つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

忌み嫌われる

2010-09-30 | Weblog
けちと節約は違う。
けちは嫌われ節約は好まれる。
己の欲にはしる者はけちに他ならない。
けちは結局大損になる。
けちな人間になるな。
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いつの日にか必ず

2010-09-28 | Weblog
悪いことは隠したがるほど暴露する。
悪いことはよく広まる。
悪いことははじめ楽から始まり、後苦しむ。

善いことはなかなか広まらず、
いけないことの逆をいく。
努力が意味の無いものであるなら、その昔より
努力する者は無い。
努力は必ず報われる。さまざまなかたちに成りかわって
その者をいつか喜ばす。
うそではないことを必ずいつかあなたは知ることができる。
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法の慈悲

2010-09-27 | Weblog
神の手と呼ばれる人がいる。
その道の優れた者達。神々にその使命を受けているかのように、
まさに神の使いとして世に現れているように見える。が、
彼ら自体、そのことを思うことなく、時の過ぎ行く過程の中で、
普通に悩み、迷い、葛藤しながらたどる現実に身を置く。
ただの人ではあるが、なみなみならない思いの宿りを、大いなる力によって見出されている。
気を改めさせ、正義に取り持つ者である。同じ姿かたちを持って生き、
普通をなして俗世に混ざり合うが、善も無く悪も無い法の慈悲の慈に遣いだされた者であり、善悪の均等に報いる者たちであるために、なんら世俗と変わらない無常に生きる。

平等はゼロであり、不増不減、対等である。
善悪が無い法であるために、絶対善となって浄化の法となっている。
円運動であるために。

正義を取り持つ者、彼らは報われる人である。
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わずかなキズは大きくなって

2010-09-25 | Weblog
先生と呼ばれる人。師と呼ばれその道の優れたところに導く人。
取り締まる人。
暴く人。裁く人。
悪を戒めて、信用、信頼に絶対的安全を認めてそう呼んでいる。
今その道の人の信用、信頼は地に落ちた。
悪に立ち向かう勇士は無く、ただ保身のためにたくらみをもって偽善を為す。
誰を信じていいものか、何を信じていいものか、疑うことのはびこる世の中は、
世も末という。己の心はだけは知っている。事の善悪を。
偽善をなしての人の道は無い。
ただただ人はお山の大将を好み、争いを好む。人の歴史は殺し合いの歴史を刻んできた。

世の法則は浄化の法則である。
汚れたものは綺麗にされて道理である。
わずかにできたキズは、あれよあれよと大きくなって収拾できなくなるものだ。
近々、悪となった人類のエネルギーは法によって淘汰され、一旦閉じられる。
そう自然は語る。兆しは始まっているのをなんとなく人は感じているだろう・・。
自然の力は人知の及ばないほど凄まじい。
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自分で

2010-09-22 | Weblog
何もしないで人任せ。それは楽である。
何かにつけて心配してくれて、手となり足となってその人に尽くしても、
その人は刹那、幸せであり、幸せとならない。
何もできない人となり、他に頼る人となるために、その命人に握られ、
操り人形のよう。自分の意思が反映されない不自由なもの。
かわいそうと思うのであれば、なんでも自分でこなす人にしてこそ、
手助けである。できることは
自分ですることが本来自分のためである。
生きるということは自分のためである。
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マニアック

2010-09-21 | Weblog
自分の力で生きているとする錯覚を知ることなく生きるものだから、
怖いもの知らず、好き勝手をなす。生かされている、何かを望まれて、或いは、
なにかの機会を与えられていると知ることができるなら、畏怖の念を持ち、大いなる創造主に
答えられるよう生きるものだ。大いなる力の下、その愛、慈悲に報いるべくものである。
微細なものにも神を見出し、巨大なものにも神を思う。彼らはみなあるべくしてあるものであり、ただ無駄にあるものとされているものではない。計らいのもと生きているものである。

完成されたものに変化はなく、固定されたものとなって永遠の形となっている。
無という存在に溶け込んだとき、である。
釈迦こそ人との縁を断ち、絶対という永遠の自由に生きるものとなった人である。
神となり、法に溶け込んだ人である。
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なるべく

2010-09-19 | Weblog
体によいものを食べる。
干したしいたけを粉にして飲む。味噌汁を飲む。
納豆を朝晩食べる。キムチを食べる。ヨーグルトを食べる。
わかめ、昆布、モズクなど海藻類を食べる。ほうれん草、小松菜を食べる。
バナナ、かぼちゃを食べる。
大量ではなく、少量にして食べて医者要らず。
体が欲するものはおいしい。
満腹であれば、どんなにおいしいものでも、美味くない。
ほどほどにして適するものである。
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気がつく

2010-09-18 | Weblog
道理に学び智慧を得る。
自らの経験によって得た識が智慧となる。
体験して得た識であるために忘れることがない。
その智慧の判断は誤りのない判断であり、瞬時に対応が利く。
そのため、突発の出来事にも即断でき、災いを免れる。
忘れることがないというのは、たとえば自転車の練習を思えばよい。
一度乗ることができれば、忘れて乗れなくなるということがないのだ。
どんなに長い間乗っていなくても、瞬時に乗れてしまう。
自転車に対しての智慧を身につけたからである。
智慧の判断は即断であり、あれこれ迷うことがない。
だから自然をよく学び、智慧を身に備えることである。
あらゆる事柄に誤ることがなくなるものだ。
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順序

2010-09-17 | Weblog
順を追って物事は解決するが、
順序違えば問題となる。
縦と横、左と右、前と後ろというように、
物事の後先を思って行動する。
さまざまな関係を当てはめて、順をまちがえないことだ。
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信心

2010-09-14 | Weblog
疑うことをやめて信じることに努める。
信じることが幸せの近道。
信じる人になれば、その思いもかなうようになる。
信心はよいことによく利く。
一途にが信である。

念じるのではなく、信じることが要。
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