つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

娑婆の人

2013-02-28 | Weblog
水が少ないと書いて「沙」。その下に女を書いている。
女は人であり、
女の人は、陰であり夜であり癒しである。だから、
娑婆の娑は、潤いのない人のことで、癒されない人、渇いている人のことで、
娑婆の婆は、波のように揺れ動いている定まらない人のこと、つまり、悩み多き人のことをいい、
無知のために悟れないでいる人、道理に渇いた人のことで、悩める一般大衆ということである。
俗世間をいう。
娑婆というのは、、一般の人々の住む世界をいう。
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鏡面

2013-02-26 | Weblog
右と左は求心と遠心。
前後違えば左右。
どちらも向心力。
どちらも遠心力。
プラスマイナスゼロ。
変化なし=永遠。
永久。無窮。
私たちの時間は、有限にして無限に広がっていく一つの閉じられた世界である。
現在は常に前進していくために無限に広がっていくが、未来から見れば常に閉じられていく。
放出されていくものは吸収されていくものとかわりない。
特異点は0である。中庸である。中正不易。
その何ものにも左右されない力の間が涅槃である。自由気ままな世界である。
万古不易となっている。
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悪知恵

2013-02-25 | Weblog
よく自然を見て暮らす。
自然は何もしなくても美しい。
それは、自然が浄化の法則となっているために、
人の手を加えなくとも整然となっていく。
自然の持つそれぞれの時間によって浄化されていくのである。

植物はその土地に合えばよく育つ。
寒いところには寒さに耐えられる育ちがあり、
暑いところには暑さに耐えられる育ちがある。
普通に道理を見て、
寒い時期には寒さに耐えられる食物がなる。
暑い時期には暑さに耐えられる植物がなる。

重力によくかかるものは、重力に耐えられる形を成している。
‘頑丈な’、‘がっちりとした’というように。
それぞれに見合った形を成しているものである。

山が高ければ谷も深くというように、道理というのは釣合いをとっている。
まぁ、単純にそのように道理を見て、様々、生活に当てはめる。
道理に合っていれば、不都合が生じたりはしないものである。

人は、その自然を人工的に人に合わせて生きている。
自然を変えてという言い方をするには語弊があるかもしれないが、
他の動物のように、自然に合わせて生きてはいない。
だから、肉体の進化は止まって、退化していくばかりである。
自然の中では暮らしてはいけなくなっている。

人工的に植物を栽培し、冬でも夏の食べ物を作り食べている。
太陽の恵みを必要とせず、大地の力も必要とせず、人工的に作られた栄養素で育てたりもする。
そのようなものは、色も形も育ちも大きく早くできる。
人の好みとするところに当てはまるようにだけ作られているために、見た目はきれいである。
不自然に。
人の知恵で作られているものであるが、道理を無視しているために、知恵でも悪知恵である。

暑い国には暑い国の食べ物、
暑い時期には暑い時期の食べ物、つまり、水分が多く、体を冷やすような食べ物になっている。
寒い国、或いは、寒い時期には、水分が少なく、体を温める働きのする食べ物になっている。
道理はそのように辻褄が合うように作る。それが自然である。
その自然を操って、人の感情に合うものだけで作られたものが、害になる事を知らない。
どれが季節に合った食べ物なのかも分からなくなってしまう。一年中作られてあるために。
して、道理に合わないものを食べて、体は変調をきたす。様々な病が起こる。
慢性的に、生きていれば病気にかかって当たり前と納得してしまう。自らの誤った行為に気付かない。
自然を見て、なぜ?を思い道理に合った生き方をしていれば、不都合が生じたりはしないものであるが・・・。
こんな一つの事柄にしても、
人は、知恵を悪く使ったりする。それはかなわない。すべてに。
悩み苦しむ事を自ら作る。よいとしたことが、ただ無知のために。

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真如

2013-02-24 | Weblog
高学歴を有していても、頭がよいというわけではない。
道徳こそ人間育成に必要なもので、人格形成に大いに影響を及ぼす。
道徳を学び実践する事こそ大事である。
よいことを見聞きしても実践していかなければ用をなさない。
道徳は学問の基本である。基本ができていなければ、何を学んでも間違って取り込まれてしまう。
後に必ず行き詰まる。とても頭がよいのに、犯罪に手を染めてしまったりするのである。
基本がなっていないために起こる。

