つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

精進努力

2013-10-31 | Weblog
この世には努力がある。
努力があるのは今生の為ではなくあの世の為である。
あの世があるために今生の努力があるもので、この世の為ではない。
だから、努力をしても必ずしも実らないことがこの世にはある。だが、
あの世においては、今生の努力が必ず実。
強いて言えば、実らない努力というのはあの世にはないのである。
今生が要となっている。それは、あの世においては向上とか低下とか、つまり、
変化が無いものであるために、精進もなまぐさも要らないというか、
ないのである。この世の果の容であるために、何をしてもそのまま、この世の延長、それも
変化しない延長である。それゆえに、今生の努力というのはとても大事となり、
意義のあることである。
死んでからでは何もかも遅い、つまり、しまいなのである。
だから、生きている時が大事で、向上の変化が望める唯一の場なのである。
もちろん怠慢によって低下もある。
変化があるのがこの世なのである。無常となっている。
この無常が法則の常である。常住である。

この世というのは、この無常を自由として、本人の自由となっているために、
向上か低下かを選べるものである。
向上は幸せにつながり、低下は不幸せに繋がるものとなっている。
法の自由であるために、本人の自由となっている。
無知であれば過つ。
だから、無知というものは怖い。
だから、智恵をもって無知をなくしていくことである。
智恵をもって気づいていくことである。何に気づくのか?道理に気づくことである。
道理(自然)をよく見て気づくことである。
自然は、ただ廻りただ過ぎ去るものであることを知るということである。
そうすれば、終わりなく繋がっていることを知るはずである。
限りなく繰り返す、そこに、幸不幸を重ねれば見えてくる。
誰彼に教わることも無く、道理が教えてくれる‘怠ることなく精進努力’という事が知れてくる。
誰彼に言われることもなく、進んで何をするべきかが知れてくる。
精進努力となっていく。

他人の「ずるい、ずるくない」というのはどうでもよい。
自分の「ずるい、ずるくない」を思うことである。

ずるいということは悪いことである。
悪いことに縁を結べば、悪いことだけが訪れる。
悪は悪によって制裁を受けるもので、善には制裁ということは無いのである。
だから、ただ一言、悪いことはするな!
道理が言っている。
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悪事

2013-10-29 | Weblog
悪事は露呈するものだ。
遅かれ早かれというだけでいずれ暴露される。
それは、今生においても
また
死後においては尚更で報いとなる。
相応以上に責苦になる。

過失は、自らを責めることによって償われていくもので、
そこに自ら知る知らないがあり、‘わざと’という知るが無いためである。
だから、
悪いことはするな。特に悪事と知っててするのは罪深い。
それの償いは、人の世の比ではない恐怖となる。

人は必ず死ぬもので「絶対」にある。
その絶対の世界が法則の世界であり、死後の世界である。
絶対変わらない世界であるために、
悪が作られれば悪の変わらない世界となってしまう。
救いようがない。
法の力には、いかなる力も無力であるために。
そのために、不法とならぬよう精進努力があるもので、怠ることなくが要となっている。
仏は言う。‘法を拠り所とし自らを頼りとせよ’と。

悪事はするな!

本当に怖いものを知ってからでは遅すぎる・・・
・・・嘘か本当かはいずれ絶対知るものである。
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ばか

2013-10-28 | Weblog
倖せをなくす不倫。
怖いもの知らずという恐ろしさ。
無知ほど怖いものは無い。
人の道に外れたことをするのは無知に尽きる。
馬鹿は死んでも治らない。
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温厚

2013-10-27 | Weblog
年を取るということは、今までできていたことができなくなっていくということでもある。
思い描いていたことが思い描けなくなっていく。
思いと身体が裏腹に動き、ちぐはぐに戸惑うものである。
誰においてもそれは免れず、少しの遅かれ早かれの差はあるだけで、朽ちていくことに違いは無い。
「年寄笑うな行く道じゃ・・」と聞く。確かに的を得ているとつくづく思うも、若い時には気が付かず、
ずいぶん恥じたことを思ったりしたものだと振り返って思ったりする。若気の至りというものは致し方ないものがあるが、
若くても気心の優れた人もいて、よく配慮ができて、大したものだと今更ながら思う。
そんな人はすてきなものだとただ感服する。

温厚なもの、気の荒いもの、と生まれながらにしてあるが、
粗暴であってはならないものである。

多く悠久の時を経て、培ってきた持て成しの気であろう温厚という性格。
心配りにはあくまでも温厚というものでなくてはならない。そこにめったにはなくてよい。

年老いて温厚、酸いも甘いも嚙み分けてなる。
手の皺に顔の皺にと滲んで・・・切なく人というもの・・。
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稀と大勢

2013-10-26 | Weblog
それぞれの生まれの場で、それぞれの特徴、特色ができる。
時が進むにつれて、それぞれの場で生まれたものが行き来するようになり、
色が交じり合っていく。そして、
混ざって一つの色ができていく。
更に大きく広く行き来できるようになり、また交じり合って一つの色ができていく。
そのように、だんだん広く交じり合って色が生まれて、このそら(宇宙)
の色となっている。その色は暗く、漆黒の闇である。暗くて周りが見えない。
漆黒であるために艶がある。その艶はまばゆいという光の色、七色に色取られ強く白けて輝き、また周りが見えない。
共に見えない間を越えると、くっきりはっきり世界が見える。
明暗が織りなした絶妙な紋様である。複雑な模様の絵(世界)である。
交じり合った世界は拮抗にあり、どちらか一方ということは無い。それぞれに正負を持ち、それがよいとか悪いとかということは無い。
有効であったり無効であったりと善悪が無いのである。それはその時の日和見となる。

