6名の智者が地上に訪れた。

突拍子も無い誕生話を見ても、彼らは人間として遣わされたものである智者である。
法の世界からの来訪者である。それは人知及ばないほどの優れた進化にあり、またそのものである。
それを人間は神とする。

法の世界には時空は無い。
変化というものは無い。
夢想の世界である。

人は、神ともなれる者である。
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真理より来たれし者

2015-01-18 | Weblog
世に、本当に人は切ないものである。

宇宙、この一つの法則の世界が、ただ円運動となっているために、
有限でありながら無限の様相をして繰り返しているだけである。
そのために、善悪なく絶対善の動きとなって、すべての浄化となっている。
この宇宙の法則が諸々の法則であり、浄化の法則である為に、
人の動きもまた浄化の動きとなっている。
性悪の振る舞いにして、性善であるための浄化にあり、
悉く滅するものである。その過程に於いて、ありとあらゆる相対があり、
自由によって作られているものである。
知識を智慧に変えて、その創られし自由をコントロールするのが、
智者である。
過去も現在も未来も一つに内包しながら、あるでもなくないでもないとして現れる自由を
確定するのが智者である。
人は、智者に作られし者。
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顛末

2015-01-18 | Weblog
近年、特に癌にかかる人が多くなった。
また、認知症も急速に増えている。それも若年性認知症。
年相応という病ではなく、若くしても罹るのである。
確かに、病というのはさほど年齢には関係するものでもない。
運命的、宿命的ということにもある。ただ、運命的にしての事柄によるものが多いようだ。
魂の宿す肉体の管理は、その命をどのように運んで生きていくかにあり、それは、
心の配り方、つまり、知恵のあるなしによって違ってくる。
頭脳というのではなく、心との連携、かかわり方の良し悪し。
つまり、心が外部からの刺激に対してどのように反応するか、素早いか否かである。
もともと善悪というものがないための、故に、絶対善となっている質によるための遅いか早いかの反応である。
それが、無知、何も知らないというところにあり、知らないがための恐怖によっておこる過ちに起因する。
物事は、突然として起こるということはない。
必ず前触れというものがある。前兆があって起こってくるのが道理である。
その前兆に気付くかどうか、気づかなければ突如として起こったと感じてしまう。

この世の中は受の世界である。そのために、受けた刺激に対して正しく反応対応できたかによって悲喜に分かれる。
日常における様々な経験によって、些細なことから学ぶのである。
大事に至らずに済んだことを教訓にするのである。
たとえば、喧嘩は大事に至れば戦争となる発端。小さな傷のうちに学ぶのである。
人生は、傷つきながら生きている・生きていくものであることに正しく学ぶのである。
正しく学んだ経験が知恵である。

知恵の目で見ていけば、損得はなく、
損得ではかられていけば、悪知恵となってあらわれてくる。
それが、無知にして商売に当てはめられれば、利益第一主義となり心がなおざりとなる。
御座なりというというものが作られていく。偏に無知にしてあるために、良かれということが
そうではないことになる。
人の身につくもの、という観点から、食べるもの、着るもの、住まいやら扱うものなどは、
為にならなければならないものである。為にならなければ害されるということにもなる。
病というのは、患った部分が特に刺激されるためで、異常(以上)に繰り返される刺激によって異状となるもので、
過度に刺激されなくなれば消えていくことになる。たとえば、病気としてその病気を意識すればするほど、
病気は絶対化され確かな存在となる。裏返せば、意識しなければ存在とならなくなっていくのである。
人は無視されることによって、自分の存在が否定されていってしまう。それによって、自ら命を絶ったりする事態にもなる。
上手くたとえられないが、同じようなことが肉体にも起こる。
病を絶対化しないということにある。

病が好む食事、食べ物(自然に無い物)、方法(取り方)、過度な気の使い方、無知による誤った感受。
たとえば、
食欲は計算できない。
しかしながら、カロリー計算をしてその熱量の良し悪しで摂取量を決める。
計算できないものに計算されたものを取り入れていくと、異常な刺激となっていく。
そのために、体はどんどん衰退していってしまう。それが痩せたとなるために、誤っていることに気が付かない。
やつれていくことに疑問を持たないのである。

人は自然によって作られているものであるために、すべて自然にならって生きるものである。
おなかがすけば食べ物は美味しく食べられる。どんなに美味しいものでも、満腹であれば食べたいとは思わない。
甘いものがほしくなったり塩辛いものがほしくなったりするのは、体の状態による欲求である。自然な欲求であるために、
それに応じて食べれば美味しいとなり、無理に食べれば不味いとなる。そして、度を越さないように足るを知ることにある。

現在は商売という利益追求のみが先行しているために、安全第一ということがわかっていながらわかっていないのである。
味覚の良いものを作れば売れる。それが、化学的にして作られ、それが安価であれば利益が出る。
そのような調味料が人工的に作られ、様々なものに使われるのである。体内に取り込まれて害になるという良し悪しをあまり重視しない。
基準値内であれば摂取しても構わないとするのである。そのものでは微量であっても、そのものだけを摂取しているのではなく、
さまざまを摂取しているのである。さまざまが集まれば微量も微量でなくなる。
植物を作るのにも化学薬剤、つまり肥料が使われる。残留農薬は適切であっても、その一品だけを食すのでもない。
また、種ができるのが自然であるが、種ができない種の植物を作ったりしている。
常に種が商売として成り立つようにするためである。また、さまざまをコントロールできていくためである。
食べて生きているのが生物である。だから、食がまた生物の数を操れるのである。
そのように自然でないものを食べて、病は多発していく。
細胞の癌化、心筋梗塞、脳梗塞など、血管の柔軟性が奪われてふさがってしまう。

循環型であるために、どこかが塞がって滞ってしまうのは致命的である。
自然は環状体状である。回っているのが道理である。

金融の支配、食にまつわる農業の支配、それに関わる医療の支配、そして、従順にする教育の支配。
利他ではなく自利にある支配の世界、この世が進んでいる道である。
ゆえに、地上人口80億にして淘汰となる世界となっている。
このままにして気づくことなく進んでいく時間線の顛末。
果たして、修正というのは大衆のまとまりがなければなされない。

回っている。道理である。つまり、自分に返ってくるということを気付くなら、
目先に囚われて
悪を為す者もいなくなるものを・・・。




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遣わされた命

2015-01-17 | Weblog
世襲にして代々を受け継ぐ。
二世にして特に苦労をせずその身分上役となる人生。
すでに敷かれてあるレールの上を走るのは羨まれることであるが、
それゆえに計らい行き届かぬという情けにかけることもある。
事足りなさ余儀無くして負を背負う。甘んじているところには、
ただ
堕落のみである。
糾われしものである人生は、ひとえに交互にあり、
縁もゆかりで強弱となり、裏腹ともなる。
努力は苦にして必定の苦も不定となり軽減ともなる。
故、何の努力もせず既存の道を歩むのに、受けたくもない苦を受ける。

何気ない日常の努力、情けをもってしてあたるに、受けるべく必定の苦も消去されていく。

裕福に学ぶものは分け与えることであり、それなくして、敢えて堕落におののく。
現世、富裕にあるもの、その身になぜと問いて、
自力にしてと思えば、未来世において糾えるものにただ従う。
今を身に囲えば害多くを先延ばしして、悉くに終わる。その縁にして再びを同じにして受けるだけである。
身の程を知るためである。
浅ましくあるもの、ただ縛められるものである。

生命というもの、死はないための物語である。
浄化されるまで物語は続く。
それは、多くの苦をもってして与えられているものである。
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