道の理をよく知って徳(恩恵)となるもので、師はすべて自然である。
その自然に学べば知恵が付く。これが恩恵である。知恵の判断は道理の判断であるために、誤りのない判断となる。
即断となるために考える必要がなく、瞬時対応となる。そのため、災いからとっさに避けられてもいく。
あらゆる事柄に徳となっていくのである。
その自然を是として、是が諸々の法則である。
是は‘これ’と訳すのではなく、日が正しいと書いている。
日が正しいというのは、太陽の運行、つまり、東から上り西に沈んでいく日の廻りが絶対であることを示し、
狂いなく廻るものであるために、無くなることがない法則であるとして、法則を「是」としている。
道理である。だから、永遠という唯一の法則で、これを自然といい、して、自由。
この自由である自然によって、地上の変化に対応して諸々の存在となっている。
地上の変化が様々な生物の生滅である。繰り返すだけで、無くなってしまうわけではない。
是が無くならないためである。
時として、道理と合わなくなれば消滅となるが、地上に明日がこないという事はない。
変わりなく明日はやってくる。この常が無くなることがないために無常という。
これが法則であり是である。絶対という。して、如来といい唯一な、である。
真如、エネルギーの自由である。
真理より来たれるもの、如実により来たれるものである。

真如=万物に備わる、永久不変の真理と辞書にある。

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観音と見る

2013-02-23 | Weblog
この身に現れる事柄は、観音の変化(へんげ)の姿であると捉えられる人であるなら、
悲哀に満ちた人生も糧である。また、
享楽甘んじることなく、広く慈悲深く精進努力怠ることなくして、やがて安楽に転じる。
人の世の中、不条理にして、
私だけ、どうしていつもこんな辛い目にあうのだろうと思ったりするが、
誰でもそんなことは多々あるものだ。
私だけではないのに、私だけと思いがち。

人は無知から起こり、不完全、未完成でいきるものであるから、不都合を起こす。
その不都合によって不足が知れて、不足が補われる現象となる。

世の中は、相対してあるもので、でこぼこ合わさって平ら、一対
一事に治まっている。
足りないものがあれば補われるべくものがある。
補われて平成となる。まるくおさまるという。
男と女がいるように、山と谷があるように、昼と夜があるように、晴れと雨があるように、暑さ寒さがあるように、創造と破壊があるように等々々。
合わさって円満。万事。

人に、あらゆる偶然が補足に然りである。
悲しみに出遭うのも然り、喜びに遇うのも然り、
そのときに、
慈悲の慈を知り悲を知ることによっって、慈悲深い人になれることを導く。
そして、それは思う人の心の中にあり、自由である。
足るを知る者になれ
でなければ、悲哀満ち満ちて生きる。
糧とすることがなければ、自分だけどうしてこんな目にといつも思うばかり。
何度も何度も繰り返す。そこに、神も仏も居はしない。入もしない。

三十三変化現れて、あの手この手と導くも、観音と見ることがなければ、
愚痴るばかりに終始する。安楽に転じる事はない。
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具足妙相尊

2013-02-22 | Weblog
不思議な事に、
今生、幸せを生きたとすれば、
来世、不幸せを生きる。
その人生を終えて、再び幸せを受ける。
そして、
その人生を終えて、再びを受ける

朝を迎えて夜を迎える。
雨が降って晴れとなる。
日曜日の後は月曜日となる。

再びは、どう思うかの心の中にある。
繰り返すというのは、同じをというのと交互をというのと。

罪がないものに罰が当たることはない。
不条理な事は起こらない。
道理にないことを無理な事というのだから。
不思議な事は、知恵が付いた身に起こる。
具足妙相尊。
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むやみに

2013-02-21 | Weblog
豪華である必要はない。
いいものが豪華ということもない。
質素であることと仏は訓える。
倹しくあり、慎ましくあることが、
好ましい事であると訓える。
倹しくあっても、
吝嗇であるようにとは訓えてはいない。
吝嗇は最低である。
よく間違えて、出し惜しみ、ケチになることを節約と思っている人がいるが、
憐れなほど馬鹿である。また、ごてごてと飾り付けてよいものだと思っている人がいるが、
憐れなほど阿呆である。
簡素にして美しいものである。素晴らしいものである。
何かにぬきんでるものは、めだたなくあっておとなしい。きわめて簡単。
それでいて、広く知られる。
無闇に吼えない飾らない。よいものというのは。
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宝の持ち腐れ

2013-02-19 | Weblog
般若心経の一つ一つの文字は、ちゃんと意味を持って当てられているもので、
梵語である発音が似ているとして当てられている文字ではない。
発音を訳して当てられている文字ではない。
漢字はそれぞれ意味を持っている。その意味通りに文字が当てられ、訳されているものである。
般若は知恵と訳されるものではない。
「開経偈」にもあるように、心経の文字に礙げられずに、くれぐれも正しく解して下さるようにと願っている。
危惧しているものである。えてして、
文字に惑わされて、文字の意味を間違って受け取ると、なんとも理解しがたいものとなる。
わかったようでわからない、意味不明になり、都合よく解釈してしまう。わからないが、ただ
有難いお経なのだろうとなってしまう。当然何の御利益もない。
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努力