織りなす絵(世界)を見て、究めて超えたものは、どちらか一方という絵(世界)を知る。互いに別々としての存在で、だから、互いに
その世界は相反性がなく拮抗が無い。干渉することがなく均衡も無い。単独である。
釣り合いが乱れるということは無い世界である。

生まれた命、生命というのは、究めて窮めてまばゆい光の色に染まる。
それが本望であるが、えてして漆黒の世界に暮らすものがその他大勢である。

極めて稀なものと他大勢なものは、常識と非常識とが異なる。
極めて稀なものは非常識にあるが、思慮深いものであり分別に富む。意味があってある。
他大勢は常識にとらわれ思慮に欠けていく。分別がごっちゃごちゃ、意味がなくしてある。
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智慧の目

2013-10-25 | Weblog
もし、知識に頼らず智慧の目で物事を見るなら、
知らなかったことでもだんだん知れてくるようになる。それは、
思議のいらないこと、つまり、不思議なこととなるのである。
一つのことを経験として知り得れば、二つの事、三つの事、或は、四つ五つと多くの事を知り得ていく。
一事が万事に繋がっているのである。
道理というのは、その過程、道筋がたくさんあっても
理は幾つもあるわけではなく一つであるために、知ることができていく。
一事を知って万事が知れていくのである。それが智慧の目で見るという事。
不思議は真実である。そんなことが可能としてあるのである。

是が法であり、法は浄化である。その法を見るというのは知恵だけである。
だから、智恵を身につけなさい。
智慧の身に付いた判断は、間違いのない判断となるのである。
法の判断となるために。

是が法則であり絶対となって浄化となっている。そのために、明日が絶対となって信じられ、生きていけるものとなっている。
すべてが
浄化となっているために、自然というのは美しい。何もしなくとも綺麗になっていく。
山は山、野は野、川は川、海は海、空は空…と整然となっている。天地翻ることが無い。
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渇愛、娑婆の人

2013-10-24 | Weblog
娑婆の人というのは、潤いの無い乾いた人のこと。
水が少なく渇水状態にある人のこと。

愛に飢えていて何でも貪る餓鬼の世界に似る。
常に飢餓状態にある人の世界。渇愛である。
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無知なために

2013-10-23 | Weblog
輪廻していく。
生まれては死に、死んでは生まれてと泡沫のように、
人の生命、一生もまた絶え間なく繰り返す。
生きている時だけが変化をきざすことができるために、
過ちの人生として決めつけた時、やり直すことを求めて、
我儘にも
一旦区切ろうとする。
生まれ変わって、初めからやり直そうとするのである。
生まれ変わることによって、魂の向上が見込まれると思うもので、
・・・でも、この思いは間違い。
やり直したいからとして無理矢理自死としても、
それは叶わない。挙句、人でなしの界を行き来してしまうだけである。
或は、その間違った思いを得て、助け船であるとして勝手気ままに、相手の気持ちを無視して
葬ることをすれば、悪魔なこと。
往々にして仏道にいるものもはまる誤った解釈の行為である。
争うことを聖戦としてしまい、正当な抵抗であるとして平気で殺戮に及ぶ事と変わらない。
悪なる行為は悪魔だけがなす行為である。正義に悪は無い。その時、魔がさすということは正義にはない。
人は皆、自分が正義として生きているために起こる過ちである。
無知であるために。
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幸せ

2013-10-22 | Weblog
幼少年期、青年期はそれなり仕方がない。
壮年期ともなれば相応に、老年期には確かに自覚してなければならない。
足ることを覚え貪ることを忘れる。
手に持たず足に桎ず背に負わず頭に抱えず何もない。
愛を知って愛も無く悩みも無く、身の丈に住み小さく暮らす。
心は虚空に住み、智慧によって徳が積まれる。
何も持たないということはそういうことである。
仕合せである。
とても倖せになる。
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自然

2013-10-21 | Weblog
是が諸々の法則となっているために、すべてが法則の下の存在である。
人もまた法則によって作られたものであるために、その質をもっている。
だから、できないという事が無いのが本来である。が、無知から始まっているために、
生きていくという経験によって、一つ一つ無知を克服していくものとなっている。
何も知らないということであるために、ほとんどは過ちながら生き、そこから学習して、
修正すべきかどうかを知る。失敗から学ぶことが多々あり成功となっていく。
敗れて失うのではなく、敗れを知ることによって敗れを失う為に成功となっていくのである。
そのように、負と思われることから正を身に付けるのである。
一概に負を不として捉えてしまえば成功もまたない。
同じ人間でありながら、超人的と思われる優れた能力を持つ人がいる。
その人にできるのであるが、私には絶対できないという能力の差があるが、
同じ人間であるために、その人ができることは、本来私にもできるというものである。が、
一様としてあるわけでは無い為に、無理ではないが無理である。
辿る先は一つであっても、道筋は幾通りもあるために、その道のそれ成りがあるためである。
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