2013-02-18 | Weblog
光があれば影がある。
どちらかだけということはありえない。
幸せもそうである。不幸を知らないで生きていく事はできない。
幸せになりたければ不幸も味わう。
だから、
本当に幸せだけを望むのであれば、
幸せも不幸も思わない事である。
苦も同じである。
楽をしたければ苦しまなければならないもので、
苦しみたくなければ、楽を望まない事である。
世の中は相対、相反してあるものだから、
山が高ければそれだけ谷も深くなる。
寒さ厳しければ、暑さもまた厳しくなる。
そのように、つりあい存在している。
だから、喜びの後には苦しみが必ず来るから、でも、
その苦しみをできるだけ少なくすることはできる。
相対しているためになくす事はできないが、和らげる事はできるのである。
それが日々の努力である。努力する事は苦しい事であるから、
日々の努力によって、必ず受ける苦しみの苦を少しずつ消化していくことである。
そして、対等、相対している事となるために、
苦を苦にすることなく過ぎ去っていく。すればまた、楽が来る。
自分で出来る進んでする日々の努力(苦)こそ楽である。
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隷属は苦

2013-02-17 | Weblog
すべての隷属は苦であると仏は教える。
だから、隷属するな。・・とは言え、
経済社会、これといった能力もなければ、何かに従って生きなければならない。
その場合、できるだけ心ある人、情けある人、優しい人、愛する人、に従うとよい。
何もあえて言われなくとも、それくらいは分かるよと言われるかもしれないが、
心持正しい人は、実に世の中に乏しいのである。
ほぼ、経済が順調にまわっている時は人の心根は分からないものだ。
偽善が多く、常に罠をかけあっている。
狐であり狸である互いの化かしあいで生きている。
それが経済優先社会、資本主義、社会主義、共産主義も不完全、不健全な主義である。
封建的な趣旨を持つ。人は誰でもお山の大将になりたがるものだから。
金回りが好いときは、人はやさしいものだ。だけど、金がうまく回らなくなれば、何かと人の本性が出てくる。
やさしかった人が、冷たい人だったという話はよく耳にする。
浅ましく、粗暴になってしまったりする。
貧しくなったとき、困ったとき、咄嗟に窮地に追い込まれたとき、その人の心根があらわれる。
貧困、追い込まれた状態にありながらも、支えあう人、助け合う人、励ましあう人、労わり合う人は心根がよい人である。
真に優しい人である。だから、優れた人という。
人が何事かに憂えて、我が身をつねって人の痛さを知り、
とった態度が愛ある行動であるから、人が憂えて優しいといい、何にも増して優れると字は当てる。
貧しいときは、他人の心も自分の心もよく分かる。だから、その時を体験して、したくなくても体験する事態になったら、
糧とすることである。心の糧である。その時々、歪むも糧とするのも自由である。

包丁も原子爆弾も扱い方が誤れば危害を加えるものである。
車もその通り、操縦するものの扱いによって善悪分かれる。
危害損傷の多大さの違いはあれど、死に至らしめることには違いない。その悲しみに差はない。
どちらに傾くかは、扱うものの感情に左右される。その時のその安易な思いによって、
大まか引き起こされるものである。そんなに緻密に考えられて引き起こされるものではない。
案外単純な怒りによるものであるから、取り扱いがより難しく、完全制御できていないものは作ってはならないのである。

完全に制御できないと言えば、人の心こそ難しいものである。
その難しいものが扱うものだから、その時々の条件によって事件となる。
よく自分の心を調える事である。
何かに挑むときは、他人を見るのではなく、自分を見て挑むものを見て計り、励み望む事である。
敵は我にありというのは実にその通りであるから。

師を自然とし、自然に学び、体験した識は知恵となり、
我が身の血となり肉となる。身に付いて忘れる事が無くなる。すれば、
予めを知ることができ、戦争を経験しなくとも、戦争の悲惨さが分かり、
してはいけない事が分かってくる。感情に振り回される事がなくなっていく。
大小善し悪しが自然と知れてくるものとなる。
それが知恵の力である。
一事が万事に繋がるものであるためである。
誰に従う事も無く、心を込めて、自然に学べば自然は訓えてくれる。自然に師となっていく。
心のこもった者となる。
自然に学び、知恵を付け、隷属を離れる事である。


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